3月24日の深夜、2006年に勃発した不正行為スキャンダル「カルチョポリ」をめぐる刑事裁判の上告審が結審しました。主犯格のルチャーノ・モッジ(元ユヴェントスGD)、アントニオ・ジラウド(同代表取締役)、インノチェンツォ・マッツィーニ(元FIGC副会長)、ピエルルイジ・パイレット(元FIGC審判指名責任者)ら18人に下された判決は「時効による免罪」。無罪ではないが有罪は確定しないという、あまりにもイタリア的な灰色判決です(ベルルスコーニもこれに何度も助けられている)。日本では一部のサイトなどで「無罪判決」と報じられていますが、これは謝罪訂正レベルの間違い。
いずれにせよ、この判決で9年にわたる騒動にも一区切りがついたので、改めてこの事件の重大さを振り返る意味で、当時リアルタイムで事態を追いながら書いたテキストを順次上げて行こうと思います。今回はそのイントロ的な意味で、今回の裁判でただ1人有罪判決を受けたデ・サンティス主審による「疑惑のホイッスル事件」を含む、99-00シーズンのスクデット争いについてのたっぷり長いテキストをどうぞ。

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いったい誰がこんな結末を予想しただろう。快晴のペルージャを突然襲った土砂降りの雨、85分にわたる長いインターバル、そして伏兵・カローリのゴールで背負った1点のビハインドの前にあまりにも力なく崩れ落ちたユヴェントス…。

第33節のユヴェントス-パルマ戦(5月9日)が、イタリア中を揺るがすスキャンダルに発展したデ・サンティス主審の「疑惑のホイッスル」(試合終了直前、カンナヴァーロの同点ゴールを幻に終わらせる不可解なファウルの判定)によって1-0に終わり、ユーヴェが2ポイントのリードを保ったまま最終節を迎えた時点で、ラツィオがプレーオフも戦うことなく逆転優勝する、という賭けに乗る者は、おそらくイタリア中に誰1人いなかったに違いない。

残り1試合となってからの1週間、イタリアを支配し続けたのは、順当に行けば最終戦は両チームが共に勝ちユヴェントスがそのまま優勝、もしユーヴェがペルージャで引き分けてプレーオフにもつれ込んだらそれだけでも大番狂わせ、という空気だった。

当のラツィオのクラニョッティ会長ですら「ユーヴェとペルージャでは力の差がありすぎる。トトカルチョ風に結果を予想すれば十中八九は“2”(アウェイチーム=ユヴェントスの勝利)だろう」と諦めのコメントを出していたし、ラツィオのウルトラス(サポーター・グループ)に至っては、最終戦のキックオフ直前まで、胸に「2000年5月9日、カルチョは死んだ」と書かれたTシャツに身を包み、黒い棺桶を背負って、スタジアムの外で「疑惑のホイッスル」に抗議する「カルチョの葬式」を執り行っていたほどだったのだ。
 
ラツィオ72ポイント。ユヴェントス71ポイント。昨シーズンに引き続いて、ペルージャでの最終戦にスクデットの行方が託されたセリエAは、昨シーズンと同じように「追う立場」に立ったチームの、1ポイント差の逆転優勝で幕を閉じた。違ったのは、2年続けて「スクデットの審判者」となったペルージャが、今回は勝利によって「最後の審判」を下したこと、そして、昨シーズンは土壇場で涙にくれたラツィオが、今シーズンはついに優勝を勝ち取ったことである。

あと8試合を残した時点で、ユヴェントスがラツィオに9ポイントもの差をつけて首位に立っていたことを考えれば、このスクデットは、「ラツィオが勝ち取った」以上に「ユーヴェが失った」スクデットとして記憶されることになるのかもしれない。ラスト8試合の成績は、ラツィオが7勝1敗(22ポイント)、ユヴェントスが4勝4敗(12ポイント)。

とはいえ、シーズンを通して見れば、ラツィオの21勝9分4敗に対して、ユヴェントスは21勝8分5敗。これは、1試合を引き分けたか負けたかの違いでしかない。しかも、94/95シーズンに3ポイント制が導入されて以来、優勝ラインといわれる70ポイントを2位のチームが突破したのは今回のユヴェントスが初めてである。

その点から見れば、シーズンを通してほぼ常に上位ふたつの椅子を占め続け、最終戦までギリギリの争いを続けたこの両チームの戦いぶりは、共にスクデットにふさわしいものだったといっていいのではないだろうか。なにしろ、最後の最後で勝負を左右したのは、青く澄み渡っていたペルージャの空に、5月としては過去にほとんど例がないという雹まじりの土砂降りを降らせ、試合を長い中断に追い込んだ「カルチョの神様」の気まぐれだったのだから…。
 

セリエA99/2000シーズンの主役となったこの2つのクラブは、あらゆる意味で対照的な存在である。ヨーロッパ的な落ち着きを持つ北イタリアの大都市・トリノを本拠地としながらイタリア中にファンを持ち、101年の歴史の中でスクデット25回と、常にカルチョ界の頂点に君臨してきたユヴェントス。イタリア的なカオスに包まれた首都ローマにあって、しばしばライバルであるローマの後塵を拝し、100年の歴史を誇りながらスクデットはたった1回(’74年)、しかも’80年代の大半をセリエBで過ごすなど、つい数年前までは中堅どころのクラブでしかなかった新興勢力のラツィオ。

背景となる都市の気質、クラブとしての歴史や「格」だけでなく、チーム作りのポリシーと戦略においても、この2つのクラブは大きく異なっている。

ラツィオがこの数年進めてきた戦略をひとことでいえば「最高の選手を集め、最強のスター軍団を作る。そのための投資はいとわない」ということになるだろう。昨シーズンはヴィエーリ、サラス、ミハイロヴィッチ、コンセイソン、今シーズンはヴィエーリこそやむを得ず放出する羽目になったものの、ヴェロン、シメオネ、S.インザーギなど、国籍に関わらず代表クラスのスター選手を買い集め、セリエA随一といえる厚い選手層を誇るチームを構築した。その根底にあるのは、「チームの力は個人の力の総和で決まる」という考え方である。

一方のユヴェントスが、それとは明らかに異なるポリシーに基づいてチームを構築してきたことは、この数年の補強戦略を見れば明らかだ。大金を積んでスター選手を引き抜いてくるよりも、ネームバリューは低いが将来性のある若手・中堅選手(できればイタリア人)に的を絞り、数年かけてトップレベルの選手に育て上げるというのがその基本方針である。

古くはトッリチェッリ、ディ・リーヴィオからペッソット、ユリアーノ、ザンブロッタまで、それまではほとんど無名だった選手がユーヴェに来てから代表クラスまで育った例は枚挙にいとまがない。逆に、ユヴェントスに移籍してくる前からスターだった選手は、レギュラー陣の半分にも満たない。

大事なのは、すべての選手がチーム・スピリットの元に結束し、その中でひとりひとりが自らの力に応じた役割を担って、ユヴェントスの勝利に最大限の貢献を果たすこと。「組織の力は個人の力の総和を上回る」という考え方なのだ。多くのビッグクラブが20人を大きく上回る選手を抱え込み、ターンオーバーによってハードスケジュールを乗り切ろうとしたにもかかわらず、ユヴェントスがその流れに逆行するような少数精鋭主義を貫いたのもそのためだろう。

土壇場で優勝を逃した昨シーズンの時点ですでにセリエAで最も豊かなメンバーを誇っていたところに、更なる補強を果たしたラツィオと、インタートトからシーズンを始めなければならなかったにもかかわらず、数人の選手を入れ替えただけで、近年最も不名誉なシーズンとなった昨年とほとんど変わらない布陣で開幕に臨んだユヴェントス。マスコミの下馬評が、ラツィオをミラン、インテルと並ぶ優勝候補に挙げる一方で、ユヴェントスをそこから一段下のダークホース扱いにしたのも、ある意味では自然なことだった。


 
開幕を前に、マンチェスター・ユナイテッドとの欧州スーパーカップを1-0で制したラツィオは、カンピオナートでも安定した強さを見せる。9月後半から10月前半にかけての、チャンピオンズ・リーグと合わせて毎週2試合というハードスケジュールを乗り切るために、エリクソン監督は、試合毎に5-6人のメンバーを入れ替えるという大胆なターンオーバーを採用し、自慢の厚い選手層を最大限に生かそうとした。序盤の直接対決も、パルマ(4節)にはアルメイダの35mボレーシュートが決勝点となり2-1、続く5節のミラン戦も乱戦の末4-4の引き分けに持ち込み、6節には4勝2分(14ポイント)で単独トップに立つ。

一方、7-8月をインタートトで過ごしたユヴェントスは、ホームでの開幕戦で昇格組のレッジーナと1-1で引き分け、4節にはアウェイのレッチェ戦(こちらも昇格組)を0-2で落とすなど、もたつき気味のスタート。結果以上に内容の悪かったこの敗戦で、マスコミとサポーターの批判の矛先は「収支のことばかり考えてチームを補強しなかった」フロント陣、そして「選手に甘く統率力に欠けた」アンチェロッティ監督に向けられる。

続くヴェネツィア戦も、後半ロスタイムまで0-0。この危機を救ったのは、昨シーズン、リッピ監督と対立してレギュラーの座を追われ、放出は確実といわれながら、アンチェロッティ監督の信頼を得てチームに残ったキャプテン、アントニオ・コンテだった。彼の決勝ゴールで貴重な3ポイントを勝ち取ったこの日が、その後22試合続く無敗記録の第一歩となる。

ユーヴェの悩みは、ジダン、デル・ピエーロという攻撃陣の柱2人が、共に故障上がりで調子が出ないところにあった。インタートトから絶好調のインザーギがいるとはいえ、彼ひとりに頼るには限界がある。ベンチにはUEFAカップで得点を重ねているコヴァチェヴィッチも控えていたが、アンチェロッティ監督はあえて、不調の2人が試合を重ねる中でベストフォームを取り戻すのを待つ、という忍耐の必要な道を選んだ。

カンピオナートは長い。彼らの力がどうしても必要になるときがいずれ来る。勝負をかけるのはその時だ…。頼みの綱は、緑内障を克服したダーヴィッツ、6年目にしてやっとレギュラーの座を勝ち取ったタッキナルディが支えるソリッドな中盤と、最も不安視されたにもかかわらず安定したパフォーマンスを見せるフェラーラ、ユリアーノ、モンテーロのディフェンスラインだった。

こうしてユーヴェは、圧倒的な強さを感じさせることがないまま、厳しい1点差のゲームを堅いディフェンスでしのぎ切るという戦いぶりで、6節に2位につけると着実にポイントを重ね、首位のラツィオをぴったりマークして追走を続ける。
 
カンピオナートで単独トップに立ったラツィオは、チャンピオンズ・リーグでも早々と2次リーグ進出を決める。ヴィエーリを失い得点力の低下が危惧された攻撃陣も、ヴェロン、ネドヴェド、コンセイソン、シメオネ、スタンコヴィッチといった世界屈指の「攻撃的中盤」の背後に、迫撃砲・ミハイロヴィッチが控えるという、まさにどこからでも点を取れる布陣で、ミラン、ローマとチーム得点数の首位を争っていた。

特にヴェロンは、ボールに触る回数がやたらに多かった割には得点に結びつくプレーが少なかった昨シーズンまでとは打って替わって、ゴールに向かう組み立ての中で効果的に機能できるプレーヤーに成長、攻撃の基準点としてなくてはならない存在となっていった。

そんなラツィオが陥った最初の落とし穴が10節のローマ・ダービー。ローマの2チームが共に好調を維持し、首位争いに全面的に絡むという、近年ほとんどなかった状況で迎えたこの戦いは、前半の30分でローマがカウンターを4発見舞うという、予想を超えた展開となった。

最初の10分で0-2となった後、焦燥感に駆られて前がかりになったチームは、縦パス1本でDFラインの裏を取られるという全く同じパターンで更に2点を失う。エリクソン監督は修正の指示を出すこともなく、あまりのショックにただ茫然と立ちつくすばかりだった。

1-4で終わったダービー(これがシーズン初黒星)の翌日、100人以上のウルトラスが、ローマから車で30分ほど離れたフォルメッロにあるラツィオの練習場に押し掛けて、選手たちにありとあらゆる罵詈雑言を浴びせかけ、警官隊と小競り合いを繰り返す。

敵は本能寺にあり。セリエAで首位を守り、欧州の舞台でも順風満帆であるにもかかわらず、ダービーを落としただけでこのように逸脱した暴挙に出るウルトラスの「プロヴィンチャリズモ」(田舎根性)に、国際的なトップクラブへの脱皮を目指すクラニョッティ会長は苛立ちを隠さなかった。会長とサポーター・グループの対立は、この後も何度か表面化することになる。

このダービーの後、ラツィオ、ユヴェントスにローマを交えた三つ巴の首位争いが12月まで続く。しかし、クリスマス休暇を目前にした99年最後の試合(14節)で、ローマが序盤の不調から復活したパルマに0-2の完敗。カンピオナートは首位ラツィオ(31ポイント)の3ポイント下に2位ユーヴェ、そこから5ポイントの間にパルマ、ローマ、ミラン、インテルが並ぶという、混戦模様の展開のまま、新たなミレニアムに突入することになった。
 
19日間という史上最長の「冬休み」を終えて再開したセリエA。ラツィオは、年明け初戦、ヴェネツィアの凍りついたピッチで座礁(0-2)し、その2試合後にもレッジョ・カラーブリアで0-0の引き分け。前半戦最後の3試合で3ポイントのリードを使い果たしてしまう。17節の折り返し地点を迎えたときに、「冬のチャンピオン」の座に立っていたのは、ラツィオではなく、相変わらず得点、失点ともに少ないという地味ながら安定した戦いぶりを見せたユヴェントスだった。

リッピ前監督時代と比べると、チームの「重心」は明らかに引き気味になっているものの、中盤とDFラインの間をコンパクトに保ち、相手が自陣内に入ってきた途端に激しくプレスをかける攻撃的な守備戦術は相変わらず。相手に決して速攻を許さない中盤のフィルターの厚さが、17試合でわずか8失点という堅いディフェンスの鍵となっていた。

しかし、中盤が引き気味になった分、ボールポゼッションに重きを置くよりもカウンター志向が強まった攻撃陣は、ジダンが復活したとはいえ、そこで存分に能力を発揮すべきデル・ピエーロがいまだ本来の姿を取り戻せずにいることもあって、1試合平均でわずか1.3得点と、ミラン、ローマの2.0、ラツィオ、インテルの1.9と比べると大きく見劣りするレベルにとどまっていた。

とはいえ、「失点しない限り負けることはない」というのが、イタリアサッカーの金科玉条である。後半戦に入っても、ユーヴェはこのペースを崩すことなく、着実にポイントを積み重ね、首位の座を確かなものにしていくのだった。

「セブン・シスターズ」による熾烈なスクデット争いが期待された今シーズンだが、後半戦は、事実上ユヴェントスとラツィオのマッチレースといってもよかった。早々に首位戦線から脱落したフィオレンティーナに続き、年明けにはパルマが急降下、ローマも、中田の獲得がむしろ仇となって微妙なチームバランスを崩し、ユヴェントスとの直接対決(23節)を落として首位戦線に別れを告げた。何とか首位から6-7ポイント差にしがみついていたミラノ勢(ミラン、インテル)も、3月に入ってずるずると後退。

そして次はラツィオの番だった。ユーヴェが、21節のレッチェ戦から26節のトリノ・ダービーまで6連勝を飾る間、22節のミラン戦、そして26節のヴェローナ戦と痛い黒星を喫してしまう。あと8試合を残したこの時点で、ユーヴェからのビハインドは9ポイントにまで開いていた。

実はこの時期、ラツィオを悩ませていたのは、チーム内の不協和音だった。開幕から積極的なターンオーバーによって不満と消耗を抑えながら、厚い選手層を有効に使いこなしてきたエリクソン監督だったが、そうはいってもすべての選手を平等に起用することは不可能である。シーズンが深まるに連れ、出場機会が少ない一部の選手(アルメイダ、サラス、ボクシッチ、コウト、マンチーニなど)が不満を表に出し始める。中盤両サイドに陣取るコンセイソン、ネドヴェドの攻撃力を生かし、なおかつヴェロンの守備の負担を減らすために、敢えて踏み切った4-4-2から4-5-1へのシステム変更も、FW陣から不興を買うことになった。

普通のチームならばそのまま空中分解してもおかしくないこの危機を乗り切ったことが、ラツィオが最後の最後でスクデットを勝ち取った最大の要因といってもいいかもしれない。エリクソン監督は、選手たちの不満に妥協するどころか、逆にターンオーバー制に見切りをつけ、メンバーを固定して戦うという選択でこの状況に応えた。サンプドリア時代から「ピッチ上の監督」として全幅の信頼を寄せてきたとはいえ、衰えが隠せなくなったことで逆に扱いが難しくなったマンチーニを、テクニカルスタッフ兼任に格上げして観客席に送る、という荒療治までやってのけたのだ。
 
残り8試合で9ポイント差。誰もがユヴェントスのスクデットは確実と思ったこの時が、実は最後のドラマの幕開けだった。

続く27節、ユヴェントスはアウェイのミラン戦を、内容的には上回る試合ながらも0-2で落とし、23試合ぶりの黒星を喫する。そしてその翌日、ラツィオを待っていたのは「シーズンを賭けた」ローマ・ダービー。試合開始直後にPKを与え先制された時には、1-4で惨敗を喫した11月の再現か、と思われた。しかし、右からコンセイソン、アルメイダ、ヴェロン、シメオネ、ネドヴェドと並んだ中盤がピッチを完全に制圧、前半25分(ネドヴェド)、28分(ヴェロン)と、たった3分間で試合をひっくり返し、そのままリードを守り切った。これで6ポイント差。ラツィオは、続くユーヴェとの直接対決も、シメオネのゴールで1-0と制し、一気に3ポイント差まで詰め寄った。

ここから「ペルージャの長い1日」に至る最後の6試合の経緯は、いまだ記憶に新しいところだろう。30節のフィオレンティーナ戦、ラツィオはロスタイムにバティストゥータのFKで3-3に追いつかれ、ユーヴェとのポイント差は5ポイントにまで開く。

マスコミの大部分が「これで本当にユーヴェのスクデットは決まり」と書き立て、クラニョッティ会長すら「残り4試合で5ポイントは厳しすぎる」と事実上の白旗を掲げた。しかし、エリクソン監督だけは決して諦めなかった。「何が起こるか最後までわからないのがカルチョです。可能性がある以上、私はスクデットを信じ続けますよ」。

彼が正しかったことは、その後の結果が証明する通りだ。32節、ユヴェントスがヴェローナ戦でよもやの0-2を喰らい、続く33節には、ユーヴェ-パルマで「疑惑のホイッスル事件」が勃発する。そして迎えた最終節のあまりにも意外な幕切れ…。

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シーズン最後の8試合で4敗を喫した(それまでの26試合はわずか1敗)という結果から見る限り、7月のインタートトから始まった長いシーズンを、13-14人のレギュラーで戦い抜く、というユヴェントスの選択は失敗に終わった、ということになるのかもしれない。

しかし、シーズンを通して、チームの顔ぶれだけを見れば明らかに力の上回るインテル、ミラン、パルマなどよりもずっと安定した戦いを見せ、昨シーズン優勝したミランの70ポイントを上回る71ポイントを獲得した(20失点はダントツでリーグトップ)という事実を見る限り、そう言い切ってしまうのはあまりに安直すぎるのではないかという気もする。

たった1試合で決まるカップ戦とは違い、カンピオナートは約9ヶ月、34試合に渡る長丁場である。そして、スクデットの行方を左右したのは、ほんのちょっとした勝負の綾でしかない。あえていうならば、デル・ピエーロが結局「ゴールへの道」を見出すことができないままシーズンを終えてしまったことが、戦力的な側面から見た唯一の誤算であり、終盤戦でインザーギが不調に陥った(最後の9試合はノーゴール)時に、コヴァチェヴィッチという切り札を有効に使い切れなかったことが、采配上おそらく唯一のミスだった。

それでも、総合的に見るならば、今シーズンのユヴェントスは、これまで一貫してクラブとしてのポリシーであり続けてきた「組織の力は個人の力の総和を上回る」という考え方の正しさを改めて証明したといってもいいのではないだろうか。

一方、他の多くのビッグクラブ同様、「チームの力は個人の力の総和で決まる」という考え方の下でチームの強化を続け、3年目にしてついにスクデットを勝ち取ったラツィオにしても、決め手になったのはエリクソン監督の卓越したチーム・マネジメント能力だったといっていい。ここまで大胆なターンオーバー制を導入してシーズンを戦ったのは彼が初めてだったし、その限界が見えるや否や、メンバーを固定して最後の勝負に賭けた決断も賞賛に値するものだ。

チームのポテンシャルを生かし切る適切で柔軟な采配があったからこそ、ラツィオは、カンピオナート、チャンピオンズ・リーグ、コッパ・イタリアという3つの舞台ですべてタイトルを狙いながら、長いシーズンの最後をスクデットで飾ることができた(この原稿を書いている時点では、コッパ・イタリア制覇のチャンスもまだ残されている)。チャンピオンズ・リーグ準々決勝(対ヴァレンシア)の第1戦(2-5)だけが悔やまれるが…。

最終戦でユヴェントスを破ったペルージャのカルロ・マッツォーネ監督が試合後に語った言葉が、今シーズンのカンピオナートを最も端的に言い表している。「ラツィオは一番強かった。ユヴェントスは一番よく戦った」。□

(2000年5月17日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。