レアル・マドリーのCL2連覇は、フットボールにおける、あるいは監督の手腕を論じるに際しての「戦術」の位置づけについて、改めて考えるきっかけを与えてくれます。R.マドリーが擁する「個のクオリティ」の絶対値が世界中のいかなるチームよりも高いことは確かですが、それだけでCLという世界で最も難易度の高いコンペティションを2年続けて勝ち取れるわけではないこともまた確か。ジダンがどのような考え方に基づいてどんなトレーニングをして、どんな約束事をチームに課していたのかというのはすごく興味深いところです。
というわけで、8年ほど前にfootballistaの連載コラム「CALCIOおもてうら」に書いた「戦術家」についての考察です。グアルディオラが1年目でCLを制覇した直後というタイミングでしたが、彼についての言及はありません。この当時はまだシステムというのは固定的なものだと考えられていたとか、いろいろ時代を感じさせる部分もあります。

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いつもは筆者の恣意的なテーマ選択に基づいて好き勝手なことを書かせていただいているこのコラムだが、今回は、編集部から本号の特集テーマに合わせたお題をいただいた。「戦術家には限界がある」というのがそれだ。

戦術家には限界がある?

こういうテーマについて考える時には、まず言葉の定義を明確にする必要がある。「戦術」とは何を指す言葉なのか?「戦術家」とはどんな監督なのか?「限界」というのは?まずこれら、議論の土台となる定義をはっきりさせておかないと、議論の出発点自体がズレてしまう。

というわけで、まずは「戦術」という言葉の定義から。ここでは「サッカーチームを、ピッチ上で組織として機能させ、勝利に導くことを目的とする手段と方法の総体」とでも言っておくことにしよう。英語で言えばタクティクスだ。

英語でタクティクスと対になる言葉はストラテジー、つまり戦略である。こちらは、ピッチ上における具体的な手段と方法ではなく、それを規定する目標設定、作戦計画、言ってみればゲームプランだと定義することが可能だろう。

では、その「戦術」の中身、すなわち「手段と方法」とは、具体的に言うと何なのか。これを最も単純に言えば、選手をピッチ上にどう配置し(システム)、どんな仕事を与えるのか(タスク)となるだろう。

つまり、こうなる。「戦術とは、システムとタスクのことである」。

理屈の上では、これで最低限の議論の土台はできたはずだ。そして「戦術」を理論として机上で議論するだけならば、とりあえずこれでも十分ではある。

「4-3-3はピッチをバランス良くカバーできるシステムだ。トライアングルが多くできる上に、サイドにも人数が配置されているので、ボールポゼッションを土台に据えてサイド攻撃を重視する戦い方に向いている。しかし、前線中央の人口密度が低いため、フィニッシュの局面に人数がかけにくく、また無理に人数をかけようとすると布陣が前がかりになってカウンターを浴びるリスクが大きくなるなどの欠点もある」

これはシステム論の一例だ。

イタリアではよく「サッカーは丈の短い毛布のようなもの」と言われる。肩まで引き上げれば足が出て、足を覆おうと思えば肩がむき出しになってしまう。つまり、10人のフィールドプレーヤーで縦105m、横68mのピッチすべてを効果的にカバーすることは、元々不可能だということだ。

どのシステムにも必ずどこかに穴が空く。その意味では、4-3-3であろうが、4-2-3-1であろうが、3-4-1-2であろうが、システムそのものに優劣はない。逆に言うと、そのシステムが欠点として持つ穴をどのように埋めて、いかに損失(=失点のリスク)を減らし利得(=得点のチャンス)を増やすか。それこそが「戦術」の本質であるとも言える。

そこを左右するのが、個々の選手に与えるタスクである。もう一度4-3-3を例にとれば、センターバックは攻撃の局面でどこまでラインを押し上げるのか、サイドバックは積極的に攻撃参加するのかそれともDFラインを維持することを優先するのか、ウイングは守備の局面でボールのラインより後ろまで戻るのか前に残るのか、等々、チームの機能と振る舞いを左右する戦術のディテールは尽きない。 

だが、「戦術家」ということになると、システムとタスクの話だけでは材料として十分ではない。戦術を使う人であるところの、監督という存在が登場するからだ。監督の仕事は「与えられたチームから最大限のパフォーマンスを引き出し、結果を残す」ことにある。ポイントは、机上の理論ではなくチームという現場が仕事の場だというところだ。

監督が与えられたチームを舞台にして「戦術」を考える時、その要素はシステムとタスクだけにはとどまらない。それだけではまだ、最も大切な要素が抜けている。それはプレーヤー、つまりどの選手を起用するかである。

いかに優れた理論であっても、それを実践に移すことができる選手がいなければ、絵に描いた餅だ。どんなに優秀な4-3-3の使い手でも、それに適した選手が揃っていないチームにこのシステムを導入して十全に機能させることは不可能だ(今シーズンのインテルで苦慮するモウリーニョはそのいい例だ)。

そう考えると、監督の仕事とは、プレーヤー、システム、タスクという3つのファクターを組み合わせて、与えられたチームから最大限のパフォーマンスを引き出し結果を残すことにある、と言い直すこともできる。

プレーヤー、システム、タスク。そのどれを出発点として、どういう優先順位でチームを組み立てるか。監督の個性を決めるのは、まさにそこだ。

その中で「戦術家」というカテゴリーを作るとすれば、そこに真っ先に入るのは戦術、つまりシステムとタスクに高い優先順位を置いてチームを組み立てる監督だろう。

イタリアに話を限っても、4-4-2プレッシングサッカーで革命を起こしたアリーゴ・サッキ、超攻撃的な4-3-3で90年代のセリエAを賑わせたズデネク・ゼーマン、90年代後半にウディネーゼとミランを率いて3バックの流行をもたらしたアルベルト・ザッケローニ、一時は時代遅れになったオフサイドトラップとサイド攻撃を復活させてキエーヴォに奇跡の躍進をもたらしたルイジ・デル・ネーリといった名前が頭に浮かぶ。

では、彼らは何かしらの「限界」を持っているだろうか?

彼らに共通点があるとすれば、ある特定の戦術(システムとタスク)に高い優先順位を置き、それを出発点にしてチームを組み立てようとする傾向があること、そしてその成功と名声が特定のチームと結びついていることだろうか。

これを、どのチームにも同じ戦術を当てはめようとするが、特定のチーム以外ではあまり成功しなかった、と言い換えることも可能だ。失敗の原因は大半の場合、その監督の戦術に適した選手がいなかったにもかかわらず、それに執着したことである。「プレーヤー」というファクターを軽く見過ぎたこと、と言ってもいいだろう。

さらに言えば、戦術というのは、研究され修正され進化するものでもある。ある戦術が成功すれば、必ずその長所を打ち消すための対応策が現れる。それに対してまた新たな修正が加えられることで、戦術は進化していく。

ひとりの監督の中でその進化のプロセスが止まり、常に同じ戦術で戦うようになってしまうと、成功を継続することは難しくなる。90年代前半のフォッジャから、ラツィオ、ローマ、そしてレッチェまで、常に同じサッカーを続けてそれなりの結果を残しながら、その後は途中解任を繰り返しているゼーマンがその一例だ。

ここに挙げた失敗事例が教える「戦術家の限界」は、プレーヤーというファクターを軽視した特定の戦術への執着、そして進化の停滞である。これをひとことで表すならば「戦術の硬直化」ということになる。逆に言えば、「硬直化」という限界を乗り越えさえすれば、「戦術家」も成功を積み重ねることは可能なはずである。「戦術家」だから限界があるというわけではない。

さて、ここまでは、「戦術家」という言葉を、特定の戦術に高い優先順位を置く監督を指す言葉として使ってきた。しかし、もういちど出発点に立ち戻って、真の戦術家とは?と考えを巡らせてみると、これとはちょっと違う定義が浮かび上がってくる。

与えられたチームとその状況に応じて多様な戦術を柔軟かつ的確に使い分け、システム、タスク、プレーヤーという3要素を自在に組み合わせて、常に最大限のパフォーマンスを引き出す監督、どんなチームを率いても結果を出す監督、それこそが真の戦術家と言えるのではないだろうか。

そう考えた時に筆者の頭に浮かぶのは、フース・ヒディンクであり、カルロ・アンチェロッティであり、ジョゼ・モウリーニョであり、ラファ・ベニテスである。彼らは間違いなく偉大な戦術家だ。そして今のところ、彼らに限界があるようには見えない。■

(2009年7月02日/初出:『footballista』連載コラム「CALCIOおもてうら」)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。