日本代表まわりでは、グループで一番の強敵を相手にアウェーで引き分けるという必要十分な結果を残した監督に対して理不尽なバッシングが横行している今日この頃、代表監督にマスコミレベルでしばしば期待され要求される「マジック」とは一体何なのかについて考察したテキストを。こうして考えるとザッケローニさんは「優秀な教師」という側面が突出した「魔術師」度が低い代表監督でしたね。ハリルホジッチさんはどうでしょう。

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「サッカーにおける代表監督のマジックとは何なのか」という問いに答えるのは簡単ではない。「マジック」とか「魔術師」という言葉からして、マスコミレベルでは頻繁に使われるが当の監督や選手のボキャブラリーにはまず入ってこない、非常に曖昧かつ情緒的な表現だ。でももちろん、頻繁に使われるからには相応の理由があるはずである。

「魔術」というくらいだから、理屈では説明のつかない力が働いているはずだ。いや本当はそんなことはないのだけれど、少なくともそう思わされてしまうくらい、意外性に満ちた出来事が起こることが、サッカーにはある。あえて定義するならば、理屈を超えた何かによって、期待を超えた何事かをもたらすのが「マジック」であり、ついそう呼びたくなってしまうような、思いもよらぬ状況や結果をしばしば作り出す能力を備えた監督が「魔術師」、ということになるだろうか。

とりあえずそういう前提で話を進めるとして、それでは、具体的にはどういう時に「魔術師」「マジック」という言葉が使われるのか。

代表監督に話を限れば、大きく2つに分けることができそうだ。まずは、ワールドカップやユーロをはじめとする大陸選手権といったコンペティション単位で、周囲の期待を大きく上回る突出した成績を残した時がそうだ。凡庸なチームから実力以上の力を引き出し、優勝候補を蹴散らして大躍進を果たす。もうひとつは、ひとつの試合という単位の中で、想像を超えた采配を振るって、予想を覆す結果(大逆転、ジャイアント・キリング)を成し遂げた時だ。

前者の例としてすぐに頭に浮かぶのは、1986年のメキシコに始まり、コスタリカ、USA、ナイジェリア、中国と5大会連続で弱小・中堅国をワールドカップに導いたボラ・ミルティノヴィッチや、98年にオランダをベスト4に導いた後、韓国、オーストラリアを率いてワールドカップでグループリーグを突破、今大会ではロシアを率いるフース・ヒディンクの名前だろう。元日本代表監督のフィリップ・トルシエが、98年のアフリカ・ネーションズカップでブルキナファソを率いてベスト4まで勝ち進んだ時に「白い魔術師」と呼ばれた話もよく知られている。

興味深いのは、今回ここで取り上げられているレーハーゲル、ベーンハッカー、スコラーリも含めて、「魔術師」と呼ばれる代表監督はほぼ例外なく外国人であり、しかも、当該国よりもサッカー的なヒエラルキーにおいて上位にあると考えられている国から招聘されているという事実である。

そこにあるのは、受け入れ側の国はサッカー的に「遅れている」ことを自覚しており、彼ら外国人監督が、自分たちの知らない何か(それこそ「マジック」だ)を使って結果をもたらしてくれることを期待している、という状況だ。そう考えると、彼らは最初から「魔術師」であることを期待されている、もっと言えば「魔術師」そのものとして招聘されているということすらできる。

では彼らの「マジック」の秘密はどこにあるのだろうかと考えると、まず最初に浮かび上がってくるのは戦術的な側面である。

注目すべきなのは、彼らがいずれも、元々その国が持ち合わせていなかった新しい/進んだ戦術を持ち込み、結果を残しているという点だ。ミルティノヴィッチは、まだリベロを置いた3バックが世界の主流だった80年代後半から、当時の最新モードだったゾーンディフェンスの4-4-2を導入し、シンプルで効率的な組織サッカーをチームに植え付けて結果を残す術を持っていた。ヒディンクも、3バックと4バックを自在に使い分ける柔軟な組織のメカニズムを、韓国やオーストラリア、そしてロシアに短時間で根付かせた。トルシエは「フラット3」という新たな戦術コンセプトを日本に持ち込んだ。

異なる言語や文化を持った相手に対して、しかも代表監督という限られた時間の中で、チーム力を飛躍的に向上させる変化、いわばブレイクスルーをもたらす。これはまったく簡単なことではない。クラブの監督ならば、難しいことを時間をかけて根付かせる余裕があるが、代表監督にそれは許されないからだ。それでもブレイクスルーをもたらすからこそ「マジック」と呼ばれるわけだ。

より具体的に言えば、その「マジック」の正体とは、目指すサッカーを理解させる理論とボキャブラリーから、それを実地に遂行させるための練習メニューまでに至る、きわめて質の高い、しかも即効性と普遍性のあるコーチング・メソッド、ということになるだろう。

日本代表という身近な例を見ても、「アイコンタクト」や「スモールフィールド」というボキャブラリーは、それ自身で劇的な変化をもたらしたし(オフトも当時は「魔術師」だった)、トルシエやオシムの練習メニューは常に注目を集めて、学習や模倣の対象になった。

もうひとつ無視できないのは、監督自身の人間性という側面だ。どれだけ効果的なメソッドを持っていても、言語や文化という壁を越えてそれを機能させるためには、監督自身が強い求心力を備えていることが不可欠だ。カリスマ性と言い換えてもいい。

異文化からやって来た「魔術師」は、尊敬と侮蔑、崇拝と不信という、アンビヴァレントな視線に否応なく晒され、事あるごとに受容か拒絶かという激しい論争の的になるものだ。それを尊敬・崇拝・受容の側に引きつけるためには、自分についてくれば絶対にいい結果が得られると相手を信じ込ませるだけの強烈なプレゼンス、そしてそれを支える深い自信と確信が必要である。

「魔術師」というのは本質的にどこかはったりじみたところを持つ存在だが、そう呼ばれる監督たちの多くが、どこかエキセントリックな空気を発しているというのも、きっと偶然ではないのだろう。

さて今度は、ひとつの試合という単位の中で、代表監督が「魔術師」と呼ばれるような状況、すなわち予想を覆す大逆転やジャイアント・キリングについて考えてみよう。この場合、「マジック」の正体は、純粋に監督としての能力、すなわち試合の展開と状況を読み、敵の弱点を見抜き、相手の監督と駆け引きし、効果的な手を打つという手腕に尽きる。

具体的な例として真っ先に(筆者の)頭に浮かぶのは、ヒディンクのそれである。日韓2002の韓国対イタリアは、ヒディンクとトラパットーニの器の差が浮き彫りになった試合だった。1点リードしたイタリアが、残り30分でデル・ピエーロを下げてガットゥーゾを投入、早々と守りに入ったのを嘲笑うように、ヒディンクはDFを下げてはFWを投入するという大胆な選手交代を繰り返し、終了間際に同点に追いつくと、延長にゴールデンゴールをもぎ取ってイタリアを地獄に突き落とした。今回のユーロ2008予選、土壇場のイングランド戦も記憶に新しい。ルーニーに先制ゴールを許しながら、早めの選手交代で局面を打開し、途中出場のパブリュチェンコが2得点を挙げての逆転勝ちは、まさに「マジック」だった。

こうした勝負どころの采配に必要な資質は、ギャンブラーというか勝負師のそれである。弱いチームが強いチームを打ち倒すためには、どこかでリスクを冒して勝負をかけなければならない。そのタイミングや状況分析を誤らず、ずばっと大胆な一手を打ってそれを当てることができる監督が「魔術師」と呼ばれる。

監督には、ギャンブルを好まず最後までリスクを避けて運を天に任せるタイプ(EURO2004とドイツ2006の二度に渡ってポルトガルにPK負けしたイングランドのエリクソンが典型。もちろんトラパットーニも)と、このヒディンクのように、自ら積極的にリスクを取って勝負をかけるタイプがいるが、「魔術師」と呼ばれるのはやはり後者である。

こうして考えてくると、代表監督が「魔術師」と呼ばれるための条件とは、上位の異文化を持ち込む異国からの伝道師であり、言語や文化を超えた普遍性と即効性を備えたコーチング・メソッドを持つ優秀な教師であり、ハッタリを効かせた態度で回りを信じ込ませるカリスマ詐欺師であり、リスクを冒して大胆な勝負ができるギャンブラーである、という結論になる。何だかひどく胡散臭い人物像だが、けっこう当たっているような気がするのは筆者だけでしょうか。□

(2008年6月5日/初出:『footballista』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。