イタリア式3バックについてのウリヴィエーリへのインタビューがことのほか好評だったので(みなさん3バックお好きなんですね)、『footballista』の同じ号に寄稿した、1930年代にはじまる3バックの歴史についてまとめたテキストをどうぞ。

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今回の特集(『footballista』2012年11月17日発売号)で取り上げられている、現在イタリアで流行中の3バックは、ゾーンの4バック(4-4-2)が完全な世界標準になった90年代に、 そのひとつの発展型として生まれ、イタリアで独自の変化を遂げたものだ。

だが、歴史を遡ってみれば、3人のDFによって「最後の一線」を守るという布陣は、決して新しいものではない。インタビューの中でウリヴィエーリが語っている、相手の2トップに対して3人で対応することで数的優位を確保するという考え方そのものは、マンツーマンディフェンス時代のスタンダードだった2ストッパー+リベロという構成と同じ発想だ。

そもそもヨーロッパでは、1925年のオフサイドルール改正をきっかけとしてイングランドで生まれたチャップマン・システム(WM)以来、半世紀以上に渡って、マンツーマンディフェンスが主流だった。1930年代から80年代まで、ゾーンディフェンスはあくまで傍流であり、主流になったのは80年代末に「サッキのミラン」が戦術革命を起こして以降、ここ四半世紀足らずの話である。

WMシステムの3バックは、敵の3トップ(CFと両ウイング)を3人のDFがマンツーマンでマークするというもので、中盤もすべてマンツーマンだったから、極端な話、ピッチ上では10組の1対1バトルが展開されていたことになる。これでは、相手が格上(1対1で勝てない)の場合には失点のリスクが大きくなりすぎるというので、後方に1人余らせて保険をかけようというのが、リベロ/スイーパーの発祥だった。

その元祖とされているのは、1938年、54年、62年のワールドカップでスイス代表を率いたオーストラリア人監督カール・ラッパン。敵FWをマークするストッパーの背後にさらにもう1人のDFを置くというきわめて守備的な布陣を敷いたスイス代表は、38年のW杯フランス大会でドイツを下し、ベスト8進出を果たした。この戦いぶりを見たフランスのマスコミが、最後尾に1人余ってカバーリングのために左右に動くDFをヴェロウverrou、すなわち閂鍵と呼んだことから、この戦術はヴェロウという名前で知られるようになった。それをイタリア語に直訳すると、ほかでもない「カテナッチョ」となる。

ヴェロウ=カテナッチョがイタリアに「輸入」されたのは第2次大戦後間もなく。その後1960年代にはネレオ・ロッコのミラン、エレニオ・エレーラのインテルが各2回、計4回に渡ってチャンピオンズカップを制するという黄金時代を築くことになる。

このカテナッチョは、マンツーマンをベースにした左右非対称のシステムで、一見すると4バックだが、最後尾でカバーリングに徹するリベロ、敵CFをマークするストッパーに加えて、右SBが実質的な第2ストッパーとして敵の「10番」をマークする役割を担っていた。左SBは敵の右ウイングをマークしつつも、攻撃時には積極的に敵陣に進出していく、今でいうとウイングバックに近い役割を担っていたので、実質的には2ストッパー+リベロの3バックだったということも可能だ。 

WMシステムからカテナッチョというこの流れの延長線上にあるマンツーマンの3バックで、より洗練された最終形とも言えるのが、80年代半ばのデンマーク代表に端を発するとされ、その後ドイツで発展して主流となった3-5-2システムだろう。3トップよりも2トップで戦うチームが多くなってきた80年代には、それに対応するDFも2ストッパー+リベロという3人で事足りるようになり、敵ウイングをマークしていたSBには、攻撃的な資質も備えたMF的なプレーヤーが、サイドハーフ/ウイングバックとして起用されていく。

フランツ・ベッケンバウアーが率いた1986年、90年ワールドカップの西ドイツ代表によってひとつの完成を見たこのマンツーマンの3-5-2は、ヨーロッパで4-4-2ゾーンへの移行が進んだ90年代にも、ドイツでは主流として受け継がれていくことになる。

ユーロ96に優勝したドイツ代表(ベルティ・フォクツ監督)、96-97のCLを制したボルシア・ドルトムント(オットマール・ヒッツフェルト監督)もこのシステムを採用していた。この両チームでリベロを務めたマティアス・ザマーは、積極的に中盤に上がってゲームを作り、時には前線にまで進出して攻撃に厚みと意外性をもたらす「フォアリベロ」として大活躍、96年のバロンドールを獲得している。

「マンツーマンの3バック」の系譜は、このドイツ型3-5-2によって途絶えることになるが、それと入れ替わるようにしてゾーンディフェンスの3バックがシーンに登場してくる。その嚆矢となったのが、ヨハン・クライフの下で91-92のチャンピオンズカップを制したバルセロナ「ドリームチーム」であり、そのクライフの遺産を受け継いだルイス・ファン・ハールによって94-95にCL優勝を飾ったアヤックスだった。いずれもシステムは、中盤を菱形に組んだ3-4-3である。

2ストッパー+リベロが構成するマンツーマンの3バックと根本的に異なるのは、3人のDFがフラットな最終ラインを形成してゾーンで守る点。敵2トップに対して3人で数的優位を作るという発想は同じだが、こちらの構成はむしろCB1人+SB2人に近い。実際バルセロナではフェレール、ヴィチュヘ、アヤックスではレイツィハー、ボハルデと、SB的な選手が3バックの左右を務めていた。これは3人でピッチの横幅をカバーする上で、積極的に外に飛び出していくスピードが求められるためだ。それによって生まれる中央のスペースは、中盤の底に位置するアンカー(バルセロナではグアルディオラ、アヤックスではライカールト)が最終ラインに下がることによってカバーする仕組みだった。

中盤を菱形に組むことでピッチ上に多くのトライアングルを作り、ボールポゼッションを高めることを第一の狙いとするこの「オランダ式3-4-3」は、ファン・ハールのアヤックスを最後に、ほかでもないグアルディオラの手によってバルセロナで復活を見るまでの約15年間、歴史の流れから消えることになる。

90年代後半にイタリアで生まれ、現在まで発展・進化してきた3バックは、それとはまた異なる系譜に属すると考えるべきだろう。最大の違いは中盤が菱形ではなくフラットな構成になっている点。今回インタビューしたウリヴィエーリと並ぶこのシステムのパイオニアである現日本代表監督アルベルト・ザッケローニは、97-98のウディネーゼに本格導入し、セリエA3位という結果をもたらした3-4-3システムを「4-4-2からDFを1人削って前線に回すことで、中盤の厚みを保ちながら3トップを採用することを可能にした」と説明している。

そのザッケローニが、翌98-99に就任したミランにも同じ3バックを導入してスクデットを勝ち取ったことで、そこからの数年間、イタリアでは一気に3バックが大流行することになる。ファビオ・カペッロ(ローマ)、カルロ・アンチェロッティ(ユヴェントス)、ジョヴァンに・トラパットーニ(フィオレンティーナ)、マルチェッロ・リッピ(インテル)と、それまで一貫して4バックで戦ってきた監督たちまでもが、3バックを導入した。これは、別稿で見た「流行」と「対応」のメカニズムが働いた結果である。

当時最も一般的だったシステムは、トップ下を置いた3-4-1-2。ザッケローニの3-4-3は、3トップによるシステマティックな攻撃パターンを活かすことが元々の狙いだったが、上に挙げた監督たちは、4-4-2では居場所がなかったトッティ、ジダン、ルイ・コスタ、セードルフといった「10番」に活躍の場を与えながら、中央の守りを厚くすることで攻守のバランスを担保できる点に、3バックのメリットを見出した。

しかし、トップ下に守備の貢献を期待できない分、両WBが押し込まれて5バックになると中盤が薄くなってチーム全体の重心が下がり、その結果として前の3人で攻め後ろの7人で守る「攻守分業型」になりやすいというデメリットが顕在化することも多く、数年後には4バックへの回帰が進むことになる。

とはいえその中でも、ウリヴィエーリの助監督からキャリアをスタートしたマッザーリ、ザッケローニ流の3-4-3を一貫して追求してきたガスペリーニといった監督たちが、独自に3バックを進化させてきた。それが再び「流行」となって花開いたのが昨シーズンのことだった、というわけである。□

(2012年11月13日/初出:『footballista』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。