EURO2016はそれなりに感動的なポルトガルの優勝で幕を閉じました。とはいえサッカーの内容という点で傑出していたのは、やはりドイツ、続いてイタリアだったと思います。そのドイツが、2000年代初頭に大きな低迷期を経験していたことはよく知られている通り。そこからどのようにして復活を果たしたのかについて、いくつかの角度から考察した長いテキストがあるので、この機会にそれを上げておきます。書いたのはW杯で優勝する以前の2013年ですが、CL決勝の同国対決が示すようにすでに完全に底上げが進んできており、後は時間の問題という感じではありました。

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バイエルンとドルトムントの同国対決となった12-13シーズンのチャンピオンズリーグ決勝は、ドイツサッカーが10年以上にわたる長い低迷期を脱して、ヨーロッパの覇権を争うトップレベルへと復権を果たしたことを象徴する出来事だった。それまでヨーロッパ最強を誇ってきたバルセロナ、そして資金力でも戦力でも常に世界のトップを争う存在であるレアル・マドリーを、それぞれ準決勝で完膚無きまでに下しての決勝進出だったからなおさらである。

また代表レベルでもドイツは、90年代末から00年代半ばまでの低迷期を経て、スペイン、オランダ、イタリアと並ぶ欧州屈指の強豪というポジションを、完全に取り戻した感がある。70-80年代の伝説的な強さには及ばないものの、フランス98でベスト8止まり、ユーロ2000で1勝もできないまま屈辱的なグループリーグ敗退を喫した低迷期と比較すれば、隔世の感がある。

この復権はどのようにして成し遂げられたのだろうか。その要因は、ピッチ上、すなわち純粋にサッカー的な側面と、ピッチ外、すなわちそれを取り巻く組織体制やビジネスの側面の双方に求めることができる。そしてそのどちらも、それに先立つ低迷の原因とも密接に結びついている。

まずはピッチ上に焦点を当ててみよう。最も大きな要因は、かつての隆盛を支えたとはいえその後時代の流れに取り残された、1対1の強さと運動量を武器とするフィジカル志向の古くさいスタイルから脱却し、フィジカル能力の高さと献身的なチームスピリットという伝統的な強みを活かしながら、それを組織的な戦術の中で機能させようとするコレクティブでインテンシティの高いモダンなスタイルが、ドイツサッカーの新しいの流れとして根付いたこと。

70-80年代を通して世界屈指の強さを誇ったドイツサッカーが下降線を描き低迷期に入ったのは、90年代半ばのことだった。これは世界的な戦術の流れが、リベロを置いたマンツーマンディフェンスからゾーンディフェンスへと急速に移行していったのと、ぴったり時を同じくしている。1対1の強さと運動量、そして勝利への執着心を武器に相手に走り勝つドイツサッカーの伝統的な3-5-2は、組織的な攻守のメカニズムを武器とするコレクティブな4-4-2プレッシングサッカーの前に、ほんの数年の間に時代遅れになっていった。

ドイツがこの旧来的なスタイルで最後に大きなタイトルを勝ち取ったのは、代表レベルではマテウス、クリンスマン、メラーなどのベテランを擁して優勝したユーロ96、クラブレベルではエッフェンベルグ、バスラーなどを要するバイエルンがバレンシアを下した01-02シーズンのCL。代表はその後先に見たユーロ2000での惨敗を経験し、クラブチームも02-03以降7シーズンにわたってCLでベスト8止まりという低迷期を迎えることになる。

そこからの復活の流れを作ったのは、ユーロ2000惨敗を受けたDFB(ドイツサッカー協会)が主導し、年間1000万ユーロという多大な予算を投下して取り組んだ、大がかりな選手育成システムの見直しと強化のプロジェクトだった。

中でも復活に大きな貢献を果たしたのは、10代前半のタレントを全国から発掘し、適切なトレーニングプログラムによってその才能を引き出し伸ばそうという、エリート育成に焦点を合わせた取り組み。全国390ものトレーニング拠点に11-17歳の有望な選手を30人ずつ集めて個別指導を行うというこの「拡大タレントプロモーションプログラム」は、スタートから数年すると、各年代のユース代表の成績向上という形で、はっきりとした成果を挙げ始める。

2008年のU-19欧州選手権優勝を皮切りに、続く2009年にはU-17、U-21もそれぞれ優勝と、各年代のヨーロッパタイトルを総嘗めにするユース大国に成長。2010年W杯で悲観的な下馬評を覆す躍進を見せて3位となったA代表には、GKノイアー、MFエジル、ケディラなど前年のU-21欧州選手権優勝メンバーが6人も名を連ねていた。

そしてこのプログラムが目指すべき頂点として位置づけられたA代表は、2004年に監督に就任したクリンスマンとその片腕レーヴ(現監督)の下で3バックと訣別、ゾーンディフェンスの4バックを基本にコンパクトな陣形を高い位置まで押し上げて戦うモダンなスタイルへの「歴史的転換」に取り組み、自国開催の06年W杯、そして前述の10年南アフリカW杯でいずれも3位を勝ち取ることになる。

こうしたエリート育成の成功は、もちろんクラブレベルにもはね返ってくる。00年代末になると、バイエルンではそのクリンスマンに始まってファン・ハール、そしてハインケス、ドルトムントではクロップがゾーンディフェンスとプレッシングを組み合わせて攻守両局面に人数をかけるトータルフットボール志向のスタイルを追求、その完成度を高めていった。中堅以下のクラブの中にも、トゥヘル(マインツ)、スロムカ(シャルケ→ハノーファー)のように組織的な攻撃サッカーを志向する若手監督が増えてくる。

その流れが結実したのが、12-13シーズンのCL決勝であり、両チームが見せた圧倒的なフィジカル能力と高度な戦術組織に根ざしたウルトラモダンなスタイルだった。つい1年前までは、盟主バルセロナのテクニカルな「ポゼッション原理主義」こそが理想のフットボール像であるかにすら見えていたものだったが、バイエルンのアグレッシブでインテンシティの高いトータルフットボールは、それを力で押し潰した。

もちろん、そこに至るまでには様々な紆余曲折があった。00年代前半から半ばにかけてドイツのクラブは欧州カップの舞台において、スペイン、イングランド、イタリアというライバル国にはっきりと遅れを取っていた。それを象徴的に示しているのが、欧州カップにおける過去5シーズンの成績に基づくランキングポイントを国別にまとめた「UEFAカントリーランキング」の変遷である。

2001年、スペイン、イタリアに次ぐ3位の座をイングランドに奪われて4位となり、チャンピオンズリーグの出場枠が4チームから3チームに減少すると、2005年にはフランスにまで追い抜かれて5位に転落。それが右肩上がりに転じるまでにはさらに4年の歳月が必要だった。しかし、2009年にフランスを抜き返して4位に上がると、その2年後(2011年)には落ち目のイタリアを蹴落として11年ぶりの3位復帰を果たした。

欧州カップにおけるドイツ勢の成績を見ると、02-03と03-04シーズンの2年間は、CLとUEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)を合わせて1チームもベスト8に送り込めず、04-05と05-06も計1チームに留まったのに対し、06-07からは4シーズン続けて3チームを送り込むという健闘ぶり。ブンデスリーガの盟主バイエルンに加えて、シャルケ、ウォルフスブルク、ヴェルダー・ブレーメン、レヴァークーゼンといった第2勢力がUEFAカップで上位進出を果たし、カントリーランキングを押し上げる形になった。

この00年代を通してのドイツ勢低迷には、ピッチ外の要因も大きく関わっている。ドイツのクラブは、90年代末から00年代前半にかけてヨーロッパで一気に進んだ「プロサッカーのビジネス化」の波に乗り遅れたという事情があったからだ。

ビジネス化の牽引車となったのは、イングランド、イタリア、スペインなど西欧の主要国における衛星有料放送の急速な普及と、それに伴うTV放映権料のバブル的な高騰だった。この放映権料で売上高を大幅に増やした各国の有力クラブはこぞってスター選手の争奪戦を展開、移籍市場もバブル化して、移籍金と年俸の相場も一気に吊り上がっていった。その結果、ワールドクラスのスター選手はイングランドのビッグ4、スペイン2強、イタリアのビッグ3など、ひと握りのビッグクラブに集中し、それ以下の中堅クラブ、あるいはそれ以外の中堅国との間に明確な格差が生まれていくことになる。

ところがその中で唯一事情が異なっていたのがドイツ。他国に先駆けて90年代にすでにケーブルTVや無料の衛星放送が普及していたため、有料衛星チャンネルの視聴者数が思ったよりも増えず、イングランドやイタリア、スペインで起こったような「放映権料バブル」にはつながらなかった。そればかりか、2002年には大手メディア企業のキルヒグループが経営破綻。00年代半ばになってもブンデスリーガの放映権料総額は、プレミアリーグやセリエAの半分程度の水準に留まっていた。

さらに、ブンデスリーガは加盟クラブに厳しい財務基準を課しているため、クラブの収支を大幅な赤字にするような先行投資で戦力を強化することが許されなかったこともあり、移籍市場における「購買力」において、プレミア、セリエA、リーガという「三大リーグ」に差をつけられ、それが上に見たようなピッチ上での結果にも反映することになった。

国際的な監査法人デロイトが毎年発表している欧州主要クラブの売上高ランキング「デロイト・フットボール・マネーリーグ」を見れば、ドイツ勢の低迷と復活がクラブの経済的な競争力と密接に結びついていることは一目瞭然だ。

ブンデスリーガの盟主バイエルンは、00-01にCLを制した後、02-03から07-08まで6シーズンでCLベスト8進出がわずか2回(02-03はGS敗退、07-08は出場権喪失)という低迷期を経験した。その間の売上高ランキングを見ると、00-01から01-02まではマンU、ユヴェントスに次ぐ3位だったのに対し、02-03にはミランとR.マドリーに抜かれて5位にダウン、さらに03-04にはチェルシー、アーセナル、インテルにも遅れをとる9位に転落するという下降線をたどっている。その後も3年間にわたって7-8位に留まった後、07-08に大きく売上高を伸ばして4位にジャンプアップ。その後はスペイン2強、マンUに次ぐ4位の座を確保して現在に至っている。

ランキングのトップ20を見ても、00年代前半のドイツ勢はバイエルンに加えてもう1つ(ドルトムントまたはシャルケ)が入るのが精一杯だったのに対し、06-07にはバイエルン、シャルケ、ハンブルガー、ブレーメンの4クラブがトップ20入り、その後も08-09の5クラブ(上記4クラブ+ドルトムント)をピークに、常に4クラブをトップ20に送り込んでいる。

上記からわかるのは、経済的に見るとドイツ勢の低迷が底を打って競争力が反転上昇に転じたのは2006年前後からだということ。この2006年というのは、言うまでもなくドイツがワールドカップを開催した年である。ワールドカップ開催を契機にしてスタジアム環境の整備が一気に進んだことによって、ブンデスリーガの1試合平均観客動員数が4万人を越えクラブに入場料収入増をもたらしただけでなく、レストランやファンショップなど付帯設備での商業収入、さらにはスポンサーなどの広告収入をも押し上げるという好循環が生まれた。

イングランドをはじめヨーロッパの多くでは、2008年のリーマンショックとそれに続く世界的な金融危機によって経済が大きな打撃を受けたが、その中でドイツ経済だけはプラス成長を維持する堅調ぶりを見せてきており、それがドイツ勢の相対的な競争力アップに寄与しているという側面もある。

ブンデスリーガがクラブに課してきた厳しい財務基準も、結果的にはクラブに健全経営を促し、UEFAが2011年に導入し欧州カップ(CL、EL)に参加する全てのクラブに適用するクラブライセンス制度「ファイナンシャルフェアプレー(FFP)」を先取りする形で、ドイツのクラブの経営レベルでの競争力強化に寄与することになった。ここ1、2年、イングランドやイタリア、スペインの有力クラブ(例えばリヴァプール、ミラン、インテル、バレンシア)が、FFP基準適合のためにそれまでの赤字体質改善を迫られ、主力選手の売却をはじめとするリストラを余儀なくされている一方で、ドイツ勢はFFP基準を問題なくクリアして安定的な成長を続けている。

ピッチ上では、フィジカル、テクニック、組織的戦術を高いレベルで統合した新たなスタイルを確立し、ピッチ外では世界的な不況に耐えて堅調に推移するドイツ経済をバックに、ブンデスリーガ全体が健全かつ安定した経営を保っていること。これがドイツ勢復活の原動力ということになる。イングランド、スペイン、イタリアというライバルがそれぞれ全体的には横這いから下降線のトレンドにある中、ドイツだけが着実に右肩上がりという流れになっているだけに、ドイツがヨーロッパの盟主の座に返り咲くのは、そう遠い未来のことではないかもしれない。□
 
(2013年8月9日/初出:『SOCCER KOZO』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。