「イタリアはなぜディフェンスが強いのか」についての考察シリーズを始めたら、とたんにどうしようもなくグダグダな試合を見せてくれたアッズーリですが、勝っても負けてもいい試合で本気が出せないのはいつものことなので、ここで苛々しても仕方ありません。考察その3は、カテナッチョの歴史を時系列で振り返った長いテキストです。その2とダブっているところもありますが、書いたのはこっちが先。ここから一部をコピペして膨らませたのが前回のテキストだったというわけです。

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サッカーには国民性が反映する、というのはよく言われることだ。ルールが世界共通であるにもかかわらず、というよりもまさにそれゆえに、このゲームをどう理解・解釈し、どのような戦術・プレーを選ぶかという方法論には、個々の国々の歴史・社会・文化が刻印されるのだ。

その観点からイタリアのサッカーを見た時に最も特徴的なのは、「カテナッチョ」という言葉に代表される、守備的なメンタリティと戦い方だろう。

良く知られているように、カテナッチョcatenaccioというのは、イタリア語で扉にかける閂(かんぬき)鍵のことだ。サッカー用語としては、1950-60年代にかけてこの国で主流だった、リベロを置いたマンツーマンディフェンスとカウンターアタックを基本とする堅守速攻型の戦術を指す言葉である(イタリアでは実際そのように限定的に使われている)。ところが国際的には、イタリアのチームに特徴的なディフェンシヴな戦い方そのものを象徴する言葉として使われ、完全に定着している感がある。

イタリア人がカテナッチョという言葉から連想するのは、60年代に欧州を席巻したインテルやミランの歴史的な記憶でしかない。だが世界の人々の間では、「イタリア=守備的=カテナッチョ」という一般方程式が、ひとつのステレオタイプとしてすっかり浸透していると言っていい。

ただ、実際に歴史を振り返ってみれば、イタリア代表の戦いぶりは常に、そのステレオタイプを裏切らないものだったことも確かだ。イタリアは、1934年、1938年、1982年、そして2006年と、4度に渡ってワールドカップを制覇している。これは5回の優勝を誇るブラジルに次ぐ2番目の数字である。

しかし、ブラジルのサッカーが、ボールと戯れる喜びこそを至上の価値とし、それを最大限に表現する「フッチボール・アレグレ」(快活なサッカー)という言葉に特徴づけられるとすれば、イタリアのサッカーはその反対の極にある。

受けに回って相手の攻撃をひたすら耐え忍び、数少ないカウンターのチャンスやセットプレーを活かしてゴールをもぎ取ると、自陣に引きこもってそのリードを守り倒す。スペクタクルなど糞喰らえ、勝利という結果だけを目指してなりふり構わず戦うスタイルは、昔も今も一貫している。

すでに見た通り、サッカーの世界で「カテナッチョ」という言葉が使われるようになったのは、1950年代以降の話だ。しかし、1934年と38年にワールドカップを連覇したイタリア代表の戦い方は、きわめて守備的でリアリスティックなものだった。まったく奇妙な話だが、カテナッチョという言葉よりも、実体の方が先に存在していたというわけだ。

この連覇をもたらした名監督ヴィットリオ・ポッツォは、第1次世界大戦中にアルプス山岳部隊の中隊長として鳴らした厳格な指揮官で、アズーリにも軍隊式の秩序と規律を持ち込んだ。チームの結束を保ち国の誇りを守る愛国心を植え付けるため、ポッツォは選手たちに、第一次大戦におけるイタリア最大の戦いとなったピアーヴェ川防衛戦のエピソードを語って聞かせたといわれる。

有名なカポレットの戦い(1917年)でオーストリア=ハンガリー軍の前に数万人の損失を出す大敗を喫したイタリアにとって、ヴェネツィアに近いピアーヴェ川は最後の防衛線だった。大戦末期の1918年6月、イタリア軍は1週間に渡る敵の猛攻に耐えてこの防衛線を守り抜き、圧倒的な劣勢にあった戦況をひっくり返して勝利への道を切り開いた。この熾烈な塹壕戦を通じてイタリア軍が示した勇気と忍耐強さ、そしてそれを支えた愛国心こそ、ポッツォがイタリア代表に植え付けようとしたメンタリティだったというわけだ。

1934年、自国開催の第2回ワールドカップは苦戦の連続だった。準々決勝のスペイン戦は1-1で延長のもつれ込んだが決着がつかず、翌日の再試合を何とか1-0でモノにした。続くオーストリアとの準決勝も1-0の辛勝。そして決勝のチェコスロヴァキア戦も、2-1で勝利を掴んだのは延長戦を戦った末のことだった。

特筆すべきは、これらがいずれも、相手の攻撃に耐えながらその隙を突いてのカウンターでゴールを奪っての勝利だったということだ。

当時のヨーロッパでは、オーストリア、チェコ、ハンガリーなど中欧の国々が、ショートパスを網の目のようにつないで攻撃を組み立てる「ドナウ派」と呼ばれるテクニカルなスタイルで一世を風靡していた。しかしポッツォの率いるイタリアは、それを手本とするという名目を取りながらも、伝統的な2-3-5ピラミッドシステムの両サイドハーフ、両ウイングをそれぞれ低い位置まで戻した守備的な布陣を採用し、ロングパスによるカウンターアタックを最大の武器とするチームだった。

軍隊式の秩序と規律に基づき、ひとりひとりが自分を犠牲にしてチームのために戦い、人数をかけて守りを固めながら辛抱強くチャンスを待ち続ける――。カテナッチョという名の戦術がまだ存在しない時代から、イタリアはそういう戦い方で勝利を掴み取ってきたのである。

意外なことだが、イタリアはここ数百年、大がかりな侵略戦争を行ったことは一度もない。19世紀後半に統一国家となるまでは、何十という都市国家が群雄割拠していたが、そのほとんどはフランス、スペイン、オーストリアといった強国の奪い合いの対象でしかなかった。

第一次大戦に参戦したのは、隣国オーストリア=ハンガリーの侵略から身を護るためだった。ムッソリーニのファシズム政権下で参戦した第二次世界大戦も、早々に連合軍に降伏して、最後の2年間は旧同盟国だったドイツを国土から追い出すためのレジスタンスに費やされた。

イタリア人にとって戦いとは常に、敵の領土に攻め入ることではなく、自分の領土を守ることだった。敵が押し入ってこないように、扉(ポルタ=ゴール)をしっかり閉ざして閂(カテナッチョ)をかける――。これが戦争からサッカーまで、あらゆる戦いに臨む時の基本的な姿勢というわけだ。守備的なメンタリティと戦い方は、歴史的・文化的な背景あってのことなのである。イタリアサッカーには「カテナッチョのDNA」が宿っている、という言い方をしてもいいかもしれない。

1938年のワールドカップで連覇を飾ったアズーリも、11人中9人のメンバーが入れ替わっていたにもかかわらず、4年前と変わらぬ堅守速攻のチームだった。準々決勝で開催国フランス、準決勝で優勝候補ブラジルを破ったイタリアは、決勝で「ドナウ派」の雄ハンガリーを下す。

まだプレースピードが遅くゆっくりとしたパスサッカーが主流だったこの時代、イタリアは「パス3本でシュートまでたどり着ける」と言われていた。2-3-5のピラミッドシステムという、チャップマンシステム(WM)が全盛だった当時としては古臭い戦術を採用していたにもかかわらず、ある意味では時代の先端を行っていたのである。

ポッツォ率いるイタリアは、二度のワールドカップに加えて1936年のベルリン五輪でも金メダルを獲得するなど、1930年代を通じて世界の頂点に君臨した。しかしこの栄光の時代も、第二次世界大戦の勃発と共に幕を閉じることになる。

1940年代後半から60年代後半までの20年間は、アズーリの歴史の中では「暗黒の時代」と言ってもいい。

その背景には、イタリアの国力が戦後の復興に向けられたという事情に加えて、1949年に、当時ヨーロッパ最強のクラブチームと呼ばれたトリノの全選手(イタリア代表レギュラーのほとんどを占めていた)を飛行機事故で失うという「スーペルガの悲劇」があった。これによって一気に弱体化したイタリア代表は、50年、54年のワールドカップで早期敗退を喫し58年に至っては本大会への出場権を逃すという史上唯一の汚点を残すことになる。

「戦術としてのカテナッチョ」が出現し、国内リーグであるセリエAを戦うクラブチームの間に浸透していったのは、まさにこのイタリア代表低迷期のことだった。

実を言えば、カテナッチョという戦術は「メイド・イン・イタリー」ではない。その創始者は、1938年と54年のワールドカップでスイス代表を率いたオーストラリア人監督カール・ラッパンである。敵FWをマークするストッパーの背後にマーカーを持たないディフェンダーをひとり余らせたしごく守備的な布陣を敷いたスイス代表は、38年のW杯フランス大会でドイツを下し、ベスト8進出を果たす。

この戦いぶりを見たフランスのマスコミが、最後尾に1人余ったDFをヴェロウverrou、すなわち閂鍵と呼んだため、このシステムはヴェロウという名前で知られるようになった。閂鍵は英語にするとdoor boltなので、英語圏ではボルトシステムと呼ばれるようになる。そしてイタリアでも直訳されてカテナッチョと名付けられたわけだ。

このカテナッチョ戦術がイタリアに「輸入」されたのは、終戦直後の1946-47シーズンのこと。セリエBのサレルニターナを率いていたジポ・ヴィアーニが「守備を安定させるため」に、2-3-5のピラミッドシステムからセンターフォワードを外し、代わりに守備的MFをピッチに送って敵のセンターフォワードをマークさせた。そして、余ったストッパーをチームを最後尾に置いてスイーパー、すなわちマークすべき相手を持たない「リベロ」とする。

翌年セリエAに昇格したサレルニターナは健闘空しく降格の憂き目に遭うが、このリベロを置いた守備的な布陣に目をつけた何人かの監督は、その後このカテナッチョ戦術を自らも採り入れ、発展させていくことになる。その中には、1960年代にミランを率いてチャンピオンズカップを2度勝ち取ることになるネレオ・ロッコや、インテルを率いて1953-54シーズンから2年連続でスクデットを獲得したアルフレード・フォーニも含まれていた。

こうしてイタリアでは、代表にとって暗黒の時代だった1950年代に、その後この国のサッカーの代名詞となるカテナッチョ戦術が、着実に根を張り浸透していった。敵の攻撃陣全員にマンツーマンでマーカーを貼り付けた上、最後尾にリベロを置くことで堅い守備にさらなる「保険」をかけ、攻撃は少人数によるカウンターアタックに徹するというこの戦術は、ポッツォの下でW杯を連覇した戦前から連綿と受け継がれてきた堅守速攻のメンタリティ、すなわち「カテナッチョのDNA」に、ひとつの明確な形を与えるという役割を果たした。

カテナッチョ戦術はその後、1990年代初頭まで30年以上に渡って、イタリアサッカーのスタンダードとして不動の地位を築くことになる。

それが国際レベルで初めて大きな果実を実らせたのは、1963年にロッコの下でイタリア勢としては初めてチャンピオンズカップを勝ち取ったミラン、そして、バルセロナからやって来たアルゼンチン人監督エレニオ・エレーラに率いられ、続く64年から2年続けてヨーロッパの頂点に君臨することになる「グランデ・インテル」だった。
 
10年にわたる暗黒時代を経て、クラブチームが国際的な競争力を徐々に手に入れたのを追うようにして、イタリア代表もまたヨーロッパ、そして世界の舞台で主役の座に返り咲いていく。その最大の武器となったのも、ほかでもない「カテナッチョ」だった。

1966年のW杯イングランド大会こそ「コレア」(北朝鮮に敗れてグループリーグ敗退)という悲劇に見舞われたが、68年には欧州選手権を制し、70年のW杯メキシコ大会ではブラジルに次ぐ準優勝。その後、世代交代による一時的な端境期を経て、1978年のW杯アルゼンチン大会で3位に入ったアズーリは、4年後のW杯スペイン大会で、マラドーナのアルゼンチン、「黄金のクァルテット」のブラジルを下して、44年ぶりに世界の頂点に立つことになる。

いずれの大会においても、イタリア代表の戦いぶりを特徴づけるのは、最後尾にリベロを置き、ハードマークで鳴らすストッパーや守備的MFが敵のキープレーヤーをマンツーマンでピッチ上から消し去る堅固なディフェンスであり、奪ったボールを素早く前線に送り込み少人数で一気にゴールを陥れる鋭く狡猾なカウンターアタックだった。要するにカテナッチョである。

そして勝利は常に、劣勢に立たされ一度ならず絶体絶命の苦境に追いつめられながら、それを耐え抜いた末の奇跡的な逆転と共にやって来た。

68年の欧州選手権は、地元開催という有利にもかかわらず、その歩みは薄氷の上を歩くようなものだった。ソ連との準決勝は、延長戦を含めた120分間を戦っても0-0のまま。決勝進出は抽選のおかげだった。そしてユーゴスラヴィアとの決勝も120分を終えて1-1。当時のルールに従い、2日後に再試合を行った末にやっと2-0で勝利を収め、1938年以来30年ぶりとなる国際タイトルを掴んだのだった。

2年後のW杯メキシコ大会では、リヴェーラ、マッツォーラという2人の偉大なファンタジスタの起用法が、世論を真っ二つに割る大論争を引き起こした。ヴァルカレッジは決して2人を同時にピッチに送ろうとせず、「スタッフェッタ」と呼ばれるリレー起用にこだわり続けた。もちろん、2人を一度に起用したら守備の不安が大きくなる、というのが唯一最大の理由である。

このメキシコ大会で優勝し、今なお史上最強のチームと呼ばれるブラジルには、ペレ、リヴェリーノ、ジャイルジーニョ、トスタン、ジェルソンと、所属クラブで背番号10を背負っているプレーヤーが5人も顔を揃えていた。リヴェーラをベンチに置いて守備を固めたイタリアは、そのブラジルに4-1という圧倒的なスコアで敗北を喫することになる。 

82年のW杯では、一次リーグで1勝もできず得失点差で辛くも勝ち上がるという体たらくで、エンツォ・ベアルツォット監督はマスコミから集中砲火を浴びた。2次リーグでブラジル、アルゼンチンを蹴落として勝ち進み、ついには44年ぶりの世界制覇を果たすことを予想した者は、その時には誰ひとりいなかったのだ。
 
「戦術としてのカテナッチョ」が、その時代的な役割を終えたのは、1990年代に入って、ゾーンディフェンスが主流となってからのことだ。アゼリオ・ヴィチーニ監督の下で戦った自国開催の90年W杯までは、リベロを置いたマンマークシステムを採用していたアズーリも、92年にアリーゴ・サッキを監督に迎えるに至って、ついにカテナッチョ戦術に別れを告げることになる。

しかし、前線からのプレッシングとオフサイドトラップという新たな武器を備えたアグレッシヴなゾーンディフェンスで、世界のサッカー界に革命を引き起こしたサッキを持ってしても、イタリア代表が連綿と受け継いできた「カテナッチョのDNA」までも消し去ることはできなかった。

94年のW杯アメリカ大会、優勝候補の一角に挙げられていたアズーリは、グループリーグ初戦でアイルランドに不覚の敗戦を喫し、続くノルウェー戦でも開始20分足らずでGKパリウカが退場という絶体絶命の危機に追い込まれる。この試合は何とか1-0でものにしたが、続くメキシコ戦は1-1で引き分け。グループリーグを突破できたのは、得失点差のおかげでしかなかった。そして次のナイジェリア戦も、終了直前まで0-1の劣勢。そこで流れを変え、イタリアを決勝まで導いたのは、ロベルト・バッジョのゴールという奇跡だった。

ギリギリの逆境に追いつめられた末の逆転勝利。監督がサッキであろうがベアルツォットであろうが、そしてポッツォであろうが、イタリアの戦いぶりはまったく変わることがない。

サッキの後を引き継いだ、チェーザレ・マルディーニ、ジョヴァンニ・トラパットーニという2人の監督は、いずれも現役時代にミランでネレオ・ロッコの薫陶を受けた「カテナッチョ主義者」だった。この2人に挟まれてEURO2000でイタリアに準優勝をもたらしたディノ・ゾフも、カテナッチョの時代を象徴するゴールキーパーだった。

マルディーニとトラパットーニは、攻撃を諦めてまで守りを固める守備的過ぎる戦術で自らの首を絞め、W杯での早期敗退をもたらした。ゾフが率いるアズーリが決勝進出を果たしたのは、1人少ない10人でオランダの猛攻を耐え抜き、PK戦に持ち込んで勝利をもぎ取ったからだった。もはやリベロやマンツーマンディフェンスは過去の遺物だが、「カテナッチョのDNA」は途絶えることがない。

そして2006年。マルチェッロ・リッピに率いられ、フランスをPK戦で下して24年ぶりに世界の頂点に立ったアズーリの歩みも、決して平坦なものではなかった。アメリカ戦でデ・ロッシ、オーストラリア戦でマテラッツィが退場になって10人での戦い。そして守勢一方になりながら120分間を耐え抜いた決勝の戦いぶり。

リッピは予選の時からはっきりと「守備的な戦いはしない。積極的に主導権を握って勝利を目指すサッカーをする」と宣言し、前線に3人のアタッカー(トーニ、ジラルディーノ、カモラネージ)を配した攻撃的な布陣で戦い続けてきた。

しかし、このチームのキャプテンであり、2006年末にはワールドカップでのパフォーマンスによって純粋なDFとしては初めてバロンドールに輝くことになるファビオ・カンナヴァーロは、大会直前、筆者にこう語っていたものだった。

「今回のアズーリは、僕がプレーしてきた中では間違いなく、一番攻撃的なチームだ。でも僕自身は、イタリアサッカーの伝統的な価値はディフェンスにあると思っているんだ。どんな困難に陥っても辛抱強く戦い、最後までゴールを守り抜くことができるチームは、世界にもそう多くはない。ワールドカップみたいなギリギリの戦いでは、2点、3点リードして試合を終えることの方がずっと少ない。1点のリードを最後まで守り切る力がないチームは、決してタイトルを勝ち取ることはできないんだ。攻撃的なチームでも、最後のところでは、イタリアの伝統的なメンタリティが必要ってことだよ。いくらカテナッチョと揶揄されようがね」

「カテナッチョのDNA」を最も濃くその血の中に宿しているこの男は、2010年、再びキャプテンマークを腕に巻いてワールドカップのピッチに立つ。■

(2009年4月28日/初出:『サッカーベストシーン20 ITALY』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。