2試合で2勝、無失点、しかも与えた枠内シュートすらゼロという圧倒的な守備力を誇示したおかげで、例によって「カテナチオ」呼ばわりされているイタリアですが、あれはただ守り倒せばいいと思ってやっているわけじゃないことはご理解いただきたいと思います。イタリアがどうしてああいうサッカーをするのかについては、これまでいろいろ掘り下げて考察してきたので、この機会にいくつか上げてみます。これは11年前(2005年)に書いたテキスト。基本的な思想はコンテのイタリア代表もまったく同じです。
ちなみに「エクイリブリオ」という言葉はザッケローニが日本代表監督をしていた当時、一時的に注目されましたが、日本的なサッカー観とあまり馴染まないのか、その後日本では見かけなくなってしまいました。

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チャンピオンズ・リーグが再開し、ミランやユヴェントス、インテルが他国の強豪と比較して語られる機会が増えてくると、「イタリアサッカーは守備的」というお決まりのフレーズを目にすることも多くなる。世界各国のメディアがイタリアサッカーを語る時、真っ先に出てくる言葉は、40年前も今もおなじみ「カテナッチョ」(=閂)。イタリアでは、とっくに過去の遺物となった言葉なのだが……。

少なくともミラン、ユヴェントス、インテルといったトップレベルのチームに関しては、そのサッカーに「カテナッチョ」という言葉はまったく似つかわしくない。喜んで試合の主導権を相手に差し出して自陣に引きこもり、少ないカウンターのチャンスを生かしてゴールを奪ったら、後はひたすら守り倒す——。そんな「古き良きカテナッチョ」が、もはや弱小チームの常套戦術以上のものではあり得ないというのは、世界中どこでも同じだろう。

しかしそれでも、これほどディフェンス(=失点しないこと)に強く執着するサッカーが、おそらく世界中他のどこにもないことも、また一面の事実ではある。イタリア代表監督マルチェッロ・リッピは、かつてこう語ったことがある。

「私はこうしてイタリアサッカーを代表して戦えることを誇りに思っている。我々はこの何年かで大きく進歩した。もちろん、ディフェンスの強さが一番の武器であることは変わらないが、カテナッチョなどとは決めつけないでほしい。いい試合をするために必要なことはふたつある。しっかり守ること、相手の弱点を突いて素早く攻めることだ。我々はそのふたつをうまくやることができる」 

このリッピに限らず、イタリア的なサッカー観の基本にあるのは、ボールを奪ってからできる限り速くシュートまで持って行くのが最も効率が良く効果的な攻撃、というダイレクトプレー至上主義の考え方だ。相手が守備陣形を固めてしまえばゴールを奪うのは難しくなる、その前に攻めるのが一番効果的、というシンプルな真実がすべてのベース。ボールポゼッションにそれほど(しばしば「ほとんど」)重きを置かないのも、そのためである。

では何に重きをおくのか?それは「攻守のバランス」である。イタリア語で「バランス」を意味する「エクイリブリオequilibrio」という言葉は、イタリアの監督が最もよく使う戦術用語のひとつだ。

イタリアで最もポゼッション志向の強いチームであるミランの監督、カルロ・アンチェロッティですら、こう語っている。

「無目的なポゼッションは、まったく無意味などころか逆に危険だ。パスをつなぎ続ければ、ボールのラインよりも前に多くの選手が進出して、チーム全体が前がかりになる。そこでボールを奪われれば、一気にカウンターを浴びる危険がある。そういう形でチームから“エクイリブリオ”を失わせるポゼッションは、百害あって一理なしだ。重要なのはむしろ、攻守のバランスを崩さずに試合の主導権を握り、効果的な攻撃を続けること。ボール支配率や攻撃にかける人数そのものにこだわるのは馬鹿げている。重要なのは、いかに数的優位の状況を作りシュートにつなげるかだ」

この考え方に忠実なミランは、あれだけのタレントを擁しながら、決してかさにかかって攻め立てたりすることはない。作り出すチャンスのほとんどはパス2〜3本でフィニッシュまで行くカウンターである。かける人数も多くて4人まで。今週のチャンピオンズ・リーグでも、他の試合が4-2とか7-2の派手な大立ち回りを演じる中、これ以上ないほど手堅い1-0のスコアで、しかしまったく危なげなくマンチェスターUを下している。

ボールを支配し試合の主導権を握らなければ勝利には近づけない、パスをつなぎ相手を崩して奪った綺麗なゴールでなければ価値がない、攻撃的で美しいサッカーを見せて勝たなければ意味がない——というサッカー観を持つ人々にとって、その理想とは異なるタイプのサッカーを展開するイタリアのチームは、決して面白いものではないだろう。

とはいえ、ボールを支配し試合の主導権を握ってゴールを目指すのをよしとするか、一瞬の隙を突いて一気にゴールを陥れるのをよしとするか。結局のところ、すべてはサッカーというゲームをどう捉えるかの違いである。その違いを楽しむことができれば、決してスペクタクルとはいえないイタリアのサッカーにも、面白さや独自の美学を見出すことができるはずだが。■

(2005年3月19日/初出:『El Golazo』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。