EURO2016のグループリーグ初戦で、FIFAランキング2位のベルギーを2-0で圧倒したイタリア。「史上最弱のアズーリ」とまで言われているほどのタレント不足にもかかわらず、それを逆手に取って戦術的ディシプリンと鉄の結束を備えたハードワーキングなチームを築き上げたのが監督のアントニオ・コンテです。予想外の好スタートを記念して、そのコンテがユヴェントスを率いて2年目の12-13シーズン終盤に書いたバイオグラフィをどうぞ。
まあベルギー戦であれだけやれたのは、相手の監督が戦術的に間違えられるところをすべて間違えてくれたおかげというところもあるので、この先はもっと苦労すると思いますが、イタリアが出場国の中でも組織的戦術の完成度がダントツに高いチームであることに変わりはありません。
ちなみに、コンテは今大会が終わったらイタリア代表監督を降りて、新シーズンからはチェルシーを率いるわけですが、その後任には文中にも出てくる師匠格のジャンピエロ・ヴェントゥーラの就任が決まっています。

bar

現役時代は、トラパットーニ、リッピ、アンチェロッティという3人の名監督の下、13シーズンに渡ってビアンコネーロでプレーし、90年代の黄金時代を名脇役として彩った。

引退後7年の時を経て監督としてトリノの地に戻ってくるや、就任1年目にしてピッチ上では6年ぶり(記録上では8年ぶり)となるスクデットをもたらし、続く今シーズンも連覇は目前。2006年の「カルチョポリ」以来続いていた迷走から抜け出し、本来あるべき盟主の座に返り咲いた「ヴェッキア・シニョーラ」の新たなシンボルである。

1969年、南イタリア・プーリア州レッチェ生まれ。父コジミーノは、地元の育成クラブ「ユヴェンティーナ・レッチェ」の会長兼監督で、幼少期からボールと戯れながら過ごす環境で育った。

11歳でレッチェの育成部門に入ると16歳でセリエAデビューを果たし、19歳ですでに不動のレギュラー、21歳を迎えた91-92シーズンには70億リラでユヴェントスに引き抜かれるというエリートコースを歩む。そのユーヴェでは、傑出したダイナミズムと安定したテクニックを兼ね備え、質の高いハードワークで攻守両局面に貢献できるMFに成長、94年にはイタリア代表入りを果たしてワールドカップ・アメリカ大会でも2試合に出場した。

リッピ監督が築いた90年代半ばの黄金時代(94-95から98-99までの5シーズンでスクデット3回、CL優勝1回、準優勝2回)を含めて、不動のレギュラーだったことは一度もない。ほとんど常に、ディノ・バッジョ、マロッキ、タッキナルディ、デシャン、ユーゴヴィッチ、ダーヴィッツらとポジションを争う立場に置かれた凖レギュラーという立場だった。

にもかかわらず96-97から00-01までキャプテンを務めたのは、日々のトレーニングでも試合のピッチでも常に100%の力を出し切ってプレーするだけでなく、自分の利害よりもチームの利害を優先するプロフェッショナルな姿勢を通して、誰もが認めるリーダーとしての存在感を発揮してきたから。

03-04シーズンを最後に35歳で引退すると、すぐにコヴェルチャーノの監督学校でコーチングライセンスを取得する。後にあるインタビューで「自分が偉大なカンピオーネになれると思ったことは一度もない。でも当時から優秀な監督になれるという自信はあった」と語るように、引退後の進路に関しては選手時代から明確な構想を抱いていた。

監督としてのキャリアは、カテゴリー2のライセンスを取得した05-06シーズン、シエナでルイジ・デ・カーニオの助監督を務めるところから始まった。この年シエナは終盤戦に大きな不振に陥りながらも17位でシーズンを終え、3シーズン連続となる残留を果たすことになる。

このシエナでの経験がコンテにとって重要だったのは、その後のキャリアに大きな影響を与える出会いがあったから。同じトスカーナ州のピサ(当時セリエC1)で、このシーズン途中から監督を務めたアントニオ・トーマ(現レッチェ監督)が、当時他には誰も用いていなかった4-2-4システムで戦っていたのを見て影響を受け、そのトーマと親交を結ぶと同時に、自らもこのシステムを研究するようになったのだ。相手の4バックに対して4対4の関係を作り、ダイレクトパスを多用したコンビネーションによってそのギャップを衝くというのが、その基本コンセプトである。

続く06-07シーズン、セリエBのアレッツォ監督に就任し、本格的なキャリアのスタートを切ったが、最初の9試合で1勝もできず(5分4敗)に解任。しかし、シーズン終盤の3月に呼び戻されると、13試合で7勝1分3敗という成績を残し最終節まで残留に希望をつないだ。4-2-4を本格的に採用したのはこの二度目の就任時からのことだ。

アレッツォ降格に伴い一旦フリーとなったコンテは、翌07-08シーズンの序盤を、ジャンピエロ・ヴェントゥーラ監督の下で改めて4-2-4システムを導入し、セリエBに旋風を巻き起こしていたピーサを研究しつつ過ごす。

そしてシーズン途中の2007年12月、ジュゼッペ・マテラッツィ解任の後を受けてバーリ(セリエB)の監督に就任すると、当時フリーだったトーマを助監督として呼び寄せて、4-2-4システムをチームに導入。このシーズンは11位に留まったが、翌08-09シーズンには、ウディネーゼからレンタルしたバレート(23得点)をセンターフォワードに置き、クツゾフ、リーヴァスといったストライカーをウイングに配した4-2-4でセリエBを席巻、バーリに8年ぶりのセリエA昇格をもたらした。

しかしシーズン終了後の6月、一度は契約を延長しながら、セリエAを戦うための補強をめぐってジョルジョ・ペリネッティSDと対立して契約を解消。続く09-10シーズンはフリーで開幕を迎えることになる。しかし、それから1ヶ月足らずの9月21日、アンジェロ・グレグッチを解任したアタランタから就任要請を受けてこれを快諾、引退後6年目にして監督としてセリエAの舞台に帰還を果たした。

再びトーマを助監督として臨んだこのアタランタでの経験は、しかし13試合(3勝4分6敗)で途中解任という不本意な結末に終わる。トーマとの関係も何らかの理由で壊れ、2人はこれを最後に袂を分かつことになった。

復活の舞台となったのは、翌10-11シーズンに就任したシエナ。前年7シーズンぶりにセリエBに降格したシエナは、新たにオーナーとなったマッシモ・メッザローマの下、ペリネッティをSDに迎えて1シーズンでのA復帰を目指していた。そのペリネッティが白羽の矢を立てたのが、バーリ時代共に昇格を勝ち取ったコンテだった。

シエナでも躊躇なく4-2-4を採用したコンテは、レジナルド(現シエナ、前JEFユナイテッド)、カライオ(現ナポリ)、マストロヌンツィオ(引退)、ブリエンツァ(現アタランタ)という強力4トップを擁して常に首位争いを続け、シーズン終了まで3試合を残して余裕のセリエA昇格を勝ち取る。

キャリア5年目にしてセリエA昇格2回というのは、監督の競争がきわめて激しいイタリアにおいては、申し分のない履歴書である。しかし、ユヴェントスというメガクラブの指揮を執るためには、まだ十分とは言えなかった。何よりも、セリエAでは途中解任に終わったアタランタでの13試合が唯一の経験だったからだ。

しかし翌11-12シーズン、前年デル・ネーリ監督の下で7位に終わりチャンピオンズリーグリーグはおろかヨーロッパリーグにすら手が届かないという屈辱を味わったアンドレア・アニエッリ会長とジュゼッペ・マロッタGDは、マッザーリ、ヴィラス=ボアスといった候補との交渉が不調に終わった末、コンテの招聘を決断する。決め手になったのは、元チームメイトでこの年からクラブの経営陣に名を連ねた元バロンドール、パヴェル・ネドヴェドの強い推薦だった。

コンテは監督としてのキャリアをスタートさせた2005年、あるインタビューで次のように語っている。「いつかユヴェントスの監督になる?もちろんだ。問題はユヴェントスの監督になるかどうかではなく、いつなるかだ。私にとっては単に時間の問題でしかない」。その時がついにやって来たというわけだ。

ユーヴェはこの時点ですでに、新シーズンに向けた補強戦略を進めており、その中にはミランとの契約を満了したアンドレア・ピルロの獲得も含まれていた。問題は、コンテの4-2-4において中盤センターはフィジカルと運動量に優れた守備力の高いインコントリスタ(守備的MF)を置くべきポジションであり、ピルロのようなレジスタ(プレーメーカー)の起用が想定されていなかったこと。33歳を迎えてフィジカルの衰えが見え始めていたピルロに、このポジションが担い切れないことは明らかだった。

この大きなジレンマを前にしたコンテは、プレシーズンを通して、4-2-4をメインのシステムとしてチーム作りを進めながら、前線から1人削って中盤に回した4-3-3も並行して試すというやり方で、解決の道を模索し続ける。

そして迎えたパルマとの開幕戦、コンテは中盤センターにピルロとマルキジオ、前線にペペ、デル・ピエーロ、マトリ、ジャッケリーニを並べた4-2-4で試合をスタート、2-0となった後半20分、デル・ピエーロに替えてヴィダルを投入し4-3-3にシステムを切り替えるという采配で、4-1の勝利を勝ち取る。

4-2-4でスタートし後半にヴィダルを投入して4-3-3へ、というパターンを続くシエナ戦(1-0)、ボローニャ戦(1-1)でも試したコンテだったが、攻守のバランスに明らかな問題を抱えたこの2試合の内容を見て、ついに4-2-4を封印して4-3-3一本に絞るという決断を下す。

その後一度も敗れることなくスクデットを勝ち取ったというシーズンの結末を見れば、「4-2-4かピルロか」というジレンマに最終的な解決を与えたこの決断が、ユヴェントスにとって決定的な分岐点となったことは明らかだ。

セリエAでの実績ゼロでメガクラブの指揮を執り、1年目でスクデットを勝ち取るという大きな結果を勝ち取ったことで、コンテの評価は一気に高まった。誰もが指摘したのが、システムへの執着を捨て、しかしサッカーのコンセプトにおいては妥協することなく、与えられたチームから最大のパフォーマンスを引き出したということ。事実、コンテ率いるユヴェントスの戦術的進化は、それだけではとどまらなかった。

4-2-4から4-3-3へのシステム変更によってピルロという最大の「資産」を最大限に活用する中盤のメカニズムを確立したのは、進化の最初のステップに過ぎなかった。昨シーズン終盤には、3MFの中盤を維持したまま、2トップ+2ウイングという4-2-4の攻撃パターンを再現することを目指して、3バックの3-5-2システムを導入する。

攻撃の局面でウイングバックが高い位置まで張り出すことで疑似4トップとも言える形を作り出す、「実質3-3-4」とも呼べるこのシステムは、就任2年目の今シーズンには当初から基本システムと位置づけられて、さらなる進化を遂げつつある。

その今シーズンは、欧州カップの出場権がなくカンピオナートに専念できた昨シーズンとは異なり、チャンピオンズリーグとの「二足のわらじ」をいかに履きこなすかという、さらに難易度の高い課題を突きつけられた。さらに、シエナ時代に選手が仕組んだ八百長工作を見逃したという嫌疑によって4ヶ月間の出場停止処分を受け、12月まではベンチで指揮を執ることができないという状況に置かれる。

こうした困難にもかかわらず、現役時代と変わらぬ傑出したリーダーシップによってチームの結束を保ち、代わりにベンチに入ったマッシモ・カレーラ、アンジェロ・アレッシオというテクニカルスタッフと密接な連携を取りながら、シーズンを通して首位の座を維持、さらにチャンピオンズリーグでもベスト8進出を果たすなど、監督としての手腕にはあらゆる面で磨きがかかっている。

アンチェロッティ、マンチーニ、スパレッティというひとつ上の世代の名将たちが国際舞台で活躍する現在、イタリア国内においてはマッシミリアーノ・アッレーグリ(ミラン)、ワルテル・マッザーリ(ナポリ)と並んでトップを走る名監督という地位を確立したと言えるだろう。□

<採点> 
■戦術家としての手腕:A
ユーヴェ監督就任当初まで持ち続けた4-2-4へのこだわりを捨て、4-3-3、3-5-2とチームを進化させ、選手に最適化されたシステムを通して同じ戦術コンセプトを実現する手腕を発揮した。
■モチベーターとしての手腕:A
就任以来2年間を通して、チーム内部での確執やトラブルが表に出たことは一度もなく、チャンスが少ない控え組も出場機会には常にベストを尽くすなど、チームの結束と統制をほぼ完璧に保っている。
■勝負師としての手腕:B
原則、相手や状況によってシステムや戦術を変えることはない。セリエAではそれでも通用してきたが、初めて格上と当たったCLバイエルン戦では相手に弱点を衝かれたにもかかわらず対応策を打てず、戦術的な硬直性が露呈した。
■マネジャーとしての手腕:S
出場停止処分を受けた今シーズン前半も、スタッフ内の連携を保って試合を準備し、ベンチに監督が不在というハンデを感じさせない成績を残した。先頭に立ってチームを鼓舞し引っ張るリーダーシップは現役時代から変わらず。
■トレーナーとしての手腕:B
選手を「育てる」よりは「活かす」手腕に長けている。アサモアのWBコンバート、ジャッケリーニのインサイドハーフ起用はその典型例。目先の結果が要求されるチームゆえ「使いながら育てる」リスクは冒さない。

(2013年4月19日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

By admin

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。