ベルギーに続いてスウェーデンも下して、早くもベスト16進出を確定させたイタリア(ベルギーがアイルランドに負けない限り、グループ1位も確定)。相変わらずディフェンスは安定しており、スウェーデンに枠内シュートを1本も打たせず、イブラヒモヴィッチもキエッリーニが完全に抑え込みました。バルザーリ、ボヌッチ、キエッリーニのいずれも、個人能力(フィジカルとテクニック)は決してトップレベルとは言えないのですが、組織的な連携、戦術的な読みと状況判断、そして駆け引きを含めたマリーシアはそれを補ってあまりある水準にあります。「3人セットで1ユニット」という捉え方をすれば、7年前に書いたこのテキストで取り上げた先達たちの正統な後継者は彼らだと言うことができるかもしれません。

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ワールドカップ優勝4回、準優勝2回。国際舞台で結果を残したイタリアはいつも、偉大なゴールキーパーと偉大なディフェンダーを擁する守備のチームだった。主役として注目を集めたのは、ジュゼッペ・メアッツァ、ルイジ・リーヴァ、パオロ・ロッシ、ロベルト・バッジョといったアタッカーだったかもしれない。しかし、勝利の土台となったのは常に堅固なディフェンスだった。

1934年のワールドカップではルイジ・アレマンディとエラルド・モンゼリオ、38年W杯はアルフレード・フォーニとピエトロ・ラーヴァという、20世紀前半のイタリアサッカーを代表する名ディフェンダーが、当時すでに古典的な戦術だった2-3-5システムの最後尾を固めていた。
1968年の欧州選手権を制し、70年W杯で準優勝を飾ったチームには、ハードマーカーのタルチジオ・ブルグニク、史上最初の攻撃的サイドバックと言われるジャチント・ファッケッティがいた。
82年W杯の優勝チームは、このふたりの系譜につながるクラウディオ・ジェンティーレ、アントニオ・カブリーニ、そしてイタリアサッカー史上最高のリベロと言うべきガエターノ・シレーアを擁していた。
94年W杯決勝でブラジルに惜敗したイタリアには、当時世界最強クラブだったミランの最終ライン(タソッティ、コスタクルタ、バレージ、マルディーニ)がそのまま移植されていた。
そして、2006年のドイツでGKブッフォンと共に違いを作り出したのは、今もイタリア代表のキャプテンを務めるファビオ・カンナヴァーロであり、アズーリ史上屈指の武闘派CBであるマルコ・マテラッツィだった――。

サッカーの歴史を振り返っても、これだけたくさんの世界的なディフェンダーを輩出した国は、イタリアの他には見当たらない。その流れを改めて辿ってみると、最も多くの名DFを生み出した時代は、リベロを置いたマンツーマンディフェンスを基にしたイタリア独特の戦術「カテナッチョ」の時代と重なっていることがわかる。具体的に言えば、1950年代後半から90年代半ばまでの40年間だ。

「カテナッチョ」は、ゾーンディフェンスによる左右対称の布陣が当たり前になっている現在からすると、かなり奇妙な左右非対称のシステムである。

ディフェンダーは4人いるが、横1列に並んでいるわけではない。センターバックにあたるのは、中央で敵のセンターフォワードをマークするストッパーと、マークする相手を持たずチームの最後尾でスイーパー(掃除人)の役割を果たすリベロ(イタリア語で「自由な」の意)の2人。サイドバックは、敵のセカンドトップをマークする役割を担う右SBにはストッパーに近い守備的なプレースタイルを求められるのに対し、左SBには守備力だけでなく機を見て敵陣に攻め上がり前線にクロスを供給する攻撃力も要求された。

それぞれ役割が微妙に異なるこの4つのポジションが、それぞれイタリアを代表する世界的なディフェンダーを生み出すことになる。

「カテナッチョ」が一世を風靡した1960年代を代表するクラブチームは、1963年にイタリア勢として初めてチャンピオンズカップ優勝を果たしたミラン、そして翌64年からチャンピオンズカップ2連覇を飾った「グランデ・インテル」だ。

そのミランでキャプテンを務めていたのがリベロのチェーザレ・マルディーニ。長身ながら柔らかい身のこなしとエレガントなボールさばきを特徴とするプレーヤーで、イタリア代表としても62年のW杯チリ大会でプレーしているが、現代のファンにはむしろ、98年フランスW杯のイタリア代表監督、そしてパオロ・マルディーニの父としての顔の方がおなじみだろう。

「グランデ・インテル」のキャプテンもリベロのアルマンド・ピッキ。テクニックに優れていたとはいえないが、すぐれた戦術眼と強烈なリーダーシップを備えた偉大なディフェンダーだった。68年欧州選手権のブルガリア戦で負った骨盤骨折の後遺症により35歳の若さで早世した悲劇の人でもあった。

この2人と並び60年代イタリアを代表するリベロが、カリアリでプレーし70年W杯をレギュラーとして戦ったピエルルイジ・チェーラ。背筋を伸ばし顔を上げて、最後尾からドリブルで持ち上がりゲームを組み立てるそのプレースタイルは、単なるスイーパーには留まらないゲームメーカー的なリベロのプロトタイプとなった。

その系譜を引き継いだのが、ジョヴァンニ・トラパットーニ監督の下70~80年代にかけて黄金時代を築いたユヴェントスでプレーし、イタリア代表でも82年に世界の頂点に立ったシレーア。状況判断、対人能力、パスワーク、すべてにおいて卓越したプレーヤーで「イタリアサッカー史上最高のリベロ」という評価は今なお揺るぎない。35歳で引退した1年後、ユヴェントスのスカウトとして対戦相手の視察に訪れたポーランドで自動車事故に遭い、非業の死を遂げた。背番号6はユヴェントスの永久欠番となっている。

「カテナッチョ」における背番号2、すなわち右サイドバックのプロトタイプと呼べるのが、「ロッチャ」(岩石)というニックネームで呼ばれたブルグニク。ユヴェントスとインテルで計5度のスクデットを勝ち取り、イタリア代表でも10年に渡ってレギュラーの座を守り続けた。

その後継者として次の10年を担ったのがジェンティーレだ。一度食いついたら決して相手を離さないマスティフ犬ばりのハードマークは、マラドーナを退場に追い込み、ジーコの力を削ぎ取った82年W杯の活躍によって伝説となった。

このハードマーカーとしての右サイドバックの系譜をジェンティーレから引き継いだのが、ジュゼッペ・ベルゴミ、そしてチロ・フェラーラだ。

82年W杯、わずか18歳で決勝のスタメンに名を連ねたベルゴミは、その後10年間レギュラーの座を守り続けたが、代表にゾーンディフェンスを導入したアリーゴ・サッキの監督就任(92年)と共に、28歳というキャリアのピークを迎えた年齢にもかかわらず、アズーリの招集リストから姿を消すことになった。マンマークのエキスパートだったベルゴミは、古いタイプのディフェンダーとして時代から取り残された存在になったように見えた。しかし35歳を迎えた98年、サッキの後を継いだチェーザレ・マルディーニによってW杯フランス大会のメンバーに招集され、大会中膝に大怪我を負ったアレッサンドロ・ネスタに代わって3バックの一角を務めることになる。

そのベルゴミより4歳若いフェラーラも、20歳で代表デビューを果たした早熟のタレントだった。21年に渡る現役生活の中、「マラドーナのナポリ」で2度、ユヴェントスでさらに5度のスクデットを勝ち取るなど、80年代末から00年代前半を通じてイタリアを代表するディフェンダーの1人であり続けた。しかし代表では、ベルゴミと同じ理由でサッキから冷遇され、その後も2度に渡る怪我でユーロとW杯を棒に振るなど運に恵まれず、その実力からすればまったく物足りない実績しか残すことができなかった。

ブルグニク、ジェンティーレからベルゴミ、フェラーラに至る背番号2の系譜が、スピードやアジリティを備えた敵のセカンドトップ、時には「10番」をマークする速さとインテリジェンスを備えたディフェンダーのリストとすれば、敵のセンターフォワードをマークするストッパー、すなわち背番号5の系譜は、高さと強さを武器とするディフェンダーのそれである。

60年代のイタリアを代表するストッパーといえば、「グランデ・インテル」でピッキの前を固めたアリスティーデ・グアルネリ、そして70年W杯でレギュラーを務めたロベルト・ロサートだろう。前者が強靭なフィジカルを武器にしたクリーンなプレーを身上としていたとすれば、後者は挨拶代わりに平然と相手の足を削る「武闘派」だった。70年代から80年代にかけて、グアルネリの流れを受け継いだのがフルヴィオ・コッロヴァーティとピエトロ・ヴィエルコウッド、ロサートの後継者と言えるのがリッカルド・フェッリだ。

82年W杯優勝メンバーのコッロヴァーティは、鋭い読みとタイミングのいい飛び出しでのパスカットを得意とする、エレガントなストッパー。ロシア人の血を引くことから「ツァール」(皇帝)と呼ばれたヴィエルコウッドは、爆発的なスピードと鋼のような肉体を併せ持ち、1対1の駆け引きで決して譲ることのない、ストッパーの理想形ともいうべきプレーヤーだった。あのマルコ・ファン・バステンをして「最も嫌いなDF」と言わしめたほど。一方、ベルゴミと共に長年に渡りインテル守備陣の支柱だったフェッリは、彼ら2人ほどの卓越した頭脳も運動能力も備えてはいなかったが、頑強な体格と強いパーソナリティに物を言わせて敵に仕事をさせなかった。

背番号3、すなわち左サイドバックとしてカルチョの歴史に残るプレーヤーといえば、まず「グランデ・インテル」のシンボルの1人、ジャチント・ファッケッティの名前を挙げないわけにはいかない。188cmという当時としては「巨人」と言うべき体格ながら、10代半ばまでは陸上の短距離走者として将来を嘱望されたほどのスピードと持久力を備えたファッケッティは、サイドライン際を駆け上がり敵ペナルティエリアまで攻め上がる、世界最初の「攻撃的サイドバック」だった。セリエA17シーズンで通算59得点は、ディフェンダーとしては驚異的な数字である。

そのファッケッティの後を継いでアズーリの3番を背負ったのが、アントニオ・カブリーニ。ジェンティーレ、シレーアと共に70-80年代のユヴェントス黄金時代を支え、82年W杯でもその力強い攻め上がりで優勝に大きな貢献を果たした。セリエA297試合で33得点と、その攻撃力はファッケッティに迫る域に達している。

ここまで挙げてきたプレーヤーはいずれも、カテナッチョの全盛期にキャリアを築いた、いわば「カテナッチョの申し子」たちである。だが、その最後の世代に属するベルゴミ、フェラーラ、ヴィエルコウッド、フェッリといった名選手たちのイタリア代表におけるキャリアには、90年代初頭に突然幕が引かれることになった。その分水嶺となったのは、他でもないアリーゴ・サッキのイタリア代表監督就任である。

80年代後半、ミランに当時としては革新的だったゾーンのラインディフェンスを導入し、組織的なプレッシングとオフサイドトラップを武器にチャンピオンズカップ2連覇を果たして欧州サッカー界に革命を起こしたサッキは、イタリア代表にもそのままゾーンディフェンスを持ち込んだ。そこでレギュラーに起用されたのは、右からマウロ・タソッティ、アレッサンドロ・コスタクルタ、フランコ・バレージ、パオロ・マルディーニという、当時のミランの最終ラインそのままだった。

人を基準とするマンツーマンディフェンスと、ボール、人、ゴールという3つの基準を元にポジションを取りマークを受け渡すゾーンディフェンスでは、ディフェンダーに求められる動きがまったく異なる。サッキは、旧世代の優秀なマンマーカーに新たなシステムを教え吸収させる時間を惜しんで、すでにそれを身に付けている自らの愛弟子を起用することを選んだ。それはもちろん、ミランの4バックがそれぞれトップクラスの偉大なプレーヤーだったからでもある。

20代前半は、激しい闘争心とタイトなマンマークを持ち味とするジェンティーレタイプのDFだったタソッティは、サッキの薫陶を受けて、飽くなき上下動を繰り返すエネルギッシュで現代的な右SBへと変貌を遂げ、偉大なキャリアを送った。チェーラ、シレーアの系譜を受け継ぐ最後の世代のリベロだったバレージは、爆発的なスピードと優れた戦術眼、そして強いリーダーシップを備えた最終ラインのリーダーとして、ミランの魔法のようなオフサイドトラップを操った。

そのバレージ同様クラブの生え抜きであるコスタクルタ、マルディーニは、サッキが導入したゾーンディフェンスを自然に吸収し体得することでディフェンダーとしての完成を見た、いわばゾーン育ちの第一世代とも言うべき存在である。共にミラン一筋で40代になるまで現役を続け、カルチョの歴史にその名を残す偉大なプレーヤーとなった。

とりわけマルディーニは、サイドバックとしてもセンターバックとしても世界トップレベル、技術、戦術、フィジカル、インテリジェンスすべてにおいてほぼ完全無欠という、サッカー史上最高のディフェンダーと呼ぶに相応しい存在だ。ミランではスクデット7回、チャンピオンズリーグ優勝5回という金字塔を打ち立てながら、代表では94年USAW杯、ユーロ2000で共に準優勝止まりと、とうとうビッグタイトルに手が届かないまま2002年日韓W杯を最後にアズーリのユニフォームを脱いだ。

60-80年代に偉大なキャリアを築いた「カテナッチョの申し子たち」は1930-60年代生まれ、そして90年代のイタリアを支えたミランの4人は50-60年代の生まれである。それに続く70年代生まれのディフェンダーで、彼らに匹敵する実力とキャリアを誇る偉大なディフェンダーと呼べるのは、73年生まれのファビオ・カンナヴァーロ、76年生まれのアレッサンドロ・ネスタの2人だけだ。

ジェンティーレとヴィエルコウッドを足して二で割ったようなプレースタイルを持つカンナヴァーロは、かつての「2番」と「5番」のすべての美点を融合させた素晴らしいセンターバックである。純粋なディフェンダーとして史上唯一のバロンドールをもたらしたドイツW杯での驚異的なパフォーマンスは、これからも長く語り継がれることだろう。

そのカンナヴァーロと共に長年に渡ってイタリア代表の最終ラインを支えてきたネスタは、パワーとエレガンスを併せ持った、純粋な「5番」の進化形と言うべき大型センターバック。98年、02年、06年と、出場した3度のW杯いずれも故障に悩まされ、途中離脱を余儀なくされるという不運な代表キャリアを送ったが、クラブではラツィオ、ミランでスクデット、そして2度のチャンピオンズリーグを勝ち取っている。

これだけ多くの偉大なディフェンダーを輩出してきたイタリアだが、ネスタを最後にワールドクラスと呼べるプレーヤーは生まれていない。その理由について、ほかでもないカンナヴァーロは筆者にこう語ってくれたことがある。

「サッカーの基本はマンツーマンだ。攻撃でも守備でも、結局は1対1の勝負からはじまるわけだから。守備で言えば、基準になる相手を持ってプレーすること、その相手を正しくマークすること、そういうことは基本中の基本。僕が小さかった頃はまだマンツーマンディフェンスが主流だったから、どうやってマークするか、どうやったら前を向かれないか、ヘディングで競り勝つためにはどうすればいいかを、しっかり叩き込まれたものだった。でも最近は、12,3歳の子供たちにもゾーンディフェンスをやらせる。だから、ゾーンをカバーしたりラインを作ったり、戦術的なことはしっかりできても、肝心の1対1でどう守るべきかが、あまり鍛えられていない若手が増えてきてるんだ」

カテナッチョの時代が終わりを告げてほぼ20年。イタリアが伝統的に育んできた「マンマークの文化」の灯が今ついに消えようとしている、ということなのだろうか。

今シーズンのセリエAで、DFとして最も卓越したパフォーマンスを見せているのは、椎間板ヘルニアによる引退の危機から復活した33歳のネスタである。そして、来年6月のW杯南アフリカ大会に臨むイタリア代表の最終ラインを率いるのは、36歳になったカンナヴァーロだ。彼らの後継者はまだ見つかっていない。□

(2009年11月19日/初出:『サッカーベストシーンEX 5 最強DF列伝』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。