ふたつ前の「イタリアサポーター/ウルトラス事情」でも触れた、09-10シーズン終盤のラツィオ対インテルにおけるラツィオウルトラスの馬鹿げた振る舞いについて、背景事情も含めて掘り下げたテキストです。

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2010年5月2日に行われたセリエA第36節のラツィオ対インテルで、ローマのスタディオ・オリンピコを埋めた4万5000人のラツィアーレ(ラツィオサポーター)たちが、ローマにスクデットを獲らせたくない一心で、一丸となってインテルを応援して物議をかもしたことは、すでに色々なところで報じられている通り。

ウルトラスが陣取るクルヴァ・ノルド(北ゴール裏)が、自分たちのチームに対して「今日は負けろ」「勝ったらボコるぞ」といったチャントを歌い続け、GKムスレラが好セーブを見せるたびに拍手ではなく落胆のため息がスタジアムを満たし、インテルが先制ゴールを決めた途端に歓喜が大爆発するという光景は、TVを通して見ているだけでも十分に異様なものだった。

しかし、試合の前後に起こった出来事も含めて、このラツィアーレたちの振る舞いをめぐるあれこれには、イタリアのサポーターがカルチョをどのように生きているのか、彼らの生活の中にカルチョがどのように根付いているのか、そのあり方が少々極端ではあるが、しかし端的に表れていたと言うこともできる。

それをひとことで表すならば「対立を求め諍いを楽しむ」ということになるだろうか。「仲間か敵か」「俺たちかあいつらか」「讃えるか貶めるか」――。両極端の二者択一を進んで受け入れ、それがもたらす喜怒哀楽を味わい尽くす。

ローマは、そうしたカルチョをめぐる対立と諍いと喜怒哀楽が、最も派手でわかりやすい形で表れている都市である。ローマに生まれた男の子には、人生、2つの選択肢しか与えられていない、と良く言われる。ロマニスタになるか、ラツィアーレになるかのどちらかだ。なにしろ、初対面の挨拶代わりに「デ・ケ・セイ?(お前どっち?)」と訊ね合って、敵か味方かを見極めないと落ち着かないという土地柄である。ラツィオとローマのライバル関係は、それこそローマという街の生活の基盤、日々の糧のようなものだ。

今シーズンは、両チームの歩みが明暗くっきり分かれる対照的なものになっただけに、喜怒哀楽の振幅はいつになく大きかった。

ローマ、ラツィオ共に、序盤戦は問題だらけだった。しかし、ローマが11月以降5ヶ月以上負けなしという大復活を見せ、14ポイントもあったインテルとの勝ち点差を見事に引っ繰り返したのに対し、ラツィオは低迷から抜け出すことができないまま。4月18日のローマダービーを迎えた時には、ローマは首位、ラツィオは降格ラインまで5ポイントの16位と、両者の差は天と地ほどにも開いていた。

そのダービーの結果は、まだ記憶に新しいところ。ラツィオがロッキのゴールで先制し1ー0で前半を終えると、ローマのラニエーリ監督が、クラブのシンボルとしてサポーターの絶対的な崇拝の対象であるトッティとデ・ロッシに途中交代を命じる大博打を打つ。後半は、それが見事に当たってローマが逆転に成功、2ー1で勝利を収めて首位の座を守ることになった。

問題は、試合終了後に起こった出来事だった。トッティがラツィオサポで埋まった観客席に向かって、両手の握りこぶしを上に挙げて親指を下に向ける仕草(もちろん、これでお前らはセリエB行きだ、という意味)をして挑発、それを見咎めたラツィオの選手たちがトッティに詰め寄って乱闘一歩手前という騒ぎになったのだ。

勝者が敗者を侮辱するというのは、スポーツの世界では最もアンフェアな振る舞いのひとつだ。サポーターの日常生活の中では、そうしたぎりぎりの挑発や侮辱のやり取りもごく普通に交わされているのが(特にローマでは)現実だったりもするが、それはあくまで冗談が通じるフレンドリーな文脈の上でのこと。まだアドレナリンも抜け切っていない試合直後に、落胆している相手に向かってこれをやったら、逆上されても仕方がないところ。この一件で、そうでなくともストレスが溜まっていたラツィアーレたちが、ローマに対する敵意をさらに燃え上がらせたのも、当然のことだった。

しかし、首位に立って優越感に浸るロマニスタ、降格の危機に戦々恐々としながら怒りに震えるラツィアーレ、という構図は、たった1週間でまったく様相を変えることになる。続く第35節、ローマはジェノヴァでサンプドリアに苦杯を喫してあっけなく首位転落、一方ラツィオはホームでジェノアを下して貴重な勝ち点3を上積みし、降格の危機を遠ざけた。そこで迎えたのがラツィオ対インテルだったというわけだ。

試合に向けた空気がどんなものだったかは、一日中ローマとラツィオのことだけをしゃべりまくっている数多くのローカルラジオ局やネット上の掲示板で交わされた侃々諤々の議論に象徴されている。

「インテルに勝てばローマにスクデットをプレゼントすることになる。そんなことは絶対に起こってはならない」
「いや、インテルに勝ってローマが優勝すれば、ロマニスタは一生ラツィアーレに感謝しなければならなくなる。奴らにとってそれほどの屈辱はないだろう」
「トッティのあの振る舞いは絶対に許せない。まずインテルに負けること。そしてその後、クルヴァ・ノルドの下に来てみんなで親指を下に向けてそれを祝うこと。選手たちがやるべきことはそれだけだ」
「もしPKをもらったら絶対(ダービーでPKを外した)フロッカリに蹴らせろ」
「降格ゾーンまではまだポイント差がある。負けても大丈夫だ」
「それは八百長だ。そんなことが許されるのか」
「八百長なんかじゃない。降格争いをしているチームがチャンピオンズリーグで決勝まで行くチームに負けるのは当たり前だろう。お前はローマが優勝して嬉しいのか!?」

しかしローマという都市の問題は、こうしたやり取りが、笑って済ませられる冗談半分の論争だけでは終わらないところにある。話がどんどん膨らんで行くうちに、本気になって暴走する連中が出てくるのだ。

ジェノア戦後、1日のオフを挟んで練習が再開した火曜日、ラツィオの練習場の入り口でウルトラスの代表数人がMFバローニオの車を止めると、こう囁いて凄んだとも伝えられる。「何をすればいいかわかってるな。勝ってローマにスクデットをプレゼントするなどということはあり得ない。言いたいのはそれだけだ。これは冗談じゃない。レーヤ(監督)にもちゃんと説明しておけ」。

ウルトラスを敵に回すとどうなるか、最も良く知っているのは当の選手たちだ。残念なことにイタリアでは、選手やその家族がウルトラスから身の危険を感じるような脅迫を受けることも決して珍しくはない。そんな過熱した空気の中で迎えたインテル戦で、ゴール裏から湧き上がった「今日は負けろ」「勝ったらボコるぞ」というチャントも、ラツィオの選手たちの耳には単なる冗談には聞こえなかったはずだ。

試合の結果は、2ー0でインテルの楽勝。前半こそインテルの猛攻をムスレラが好セーブ連発で食い止めたが、ハーフタイム直前に決まったサムエルの先制ゴールでインテリスタとラツィアーレが揃って歓喜を爆発させて以降(ラツィオのゴール裏には「OH NOOO」という皮肉一杯の横断幕が踊った)、後半45分は単なる時間潰し以上の内容ではなかった。

「今もまだショックを受けてる。今までこんなのは一度も経験したことがない。オリンピコを埋めた5万6000人のほとんどが、俺たちに向かって戦うな、負けろと叫んでいた。確かにすべては『ローマへの憎悪』のせいかもしれない。でもこのサポーターの振る舞いは単なるライバル関係を越えてるよ。これはもはや『情熱』じゃなくて『病気』だと思う。自分のチームの勝利よりも敵の損害を喜ぶ感覚は、俺には理解できないよ」

これは、ラツィオのセルビア人SBコラロフが試合翌日、故国のマスコミの取材に答えて口にしたコメントだ。しかし、サポーターの世界はまったく別の論理で動いている。

ラツィオサポーターの振る舞いを批判的に取り上げた某紙WEB版のコメント欄にこんな書き込みがあった。

「お前らだって机の中にはジャッロロッソ(黄赤=ローマ)かビアンコチェレステ(白青=ラツィオ)のマフラーを隠してるくせに、モラリスト気取りなんて笑わせる。ローマでは1年360日がダービーだ。俺たちローマ人は、ローマとラツィオという2つの信仰の宗教戦争を生きている。口論、からかい、嘲笑、皮肉、優越感、屈辱、リベンジ。これが俺たちローマの庶民にとってのカルチョだ。文句あっか」□

(2010年5月10日/初出:『footballista』連載コラム「カルチョおもてうら」)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。