先日Jリーグチャンピオンシップに絡んでガンバ大阪のパトリックに対する人種差別ツイートが問題になりました。誤解を怖れずに言えば、あれは人種差別というよりは無教養とか無知蒙昧とか不作法とかそういうたぐいの問題という側面の方が強いのではないかという気がします。
チェーザレ・ポレンギさんが書いていたように、スタジアムはもちろん社会全体として、日本は基本的に人種差別的ではないとぼくも思います。「あの程度」(あくまで「カギカッコつき」の表現です)のツイートがあれだけ大きな問題として取り上げられ糾弾されるというのは、逆に言えば日本ではそのくらい公的な空間での人種差別行為がレアだということであり、その意味ではそんなに悪い話ではないのではないかという気もするくらいです。
それと比べると、このテキストで取り上げたラツィオやゼニトのウルトラスによる人種差別は、ずっと確信犯的で深刻な問題です。その背景にある社会の事情がずっと複雑(日本のようにほぼ単一文化、ほぼ単一民族の社会とは違って多民族社会化が大きく進んでいる)であるがゆえのことなんですが……。

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2013年3月14日にローマのスタディオ・オリンピコで行われたUEFAヨーロッパリーグのベスト16第2レグ・ラツィオ対シュツットガルトは、スタジアムに観客を入れない無観客試合だった。

これは、2月21日にローマで行われたボルシアMGとのベスト32第2レグで、ラツィオのウルトラスがピッチに発煙筒を投入しただけでなく、ファシスト式敬礼などを行ったことに対して、UEFAが下した処分によるもの。

ファシスト式敬礼というのは、直立不動で右手をぴんと伸ばす、いわゆるナチ式敬礼と同じもので、ファシズム、ナチズムを礼賛する人種差別行為としてドイツ、イタリアなどヨーロッパの多くの国において犯罪行為とされている。

昨年12月に当コラムでトッテナムサポーター襲撃事件を取り上げた時にも触れたことだが、ラツィオ・ウルトラスは反ユダヤ主義を掲げる極右勢力に近いグループが主導権を握っており、以前からしばしば同種の振る舞いが問題視されてきた。

実際、そのトッテナム戦(11月25日)における人種差別行為によって、ラツィオはUEFAからすでに昨年12月、執行猶予つきで無観客試合1試合の処分を受けている。にもかかわらず、ボルシアMG戦でさらに同様の行為があったことから、その執行猶予が無効になった上、さらにプラス1試合の処分が上乗せされることになった。したがって、今回のシュツットガルト戦に加えてさらに、4月11日に行われるフェネルバフチェとの準々決勝第2レグも無観客試合となる。

これによってラツィオが受ける損害(入場料収入の機会損失)は100万ユーロ以上。ほんのひと握り(数百人)のサポーターの行為によってクラブがこれだけ大きな不利益を被るというのは、ある意味では理不尽きわまりないことだ。

しかしUEFAはかねてから、スタジアムにおける人種差別行為に対しては一貫して厳罰主義で臨んでいる。ラツィオは、この決定に対して警備に当たっていた警察当局による有利な証言も添えて異議申し立てを行ったが、UEFAはスタジアムに送り込んでいたオブザーバーの報告書を盾にこれを一蹴している。

UEFAがこれだけ強い姿勢を打ち出しているのは、フットボールが持つ社会的影響力の大きさとそれに対する責任を強く自覚するがゆえ。ミシェル・プラティニが会長に就任した2008年からは、「RESPECT」というテーマを掲げたソーシャル・キャンペーンの一貫として「肌の色や文化の違いをリスペクトしよう」というメッセージを送り続けている。

その背景には、ヨーロッパにおいて近年、深刻化する経済危機や失業率の向上、移民の増加に伴うさまざまな文化摩擦などによる社会不安が高まりを見せており、外国人排斥や反ユダヤ主義といった排他的民族主義を掲げる極右勢力が政治の舞台で存在感を強めているだけでなく(とりわけ東欧で顕著)、そうした社会全体の右傾化がサッカーの世界にもじわじわと影響力を及ぼしてきているという現実がある。

ユダヤ人、黒人だけでなく、ロム(ジプシー)、イスラム教徒、さらには同性愛者まで、人種や文化の異なるマイノリティに対する差別感情がスタジアムを舞台に噴出するケースは、イタリアに限らず多くの国々で増加の一途をたどっている。

ゼニトサポーターの人種差別的排他主義

そうした動きをある意味で象徴するのが、昨年12月にゼニト・サンクトペテルブルク(ロシア)の最大のサポーターグループ「ランドスクローナ」が自らのウェブサイトで公表した「セレクション12」というマニフェスト。

ゴール裏がクラブに対して、「ゼニトかくあるべし」というアイデンティティとそれに基づく運営ポリシーを突きつけるという形を取ったこのマニフェストは、イングランドをはじめとする国外のメディアからネガティブな視点で取り上げられ話題になった。

しかしここには、都市や地域に根差し、それを代表する存在として誇りやアイデンティティの源泉となっているプロサッカークラブという存在(名称にほぼ必ず都市名が入っているのは偶然ではない)が抱える複雑な状況が、その矛盾を内包したままの形で反映されている。

「セレクション12」は、ゼニトというクラブのオリジンとアイデンティティがどこにあるのかを、改めて定義するところから始まる。

「サンクトペテルブルグは、文化都市という歴史的伝統を持ちながら、その一方では常に工業都市でもあり、労働者階級と結びついてきた。それゆえ、ゼニトのサポーターは、タレントの不足を努力と自己犠牲によって補うような献身的な姿勢を高く評価し、そのようなチーム、選手を求めてきた」

「我々には敗北を受け入れ許す準備がある。しかしピッチ上で全力を出し切らない態度は決して許さない。これはゼニトがハードワーカーだけで成り立つべきだということを意味しない。最もタレントに恵まれた選手も常に101%を出し切るべきだということだ」

「近年のゼニトの発展を我々は誇りに思っている。しかしこのクラブが今後、マンチェスター・シティやアンジ、その他多くのクラブのように世界中から無節操に選手を買い集め、クラブが根ざす地域を代表するというアイデンティティを失うことは望まないしそれを危惧する」

そして、そのアイデンティティを保つためには、選手の育成と獲得において地域的な優先順位を明確に定めるべきだと主張する。

最も優先順位の高い「エリア1」はサンクトペテルブルグとレニングラード州という地元であり、続く「エリア2」は、歴史的に深い交流を持ってきたロシア西北部および中央部、「エリア3」はロシアの残る地域およびウクライナ、ベラルーシ、スラヴ諸国、北欧諸国(ヨーロッパの中でも文化的類似性が高い)、そして「エリア4」は残るヨーロッパ全域。南米などそれ以外の地域から選手を獲得するのは、上記4つのエリアから探す全ての努力をした後に限られるとされる。

「なぜならば、クラブは地域的なアイデンティティを担うべき存在であるからだ」。

ただし、そこにはさらなる留保条件がつく。それは、歴史的なライバルであるスパルタク、CSKA、ロコモティフというモスクワ勢からは選手を獲得せず、また売却もしないこと、そして有色人種の選手も獲得しないこと。

「我々は人種差別主義者ではない。単に有色人種の選手を擁さないことがこのクラブの重要な伝統であり、歴史的なアイデンティティであるという以上の理由ではない。我々は、ヨーロッパで最も北にある大都市のクラブであり、文化的なメンタリティとしてアフリカ、南米、オセアニアとは何の関係もない。“ゼニト”はこの地域のメンタリティを体現する選手によって構成されるべきだ」

プロサッカークラブが、その都市や地域を代表する存在であり、地域的・文化的なアイデンティティを担うべきだという考え方そのものには、糾弾されるべきものは何もない。

例えば、バルセロナが自らを「単なるクラブ以上の存在」と定義づけるのは、カタルーニャという地域や文化を、フットボール的な側面からだけではなく代表する存在だという自覚と誇りに根ざしているからだし、アスレティック・ビルバオに至っては、チームでプレーできるのはバスク人(クラブ独自の定義による)だけだという民族主義的なポリシーを貫いている。

「セレクション12」の中でゼニトのウルトラスはこう問いかけている。
「なぜ、アスレティック・ビルバオのポリシーが賞賛されて、我々のそれが人種差別的だと非難されなければならないのか?」

一見すると、この問いかけには理があるようにも見える。しかし問題は、彼らの振る舞いが、地域的、民族的なアイデンティティの追求にとどまらず、それに馴染まない異質なものに対する厳しい不寛容、そして力による排除にまで及んでいるところにある。

事実、ゼニトのサポーターは、ロシアリーグで最も人種差別的なゴール裏として知られている。アンジ・マハチカラでプレーしていたロベルト・カルロスにバナナを投げ、ロコモティフやCSKAでプレーする黒人選手にモンキーチャントを浴びせ、ゼニトが昨夏フランス代表MFヤン・エムヴィラの獲得でレンヌと合意に達した時には、クラブ首脳を脅迫して断念に追い込んでいる。

ブラジル人のムラート(混血)であるフッキの獲得に対しても不快感を露にして、練習場に偽爆弾を投げ込むという事件を起こした。「我々は人種差別主義者ではない」という主張そのものが、まったく説得力を欠いているのだ。バルセロナやA.ビルバオのサポーターが、その種の人種差別行為に出たという話は、少なくとも筆者は聞いたことがない。

プロサッカークラブが都市や地域に根差し、それを代表し象徴する存在であること、そしてサポーターが様々な形で地域的なアイデンティティをクラブに期待し要求すること、それ自体はある意味で自然なことであり、ポジティブなことでもある。

しかし、それが異質なものに対する不寛容や排他的な行為にまで発展することは、決して許容すべきではない。バルセロナやA.ビルバオの姿勢とラツィオやゼニトのウルトラスの立場を分ける明確な一線はそこにある。UEFAが執拗に「RESPECT」と言い続け、反人種差別の戦いを続けるのも、まさにそれゆえである。□

(2013年3月16日/初出:『footballista』連載コラム「カルチョおもてうら」)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。