今日(2015年11月13日)行われた国際親善試合ベルギー対イタリアの会場となったブリュッセルのボードアン国王スタジアムは、かつてはヘイゼルスタジアムという名前でした。そこで1985年に起こった有名な事件についてまとめたテキストです。今日の試合では前半39分に試合が一旦中断され、スタジアムのスクリーンに39人の犠牲者の名前がひとりずつ表示されました。

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1985年5月29日、ヨーロッパチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)決勝の舞台となったブリュッセル(ベルギー)のヘイゼル・スタジアムで試合前に起こり、死者39人、負傷者370人以上を出したこの大惨事は、サッカー史上最悪のスタジアム事故のひとつだ。

84-85シーズンのECC決勝は、80年代半ばの欧州サッカー界を代表する2つのクラブ、リヴァプールとユヴェントスの対戦となった。

リヴァプールは、イアン・ラッシュ(ウェールズ)、ケニー・ダルグリッシュ(スコットランド)という強力2トップを看板に、80-81シーズン、83-84シーズンのECCを制するなど、黄金時代を謳歌していた。

対するユヴェントスも、ジョヴァンニ・トラパットーニ監督の下、ミシェル・プラティニを中心に、パオロ・ロッシ、マルコ・タルデッリなど82年W杯の優勝メンバー5人を擁して82-83シーズンに決勝進出を果たしており、対抗馬の一番手だった。

しかし、決勝の会場となったヘイゼル・スタジアムは、このビッグマッチにふさわしい舞台とはとても言えなかった。6万人の収容人員を持っていたとはいえ、この時点で「築55年」(建設は1930年)という老朽化した施設で、ゴール裏スタンドはすべて階段状の立ち見席。しかも、十分な避難経路や非常口も確保されていないなど、安全上の明らかな問題を抱えていた。

このスタジアム選定に対しては、試合前から双方のクラブが不適当だとしてUEFAを批判していた。しかし、当時は現在のように明確な安全基準やスタジアム評価のシステムもなく、有力国の「持ち回り」に近い形で会場が決められるのが常だった。

さらに、運営を担当したUEFAとベルギーサッカー協会、そして同国の警備当局は決定的な誤りを犯してしまう。それぞれ金網で3セクションに区切られた2つのゴール裏スタンドのうち、南東側のO、M、Nセクションにユヴェントスのサポーター/ウルトラスを収容したのはいいが、北西側はX、Yという2つのセクションにリヴァプールのサポーター/フーリガンを押し込めた一方で、それに隣接したZセクションには一般客に加え、南東側に収まり切らなかったユヴェントスサポーターの一部を入れたのだ。

当時のイングランドではまだフーリガンに対する規制がまったく行われていなかったため、X、Yセクションを占めたリヴァプールサポーターの中には、飲酒と暴力を喜びとするハードコアなフーリガンが少なくなかった。しかも彼らは、前年ローマで行われた地元ローマとの決勝(1-1の後PK勝ち)の前後、スタジアム周辺でローマのウルトラスに襲撃を受けて散々な目に遭っており、イタリア人に対して敵意を抱いていた。しかし、Zセクションに送り込まれたユヴェントスサポーターは、組織的な活動をしている暴力的なウルトラスではなく、クラブを通してチケットを購入した一般サポーターで、ファミリーも少なくなかった。

試合開始まで1時間ほどとなった午後7時頃、Xセクションにいたリヴァプールのフーリガンたちが、隣接するZセクションとの境界を警備する警官との小競り合いをきっかけに暴徒化し、間を隔てる金網を壊しにかかる。Zセクションの観客たちはフーリガンの襲撃から逃れようとパニックを起こし、スタンドを駆け降りてセクションの下隅に殺到したが、そこは出口のない行き止まりだった。

一部の人々はスタンド側面のコンクリート壁を乗り越えて脱出することができたが、残る大多数の人々はその壁、そしてピッチとスタンドを隔てる金網に追いつめられ押し付けられて行く。その圧力を支え切れなくなったコンクリート壁が崩落すると同時に、何百人もの固まりが将棋倒しになって倒れ、一番下にいた人々はその重さに押し潰されることになった。11歳の少年から58歳の婦人までを含む死者39人(うちイタリア人32人)の死因はいずれも、胸郭圧迫による窒息死だった。

事故の原因について、現在も「暴徒化した互いのサポーター同士の衝突がきっかけ」とする記述がしばしば見られるが、これは事実関係として正しくない。暴徒化したリヴァプールのフーリガンがZセクションになだれ込み、それが罪のない一般サポーターに集団パニックを引き起こして死に追いやった、という表現が適切だ。原因は100%リヴァプールのフーリガンにある。

この悲劇を知った両クラブの首脳陣は試合の中止を申し出たが、主催者のUEFAとベルギーの警備当局は、反対側のゴール裏を埋めたユヴェントスのウルトラスが暴徒化し、リヴァプールサポーターやフーリガンとの間に市内で更なる混乱を引き起こすことになりかねないと判断、開始時間が大幅に遅れたにも関わらず、試合の強行を決定する。

携帯電話がないこの時代、ピッチを隔ててスタジアムの反対側にいたユーヴェサポーターの「本隊」は、事態がここまで深刻かつ悲惨なものであることを知る術を持っていなかった。そしていずれにしても彼らは、今いる場所から一歩も身動きすることが許されていなかった。この頃にはベルギーの警察隊と軍隊がやっと応援に駆けつけて、スタジアムの周辺をすべて戒厳下に置いていたからだ。

異様な空気の中で行われた試合は、後半開始早々にプラティニがPKを決め、1-0でユヴェントスの勝利に終わった。試合が決行されたこと、ゴールを決めたプラティニが喜びを表現したことに対しては、賛否両論が飛び交い大きな論争になったが、最終的には、決行すべきではなかったという意見が大勢を占めるに至った。

ユヴェントスのボニペルティ会長(当時)は「我々もリヴァプールも戦いたくなかったが、UEFAの決定は絶対だった。選手には死者が出たことは知らせなかった」と言い、プラティニも「それほどの悲劇が起こっていたとは知らなかった。とにかく我々は試合をする以外になかった」と事あるごとに語っている。

しかし、当時のFWジビ・ボニエクは、2005年に『ラ・スタンパ』紙のインタビューに答え、次のように語っている。

「知らなかったと言い張る連中の話には耳を傾けない方がいい。我々は起こったことの99.9%は知っていた。死者が出たこと、どんな経緯だったのか……。我々もリヴァプールも試合はしたくなかった。しかしUEFAからそれを強制された。UEFAのコミッサリーは『もし君たちが拒否したらもっと酷いことになる。フーリガンは今後いつでも試合を止められるようになる』と言った」

このインタビューは、あまりにも「不都合な真実」を含んでいるためか、当時もそれほど大きな話題にならず、その後もあまり言及されることがない。2010年5月にリヴァプールで行われた25周年の慰霊祭でも、ボニペルティ、プラティニら当時の関係者は「チームは知らなかった」という公式見解を崩していない。

老朽化し安全上も問題があったスタジアム、暴力的なフーリガンと相手チームの一般サポーターを隣接したセクションに入れたUEFAと警備当局の失態、パニックを起こして袋小路に自らを追い込んだユヴェントスサポーター、試合を強行するというUEFAの判断……。すべての要素がマイナスに重なり合った結果、避け難く起こった悲劇だった。

この事件の後、UEFAはイングランドの全クラブに対し、無期限のUEFAコンペティション出場停止という処分を下す。この処分は1991年に解除されるまで5年間続いた。

イングランドではこの4年後の1989年、シェフィールドのヒルズボロ・スタジアムで、リヴァプールサポーター96人が圧死するという事故(ヒルズボロの悲劇)が起こり、その原因についての調査報告「テイラー・レポート」に基づいて、スタジアムの安全管理が全面的に見直されることになった。

立ち見席の廃止、フーリガンのスタジアムからの排除、アルコール販売禁止、監視用TVカメラと留置所の設置といった対策は、すべてこれがきっかけで導入されたもの。イングランドのスタジアム環境は、これらの対策に加えて、1996年のユーロ96に向けて主要スタジアムに大幅な改修が施されたことにより、劇的に改善された。

リヴァプールとユヴェントスは、2005年のチャンピオンズリーグ準々決勝で、この「ヘイゼルの悲劇」からちょうど20年を経て初めて対戦することになった。アンフィールドで行われた第1レグで、リヴァプールのゴール裏は「AMICIZIA」(友情)というコレオグラフィ(人文字)を掲げたが、ユーヴェのウルトラスは無言でこれに背を向けることで応えている。

2009年の25周年慰霊祭では、アンフィールドの壁に犠牲者を追悼するプレートが掲げられ、当時の両チームの選手代表(セルジョ・ブリオとフィル・ニール)による除幕式が行われた。この時ユヴェントスのアンドレア・アニエッリ会長は、2012年に完成する新スタジアムに、ヘイゼルの犠牲者に捧げられたセクションを設置することを発表している。

悲劇の舞台となったヘイゼル・スタジアムは、この試合を最後にサッカーの試合では使われなくなり、陸上競技の大会にのみ使用されるようになったが、1995年に全面改築され、名前もボードゥアン国王スタジアムと変更されて現在に至っている。5万人収容の新スタジアムはベルギー代表チームのホームスタジアムであり、ユーロ2000ではグループリーグから準決勝までの会場となった。■

(2010年10月13日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。