昨日アップした「イタリア人監督・コーチが見る日本サッカー」は、実はアルベルト・ザッケローニが日本代表をどう構想し完成させようとしているかについてイタリア的なサッカー観に立って考察したこの長いテキストとセットで書いたものでした。ブラジルW杯の結果もあって、ザッケローニはすでに過去の人として葬られてしまった観がありますが、彼が日本代表に残したものはとても大きかったと思います。
これを読んで改めて興味がわいた方は、拙著『増補完全版・監督ザッケローニの本質』をぜひご一読ください。ザッケローニのバイオグラフィに、ザックジャパン4年間の歩み(W杯直前まで)を時系列でまとめつつ解釈した100ページ弱を追加したお買い得本です。

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就任から3年、2010年のワールドカップ・南アフリカ大会を戦ったチームを土台とする継続路線をとりながら日本代表を着実に強化し、2014年ブラジル大会への切符を危なげなく手に入れたアルベルト・ザッケローニ監督。しかし、先のコンフェデレーションズカップでブラジル、イタリア、メキシコに3連敗を喫したこともあってか、ここに来てややネガティブな評価が目につくようになっている。

イタリア在住というハンディキャップもあって、筆者はザックジャパンの全試合を見てきたわけではない。しかしアジアカップ(2011年)、欧州遠征(2012年)、コンフェデ(2013年)と節目になるイベントはフォローしているし、その間のワールドカップ予選やフレンドリーマッチも、重要な試合はチェックしてきた。

その限りで言えば、ザッケローニのここまでの仕事は、攻守のバランスを維持しながらチームの重心を段階的に上げて行き、それによって地域とボールを支配する比率を高めていくという、一貫したコンセプトに基づいた、非常に筋の通ったわかりやすいものであるように見える。

スタート地点とも言える2010年秋のアルゼンチン戦、続く2011年初めのアジアカップと現在を比較しても、結果と内容をひとつひとつ積み上げてチーム力を底上げして来たことは明らかであり、コンフェデでの3敗という結果を含めてもなお、その仕事はポジティブに評価すべきものであると思っている。

すんなりとそう思える理由のひとつは、おそらく筆者が20年近くイタリアで暮らし、イタリアの監督たちの仕事を見てきた中で、そのサッカー観、チーム作りの考え方を自然に受け入れられるからだろう。

逆に言うと、ザッケローニに対する批判の多くは、その部分に対する違和感、言ってみれば「文化の違い」がベースになっているように見える。ザック本人が、記者会見など公の機会においてそれほど饒舌ではなく、その発言(の一端)が一種の「謎解き」の対象となってひとり歩きするケースが少なくないことも、それに拍車をかけている。

だとすれば、多少なりともイタリアサッカー的な文化を共有している筆者の目線から、ザッケローニのアプローチを改めて「謎解き」してみることにも、何らかの意味はありそうだ。

このところよく取り沙汰されているのは、メンバーの固定化(招集、起用とも)、新戦力、とりわけ若手の抜擢に消極的といったチームビルディングの側面、そしてシステムの選択、選手交代時の采配(人選、タイミング)といった戦術的側面の2つだろうか。

だが、まず大前提として再確認しておかなければならないのは、チーム作りについての基本的なコンセプトと現状認識だろう。

「刷新」ではなく「継続」というアプローチ

代表監督に就任したザッケローニが一番最初に下した決断は、前監督時代にチームが積み上げてきたものをリセットして新たなコンセプト、スタイル、戦術を導入する「改革」や「刷新」ではなく、そこにあったチームを土台に強化を進める「継続」と「発展」というアプローチを選ぶということだった。

2011年2月、拙著『監督ザッケローニの本質』に収録するためイタリアで行ったロングインタビューで、ザッケローニはこう語っている。

「テクニックを主体にボールを支配し、主導権を握って戦うという日本サッカーの基盤は尊重しなければならない。取り組むべきは、そこに私の経験に基づく修正を加えて、世界トップレベルの国々と渡り合えるスタイルを築くことだ」

ザッケローニに限らず、イタリアの監督がほぼ一貫して持っているのは、システムや戦術はチームと選手のポテンシャルを最大限に引き出すための手段であり決して目的ではない、という考え方だ。

したがって、ひとりの監督がレパートリーとして複数のシステムや戦術を持っているのは当たり前、「チームに自らの戦術を植え付ける」ことではなく「チームのパフォーマンスを最大化するシステムと戦術を見出し実践させる」ことこそが監督の仕事、ということになる。

ザッケローニの引き出しの中には、4-2-3-1と3-4-3だけでなく、4-4-2や4-3-3、3-5-2まで多くのシステムがしまい込まれている。逆に言えば、システム「そのもの」へのこだわりは、ほとんど持っていないということ。

4-2-3-1を基本システムとしているのは、スタート時に引き継いだチームに大きく手を加える必然性はなく、それを熟成させつつレベルアップしていくというアプローチを選んだ結果であり、それ以上でもそれ以下でもない。

特定のシステムにこだわりを持たないという、その必然的な結果として出てくる考え方は、ひとつのチームは相手や状況によって複数のシステムや戦術を使える方が望ましい、というもの。これもイタリアの監督の多くに共通する考え方だ。

先のコンフェデでも、イタリア代表のプランデッリ監督は4-3-2-1、4-2-3-1、3-4-2-1、4-3-1-2と5試合で4つものシステムを使い分けた。ザックが基本システムである4-2-3-1に加えて、3-4-3というもうひとつのオプションを持つことにこだわるのも、それがチームとして戦い方の幅を広げ、より多くの相手や状況に対応できると考えているからだ。

しかし、本人が「3-4-3はトレードマーク」と言われるのをひどく嫌がっているのを見ても明らかなように、オプションとして3-4-3を選んだのはこのシステムへの個人的なこだわりからではないと見るべきだろう。

長友や内田といった走力と攻撃力のあるサイドバックをより高い位置を起点としてプレーさせることでチームの重心を上げ、攻撃に厚みをつける、いわばスクランブル用の選択肢という位置づけと考えるのが最も筋が通る。

ザッケローニの仕事を評価する時、自明のことながら我々がつい忘れがちになってしまうのは、代表チームというのは、クラブチームと比較すると監督に与えられた時間が著しく少なく、したがってできることは著しく限られているということ。

年間の招集回数は多くて7~8回、コンフェデやアジアカップのような長期の大会を除くと、1回の招集でチームが揃って練習できるのは長くて4~5日でしかない。4年間というのは長いように見えるが、その中で代表監督がチームに戦術とスタイルを植え付け、そのディテールを詰めて行くための時間は、本当に限られているのだ。代表チームの4年は実質的な活動日数から言えばクラブチームにとっての1年にも満たない、といえば伝わるだろうか。

ザッケローニもおそらく、それを前提とした上でやるべきこと、やりたいことをリストアップして優先順位をつけ、取捨選択し、2014年ブラジルW杯まで4年間のロードマップを描いた上で、チームビルディングに取り組んだはずだ。

3段階のロードマップ

JFAのオフィシャルサイトに掲載されている手記『イル・ミオ・ジャッポーネ』や会見コメントなどから推測できるのは、そのロードマップはおそらく3つのフェーズに分けられているということ。

まず2010年秋の親善試合からアジアカップまでは、南アフリカで戦ったチームを出発点としながらプレーヤーの取捨選択を行い、4年後を目指すチームの骨格を固める時期。本来ここには、11年6月に参加する予定だったコパ・アメリカも入っていたはずだ。

この段階では、技術・戦術的な側面だけでなく、内部の人間関係なども見極めながら中心に据えるべきリーダーを選び、チームとしてひとつに結束できるグループを構成していくというのも重要な側面だ。この段階で闘莉王、阿部勇樹といったベテランは外され、吉田、清武など若手が入って現代表の基本構成が固まった。

最も重要な選択は、チームの背骨を構成するセンターバックから、闘莉王を外して吉田を抜擢したことだろう。ザッケローニが闘莉王を招集したのは、2010年10月のアルゼンチン、韓国との親善試合1回だけ。その後一度も呼んでいないという事実を見れば、その招集時に何らかの決断を下したことは明らかだ。

推測できる理由のひとつは、CBとしてのプレースタイルが構想と噛み合わなかったこと。ザッケローニはこのチームのCBに、1対1の強さや高さ以上にビルドアップの起点となれるテクニックと展開力、そして組織的なメカニズムの中で機能できる戦術センスを要求している。

闘莉王はどちらかといえば古典的な、いい意味でも悪い意味でも「独立心の強い」CBであり、単独で状況を解決しようとする志向が強く極限的な状況で頼りになる一方で、戦術的秩序から逸脱しがちなところがある。その点ではあまりこの日本代表に適したタイプとは言えない。

もうひとつの理由はパーソナリティの強さ。イタリアに限らずヨーロッパには、チーム全体の結束を考えると中心に据えるか外すかのどちらかしか選びようがない、というタイプの個性の強いプレーヤーが少なくない。

話は少し古くなるが、自国開催の1998年ワールドカップに向けてチームを作る際、フランス代表のエメ・ジャケ監督がジダンとジョルカエフを中心に据えるために、あえてカントナとジノラを外したのはその一例。ザッケローニも闘莉王に関して同じ種類の決断を下した可能性は十分にある。

一度吉田を抜擢してレギュラーに据えると、オリンピックにもオーバーエイジで送り込んでキャプテンを任せるなど、あらゆる手を講じてチームの中核を担うCBに育て上げようとしているのも、その決断の「コインの裏側」と見ることが可能だ。

こうしてチームの骨格を固めた後、ワールドカップ予選と重なる11年夏から13年夏まで約2年間にわたる「フェーズ2」は、そこで固まったメンバーでチームとしての体裁を整え、完成度を高めていく時期という位置づけだったはずだ。もちろん、最大の目標であるW杯出場権獲得のため、予選は常にその時点におけるベストメンバーで、100%結果を優先して戦わざるを得ない。

この段階においてチームが固定化するのは避けられないし、むしろメンバーを固定しなければチームとしての連携や意思疎通を高めていくことは難しい。クラブチームだって、シーズン半ば過ぎまではメンバーをほぼ固定しながらチームの完成形を探り、一旦それが固まったら今度はその熟成に力を注ぐものだ。この段階で選手を頻繁に入れ替えたり、新しい選手を次々と試していては、土台となるべきチームを固めレベルアップしていくことすらままらならかっただろう。

日本にはメッシやC.ロナウド、バロテッリやネイマールのように、個人能力だけで局面を打開して決定的な仕事ができるワールドクラスのプレーヤーがいるわけではない。本田や香川にしても、世界というピラミッドの中では「CLで上位を狙うビッグクラブの凖レギュラー」という位置づけに留まる。

絶対的な戦力レベルから見れば世界のトップ10には遠く及ばないチームで、ブラジル、アルゼンチン、スペイン、ドイツ、イタリア、オランダといった世界のトップレベルと渡り合おうとすれば、個人能力ではなく組織のコレクティブな力を武器にする以外にはない。ザッケローニがここまで、新戦力の発掘よりも現有戦力のレベルアップに優先順位を置き、メンバーを固定してチームの完成を高めるという一点に集中してきたのも、その観点からすればしごく当然の選択だったと言うべきだろう。

おそらくこの「フェーズ2」の集大成と位置づけられていたであろう先のコンフェデは、結果は3敗に終わったとはいえ、チームの成長という点から見れば少なくない収穫をもたらしたポジティブな内容だったと評価することができる。

そこで一段落がついた今、来年6月のワールドカップまでの1年間は、細部の追い込み、そして戦力と戦術の幅を広げるという作業に専念する最後のフェーズという位置づけになるはず。これから本番までの試合はすべて、結果に最大の優先順位を置く必要がないフレンドリーマッチであり、これまでにできなかった実験やチャレンジの機会になるだろう。

この「フェーズ3」の第1幕となったのが、事実上の「B代表」で戦った先の東アジアカップ。ただし、そこで活躍した選手がA代表のレギュラーとしてすぐに通用するわけではないことも明らかだ。今後彼らの中からA代表に招集される選手も出てくるだろう。

一般論として言えば、イタリアでは若い選手の抜擢に慎重な傾向が強いが、これは大抜擢して一気に大きな注目を浴び、しかし結果が残せずに潰れてしまうという、最悪の展開になることを神経質なまでに嫌うから。ザッケローニにもこの傾向ははっきりと見ることができる。

事実、これまで抜擢してきた清武や乾、両酒井なども、まずは招集、練習で説得力あるプレーを見せれば途中出場(またはスタメン途中交代)で起用、そしてフル出場へという段階的なプロセスを踏んで起用してきた。この姿勢は原則として今後も変わらないだろうが、結果という縛りがない以上、招集メンバーや起用メンバーの選択基準も、これまでとは変わってくるはずだ。

特攻精神よりも塹壕戦

最後に、途中交代をはじめとする試合中の采配についても触れておこう。就任当初から明言しているように、ザッケローニが最も重視しているのは「エクイリブリオ」、すなわち攻守のバランスである。

前がかりになって一方的に攻め立てた揚げ句、ボールを失った途端にカウンターを喫して失点するのも、自陣に引きこもって守りを固めた末、ボールを奪っても自陣から持ち出すことができないのも、攻守のバランスが崩れているという点では同じこと。実際、就任以来ここまで「ザックジャパン」がたどってきた進化のプロセスは、「攻守のバランスを維持したままチームの重心を上げる」というひとことに集約することが可能だ。

その一方でしばしば指摘されるのは、相手にリードを許してどうしてもゴールが必要になった状況で、選手交代のタイミングが遅かったり、カードの切り方が消極的に見えたりという部分。これも、采配を理解するキーワードはやはり「バランス」ということになる。

ザッケローニに限らずイタリアの監督の多くは、かなり追い込まれた状況になっても、DFやMFを削って前線にFWを1人、2人と追加投入し、得点の可能性を高めるために失点のリスクを大きく増大させるような「一か八か」のギャンプルを嫌う傾向が強い。

一見すると勇気ある采配のように見えるが、もう1点喰らった時点で完全にゲームオーバーになるという大きなリスクを背負うことになるからだ。

それよりもむしろ、守備の保険をかけた上でチームの重心を上げることで、攻守のバランスを大きく崩すことなく得点の可能性を高めるというアプローチを好む。

ザッケローニがよく見せる、疲れで運動量が落ちたFWを外してDFを投入し、無尽蔵の運動量を誇る長友を一列前に出して裏のスペースを積極的にアタックさせるという采配は、その典型的なケーススタディだ。

その背景にあるのは、1点、2点の差ならばロスタイムになっても追いつけるチャンスはある、ギャンブルに出るのはギリギリでいいし、もし出ないで済むならその方がもっといい、という考え方。「勝つよりもまず負けないことが重要」というイタリアサッカーの伝統的な価値観もそうだが、特攻精神よりも塹壕戦と奇襲攻撃がイタリア人のメンタリティにはずっと合っているのだ。

3年前のアジアカップ決勝や、先の東アジアカップ決勝のように、それが最後に実を結ぶこともあれば、コンフェデのメキシコ戦のように、見る者に消化不良感を残したまま負けることもある。しかしそれはイタリア人の監督にチームを委ねた以上、どちらも受け入れるべき結末なのである。□

(2013年8月10日/初出:『SOCCER KOZO』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。