昨日(9月22日)のウディネーゼ戦で直接FKからミラン復帰後初ゴールを決めたバロテッリ。せっかくなのでもう少し関連のテキストを続けてみます。これはデビュー3年目、モウリーニョ監督2年目の09-10シーズンに書いたもの。この年インテルはスクデット、CL、コッパ・イタリアの三冠を達成するわけですが、バロテッリはこれから4ヶ月後のCL準決勝のバルセロナ戦第1レグ(ホーム)で、サポーターのブーイングに怒って試合終了直後に脱いだユニフォームを地面に叩きつけ、インテルにおける自らの立場を決定的に損なうことになります。文中の「ミラニスタ宣言事件」の詳細についてはまた別途に。

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「黒ん坊のイタリア人は存在しない」「ジャンプすればバロテッリが死ぬよ」「バロテッリ、黒ん坊のウンコ野郎」「バロテッリ、○○の息子」――。

インテルのマリオ・バロテッリがピッチに立つたびに、敵サポーターから浴びせられる聞くに耐えないチャントの数々だ。

バロテッリがその底知れぬタレントをピッチ上で発揮すればするほど、そして周囲からの様々な攻撃や圧力から身を護るために不遜かつ挑戦的な態度を示せば示すほどに、インテル以外のすべてのサポーター(とりわけゴール裏)の間で彼に対する敵意が募って行くという構図が、今やはっきりとできあがってしまった。

その中でも際立って憎悪の度合いが強いのが、インテルを目の敵にしているユヴェントスのゴール裏だ。

2006年夏に発覚した不正行為スキャンダル・“カルチョポリ”で、主犯格のユヴェントスがセリエB降格を強いられたのに対し、インテルはそのユヴェントスから剥奪された05-06シーズンのスクデットを繰り上げで手に入れ、さらにイブラヒモヴィッチという絶対的なエースを引き抜いて、それ以来セリエAの盟主の座に君臨し続けている。ユヴェンティーノたちにとって最も憎むべき因縁の相手であることは言うまでもないだろう。

そして、その中でもとりわけ「気に喰わない生意気な野郎」であるバロテッリは、今やインテルに対する憎悪を一身に集める一種のシンボルのような存在となっている。

昨シーズンのユヴェントス対インテル(今年4月18日)で、ユーヴェのゴール裏がバロテッリに人種差別的なチャントを浴びせて大きな問題になり、続くレッチェとのホームゲームを無観客試合にする処分を受けたことをご記憶の読者も多いだろう。当時この問題は社会的な議論の的になり、その中でユヴェントスサポーターも厳しい糾弾を受けた。にもかかわらず、その火は一時的に鎮まっただけで常に燻り続けてきた。新たなきっかけがあればいつでも、あまりにたやすく燃え上がる。

今回のきっかけは、バロテッリの「ミラニスタ宣言」だった。『イル・ジョルナーレ』紙のスクープが世間を騒がせたその週末、トリノのスタディオ・オリンピコで行われたユヴェントス対ウディネーゼで、ユーヴェのゴール裏が試合とは何の脈絡もなく、「ジャンプすればバロテッリが死ぬよ Se saltelli muore Balotelli」というチャントを繰り返しながらぴょんぴょん跳び始めたのだ。

ちなみにこれは、元々インテルのゴール裏がバロテッリに捧げた「ジャンプすればバロテッリがゴールを決めるよ Se saltelli segna Balotelli」というチャントの悪質なもじりである。相手チームや選手へのチャントを逆手にとってその歌詞を変え、敵を侮辱するために使うというリスペクトのかけらもないやり口は、イタリアのゴール裏の常套手段のひとつだ。

このチャントが選ばれた理由は他にもある。それは、明らかに人種差別と認められる言葉(黒ん坊negro/i)が含まれていないことだ。4月にユヴェントスが無観客試合の処分を受けた時の理由は、バロテッリの肌の色を槍玉に挙げたコール(「黒ん坊のイタリア人は存在しない」)を人種差別的だとするものだった。同じような事態を起こしてユーヴェにダメージを与えるを避けようとする姑息な手口だったというわけだ。

実際ユーヴェのウルトラスは、次のような(屁)理屈で自己弁護している。

「ジャンプすればバロテッリが死ぬよ」というのは人種差別でも何でもなく、普段からよくある類いの侮辱的な攻撃に過ぎない、もちろんそれが褒められた話ではないことはよく判っている、しかし我々は天使ではない、日常生活の中でだって時には侮辱の言葉が飛び交うものだ、我々はそうして敵に圧力をかけ動揺させることでチームのために戦っているのだ、そして我々だってそのような侮辱を甘んじて受けているのだからお互い様だ、それを罰するならばイタリア中のゴール裏が罰せられるべきだろう――。

しかしそれでも、バロテッリに対する侮辱の中に「含意として」人種差別的な感情が含まれていることはあまりにも明らかだ。その証拠に、そのわずか3日後に行われたCLボルドー戦においても、フランスまで遠征したウルトラスたちがハーフタイムに、今度は「ジャンプすれば~」だけでなく「黒ん坊の~」というチャントをも執拗に繰り返すという暴挙を犯している。明らかに確信犯なのだ。

「黒ん坊のイタリア人はいない」。バロテッリを巡る様々な問題の核心は、この醜いチャントにすべて収斂すると言っても過言ではない。

アフリカに旧植民地を持つ関係で早くから黒人を含めた外国人の受け入れとインテグレーション(同化)が進み、多民族国家としての文化を成熟させてきたフランスやイギリスとは異なり、イタリアは人口全体に占める黒人の割合が非常に少ない。2009年現在の居住人口約6000万人のうち、ブラックアフリカン(北アフリカを除くアフリカ大陸諸国出身者)はわずか26万人でしかない。不法滞在者を含めればこの数字は大きく伸びるのだろうが、いずれにしても絶対的なマイノリティであることには変わりない。

こうした歴史的経緯もあって、イタリア社会は外国人や異文化、とりわけ黒人に対する受容度が、ヨーロッパのスタンダードと比較すると明らかに低い。最も好意的に見れば、その存在に馴れていない、黒い肌に対する違和感を理性的にぬぐい去る習慣が身に付いていないという言い方もできるが、つまるところ、そうした感情が人種差別に直結していることに関して鈍感であり、それ以上に無自覚だということになる。

ガーナ人移民夫妻の間に生まれながら、幼い時にイタリア人の家庭に引き取られ養子として育ったバロテッリは、言語、文化、アイデンティティ、あらゆる意味で100%のイタリア人である。だがユヴェントスをはじめイタリア中のゴール裏は、「黒ん坊のイタリア人はいない」というチャントを容赦なくバロテッリに浴びせかける。

それは「気に喰わない生意気な野郎」を最も効果的かつ残酷なやり方で侮辱してやろうという悪意の表現であると同時に、バロテッリという黒人が純粋なイタリア人であるという事実を感情レベルですんなりと受け入れることができない/受け入れたくない人々が決して少なくないというイタリア社会の現在の姿を象徴的に、しかし赤裸々に反映しているように見える。

それにしても、自分はイタリア人以外ではありようがないというのに、肌の色が黒いというたったひとつの違いのために、お前はイタリア人ではない、という言葉を投げつけられる。これが19歳の若者をどれほど深く傷つけるかは、想像を絶するものがある。

バロテッリのピッチ上での振る舞いが、しばしば対戦相手や敵サポーターの神経を逆撫でする挑発的かつ傲慢なものであることは事実だ。バロテッリが「気に喰わない生意気な野郎」であるという意見にも、客観的に見て一理はある。しかしそれが、「黒いイタリア人」であることに対する外部の偏見や無知、そして差別をはね返すために彼が否応なく身に付けざるを得なかった一種の鎧のようなものであることには、想像力を働かせる必要があるのではないか。

ゴールを決めた後、それまで散々罵りの言葉を浴びせてきた敵のゴール裏に向かって「黙れ」というジェスチャーをして見せるバロテッリを糾弾する権利は、少なくとも敵のゴール裏にはないはずだ。問題が、人種差別的なチャントを平然と浴びせる側にあることは、誰の目にも明らかなのだから。■

(2009年2月

By admin

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。