昨シーズンはギリシャのCFIクレタという実質破産状態の弱小クラブを1人で半年支え続け、最後には力尽きて辞任したジェンナーロ・ガットゥーゾ。新シーズンは、ブッフォンが実質所有している彼の故郷のクラブ・カラレーゼ(レーガプロ=3部)の監督として再スタートすることになりそうです。まだミランでばりばりの現役だった2007年、横浜で行われたクラブワールドカップに合わせて発行されたムックに書いた彼のヒストリーを。

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「リンギオ」(獣の唸り声)というニックネームが、そのプレースタイルのすべてを物語る。

誰よりも多くの距離を走り、誰よりも多く敵とぶつかりあい、誰よりも多くのボールを奪う。カカやピルロやセードルフが華麗なプレーで人々を魅了し、チームに勝利をもたらす決定的なゴールを決めることができるのも、この男が背後で献身的に走り回ってすべての穴を埋め、体を張ってピンチを未然に防いで回っているからこそだ。オシム日本代表監督いうところの「水を運ぶ選手」(余談だがこの比喩は元々自転車ロードレースに由来する)の代表である。

闘争心をむき出しにしたピッチ上の振舞いから、血の気が多く運動量だけが取り柄の壊し屋、というイメージで語られることも少なくない。確かに、20代前半のガットゥーゾはそういうプレーヤーだった。しかし、毎日黙々と練習を積み重ねて「アイロンを足に履いている」とまで言われたボールスキルを磨き、名将アンチェロッティの下で経験とともに戦術眼を高めてきた結果、30歳を目前にした今、世界でも指折りの守備的MFという評価を受けるまでになった。過去2シーズンは、バロンドールの候補50人の中に名を連ねてすらいるのである。

ガットゥーゾのキャリアは、傑出した才能に恵まれた者だけが偉大なプレーヤーになれるわけではないということ、野心と努力と自己犠牲によってどれだけの高みに達することができるかを教えてくれる。

ジェンナーロ・イヴァン・ガットゥーゾは、1978年1月9日、南イタリア・カラブリア州のマリーナ・ディ・スキアヴォネアに生まれた。「長靴の形をした」といわれるイタリア半島のちょうど土踏まずに当たる、イオニア海に面した人口数千人の小さな、決して豊かとはいえない港町である。

12歳までは海岸や広場での草サッカーだけで過ごし、13歳になって初めて地元のサッカークラブに入ったリーノは、ほどなくペルージャのスカウトの目に留まる。育成部門が充実したプロクラブが皆無のカラブリアでは、プロサッカー選手を目指そうと思えば、中部や北部のクラブにスカウトされる以外、チャンスはなかった。

こうしてリーノは中学校を卒業するとすぐ、14歳で親元を離れペルージャに向かうことになる。いつもの遊び場だった町の広場で、仲間たちに別れを告げた時、こう固く心に誓った。「こうやってみんなに送られて故郷を後にしたからには、敗残者としておめおめと帰ってくることだけはできない。絶対に、石にかじりついても成功してやるんだ」。

ペルージャでは、17歳になったトップチームに上がってセリエBにデビューし(95-96シーズン)、その翌シーズンには18歳でセリエAの舞台に立つ。故郷を離れてから4年あまり、ガットゥーゾは10代の若手の中で最も将来有望なMFの1人として、イタリア中の関係者から注目を浴びるようになっていた。

だがそのプレーに注目していたのは、イタリアのクラブだけではなかった。95年のボスマン判決でEU圏内の外国人枠が撤廃されたのを契機に、10代のタレントを「青田買い」しようと欧州各国にスカウティングの網を拡げていたスコットランドのグラスゴー・レンジャーズが、信じられないほど魅力的な条件で獲得に乗り出してきたのだ。父親が一生かけても稼げないほどの金額を4年契約でオファーされたガットゥーゾは、言葉も通じない英国に渡って、プロとしての本格的なキャリアをスタートすることを決意する。97-98シーズンのことだ。

スコットランドでの経験は、19歳から20歳にかけてのたった1年あまりに過ぎなかったが、ガットゥーゾという選手のキャリアにとって、そして人生にとって、決定的に重要な意味を持つことになる。

闘争心をむき出しにしたプレースタイルは、全力を絞り出して最後まで戦うことを何よりも評価するスコットランドのサッカーにはぴったりだった。早速レギュラーに抜擢されたガットゥーゾは、テクニックやセンスよりもハートや献身を大事にするサポーターにも「ライノー」(スコットランド人はリーノとうまく発音できない)と呼ばれて愛された。

スコットランドでのキャリアが思ったよりも早く幕を閉じたのは、移籍2年目の98-99シーズンに就任したオランダ人監督ディック・アドフォカートと反りが合わなかったためだった。アドフォカートは、ガットゥーゾの運動量を生かそうと、中盤ではなく右サイドバックにコンバートしようとしたのだ。だがリーノはサイドバックに転向する気はまったくなかった。何度かプレーして、資質的にも技術的にも自分に向いたポジションではないことが身にしみてわかっていたからだ。

ちょうどそこに代理人を通して、セリエA下位のサレルニターナから移籍の話が舞い込む。リーノにとっては渡りに船だった。レンジャーズの会長が「希望する金額で10年契約を結んでもいい」とまで言って引き留めたにもかかわらず、イタリアに戻ることを決意する。同じ時期にユヴェントスからも、あと1年スコットランドに残って翌シーズンから移籍、という条件でオファーがあったが、すぐにイタリアでプレーしたかったガットゥーゾは、それさえも断った。

サレルニターナは、デリオ・ロッシ監督(現ラツィオ)の下、ディ・ヴァイオ(現ジェノア)、ディ・ミケーレ(現トリノ)、ヴァンヌッキ(現エンポリ)といった当時20歳そこそこの有望な若手を揃えた好チームだったが、最後まで粘ったものの最終戦でセリエB降格を喫してしまう。だがガットゥーゾの下には、ローマ、ユヴェントス、そしてミランというビッグクラブからのオファーが舞い込んでいた。クラブはすでにローマとの交渉をまとめていたが、ガットゥーゾが幼い頃からの憧れだったミラン行きを強く主張し、移籍が決まる。

99-00シーズン、21歳で移籍したミランでは、ポジション争いという試練が待っていた。毎週試合に出てプレーするのが当たり前だった血気盛んな若者に、ベンチから試合を眺める日々に耐えるのは簡単ではなかった。そんなところに、フィオレンティーナへのレンタル移籍話が舞い込み、ガットゥーゾはクラブオフィスに何度も押しかけては、フィレンツェに行かせて欲しいと談判した。だがミランは決して彼を手放そうとしなかった。

当時の監督アルベルト・ザッケローニは、シーズン半ばからガットゥーゾを中盤右サイドで使い始める。3-4-1-2システムの右サイドというのは、1人でピッチの縦幅をすべてカバーしなければならない、レンジャーズで拒否した右サイドバック以上に過酷なポジションである。しかしリーノは、今度は逃げなかった。サイドハーフとしてレギュラーの座を掴み取り、イタリア代表へのデビューも飾る。続く00-01シーズンには、本来のポジションである中盤センターで起用されることも多くなってきた。

この頃のガットゥーゾはまだ、ありあまる闘志と運動量だけを武器に、がむしゃらにプレーしているだけだった。しかし、どんな時にも手を抜かず目を血走らせてボールを追いかけるそのプレーは、チームにとって貴重な下支えとなっていた。

だが、ガットゥーゾが守備的MFとしてその能力を全面的に開花させたのは、アンチェロッティ現監督の時代になってからだろう。02-03シーズン、アンチェロッティは、リヴァウド、ルイ・コスタ、セードルフ、ピルロという4人の「10番」を全員ピッチに送り出す4-3-2-1システムを編み出し、ボールポゼッションを中心に置いた新しいスタイルの攻撃サッカーを実現、チャンピオンズリーグを制覇することになる。

しかし、この4人を同時に起用することができたのは、その背後でピッチを縦横無尽に走り回り、穴を埋め、ボールを奪い返す第5のミッドフィールダーが存在していたからだ。この過酷な仕事が務まるのは、世界中を見回してもおそらく他には誰ひとりいないだろう。

TVでミランの試合を見ていると、ガットゥーゾが画面に映るのは、凄い勢いでボールに襲いかかる姿や、ファウルを犯してぶざまにピッチに転がっている姿ばかりかもしれない。しかし、彼の真価を知るためには、TVカメラに写らないところで何をしているのかを、スタジアムで一度だけでも目にする必要がある。

ガットゥーゾは、ボールが遠いところにあるときも常に周囲に目を配り、ポジションを修正し、チームメイトに指示を出し、いつもせわしなく動き回っている。棒立ちどころか、歩いている姿を見ることもオンプレー中はほとんどない。

味方が苦境に陥った時には必ず助太刀に走るし、危険を察知すれば、40m、50m離れていても全速力で駆けつけ、相手のチャンスの芽を未然に摘み取ることもしばしばだ。「俺が相手から10回ボールを奪うことは、1ゴール決めるのと同じかそれ以上の価値がある。ガットゥーゾにはガットゥーゾの仕事があるんだ」と胸を張る。

キャリアを重ねるごとに、戦術眼とテクニックが少しずつ、しかし着実に向上しているのは、日々の努力の賜物である。今では、周囲のテクニシャンと比べれば多少たどたどしい身のこなしとはいえ、タイミングを見て敵陣に進出、的確な動きで攻撃の組み立てに一役買うことも珍しくない。

身を削るような激しいプレースタイルにもかかわらず、大きな故障もなく、毎年コンスタントに40試合以上をこなしているのは、ストイックなまでに厳しく自分を律するライフスタイルゆえ。毎日練習の数時間前にはミラネッロに姿を現し、一番最後にピッチから引き上げてくる。プライベートでも派手なナイトライフとは一切無縁。生活の全てをサッカーに捧げているのだ。

手抜きを知らないのは、ピッチの上だけではない。昨年11月、試合中に左膝を捻り、内側靭帯を傷めたことがあった。当初の診断は全治2ヶ月。復帰は1月半ばというのがドクターの見立てだった。

ところがガットゥーゾは、それからたった35日後にはもうピッチに立っていた。毎日多いときは6~7時間、ミラネッロのジムやプールで鬼のようなリハビリに取り組んだ結果だった。

膝の故障のリハビリは、痛みとの戦いである。靭帯の裂傷が元通りにくっつくまで固定していたために固まって曲がらなくなった関節を、強引に動かして可動性を取り戻し、同時に落ちた筋肉を取り戻すために負荷をかけていく。痛みにどれだけ耐えられるかで回復の期間が決まると言っても過言ではないらしい。全治2ヶ月の怪我を1ヶ月で治すために、どれだけの痛みをその奥歯で噛み潰したのか。

「本気で物事に取り組めば、ちゃんと結果にはね返ってくるってことだよ。この仕事を長くやってれば、身体のどこかが痛いのは当たり前だしな」。平然とそう語る。

自らの可能性と限界を謙虚に受け止め、どんな時にも愚直なまでに最善を尽くそうという妥協のない姿勢。それこそが、ガットゥーゾのガットゥーゾたる所以である。□

(2007年11月14日/初出:『サッカーベストシーン14:ACミランのすべて』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。