WSD誌後半のモノクロページに「フットボール紳士録」という不定期連載があって、そこに時々人物ものを寄稿しています。これは、バロテッリやイブラヒモヴィッチの代理人として有名なミーノ・ライオラのお話。ジョルジュ・メンデスのようにフットボール界の外側にまで活動範囲を拡げる代理人が出てきている中では、むしろ古典的なタイプといえるかもしれませんが、その手練手管は大したものです。

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顧客のためならどんな手間ひまも惜しまず、表から裏からあらゆる手練手管を弄して状況を動かし、移籍を実現させる。必要ならば憎まれ役になることも厭わない。その徹底したやり方から業界内には苦々しい思いで彼を見ている向きも決して少なくないが、その手腕には誰もが一目も二目も置いている。

ミーノ・ライオラ。本名はカルミネだが、カルチョの世界ではもっぱら愛称のミーノで通っている。イブラヒモヴィッチ、バロテッリ、ロビーニョをはじめ、派手な大型移籍をいくつも実現するだけでなく、各国の1部リーグにオランダ、ブラジル、チェコなどの有力選手を数多く抱え、その動向が常に注目されている当代きっての敏腕代理人のひとりだ。

1967年生まれの44歳。ナポリに近いカンパニア州ノチェーラで生まれたが、1歳の時に両親に連れられてオランダに移民し、アムステルダム近郊のハールレムで育つ。サッカー界に足を踏み入れたのは、両親が経営するピッツェリアで働くうちに、そこに集まるサッカー選手やクラブ関係者と知り合ったことがきっかけだった。

地元のHFCハールレムで育成部門のスタッフとなり、1990年代の始めにFIFAエージェントの資格を取って代理人に転身。最初のビッグディールは、1993年にアヤックスからデニス・ベルカンプとヴィム・ヨンクをインテルに移籍させたことだった。

このディールには、現在の大きな成功をもたらしたライオラの手腕と才覚がすでにたっぷりと詰まっている。代理人の資格を取った彼がやったのは、プロサッカー選手協会とかけ合い、オランダの全選手についてイタリアへの移籍を仲介する独占権を取りつけることだった。

当時のセリエAは「世界で最も美しいリーグ」と呼ばれた全盛時代。給料の水準もオランダとは桁違いで、誰もがイタリア行きを夢見ていた。まず92年にブライアン・ロイをアヤックスからフォッジャに移籍させると、翌年には当時一番の大物ベルカンプの移籍を成功させて大きな実績を作り、一気にオランダの選手たちから信頼を勝ち取ったのだ。これによって、それまでオランダからイタリアへの移籍ルートを仕切っていたコア・コスター(ヨハン・クライフのマネジャー)とアポロニウス・コニンブルグを出し抜くことに成功した。

この時ライオラがイタリアのクラブに提示した条件は2つ。ひとつは、ベルカンプにチームで一番の給料を払うこと。もうひとつはベルカンプの親友ヨンクもセットで獲得すること。それさえ受け入れれば、アヤックスとかけ合って相場よりも安い移籍金で話をつけると請け合った。実際にライオラは、より高い移籍金をオファーしながらヨンクの獲得を拒否したユヴェントスを蹴り、インテルと話をまとめあげることになる。

顧客である選手の移籍を何としても実現し、高い年俸を勝ち取るというライオラのポリシーは、この時から今までまったく変わっていない。彼はロイ、ベルカンプの成功を足がかりに、アヤックスからヴィンク(ジェノア)、クリーク(パドヴァ)といった中堅選手をイタリアに送り込むと、次にはフォッジャを率いていたズデネク・ゼーマンを足がかりにしてチェコにネットワークを拡げる。

最初に動かした選手は、当時のチェコのトッププレーヤー、パヴェル・ネドヴェドだった。ラツィオでも、次の移籍先となったユヴェントスでも、ネドヴェドは常にその時点におけるクラブ最高の年俸で契約を交わしている。

オランダ、チェコとネットワークを広げたライオラが次のターゲットとしたのは、タレントの宝庫ブラジル。現地に事務所を置いて若いタレントを発掘しヨーロッパに売り込むというやり方で、マクスウェル(現バルセロナ)をアヤックス、フェリーぺ(現フィオレンティーナ)をウディネーゼに10代で移籍させるなどの実績を作り、今もジョナタス(AZ→ブレシア)、ブルグマン(エンポリ)をはじめ、少なくない若手をヨーロッパのクラブに売り込んでいる。

しかし、最も強いネットワークを持つのはやはりオランダ、とりわけアヤックスである。かつてのロイ、ベルカンプに始まり、イブラヒモヴィッチ、マクスウェルからエマヌエルソンまでアヤックス育ちの選手はもちろん、09-10シーズンに指揮を執ったマルティン・ヨル監督も顧客だ。

その中でも一番の大物であるイブラヒモヴィッチとは、彼がスウェーデンのマルメからアヤックスに移籍してきて間もなく、強い絆で結ばれた。

初めて待ち合わせたアムステルダムのホテル・オークラに颯爽とポルシェで乗りつけたイブラの前に現れたのは、ナイキのTシャツにジーンズ姿の「ただのチビデブ」だった。ところが話を始めたライオラは「何様のつもりか知らないが、たった6ゴールしか決められない選手がビッグクラブに売れるわけないだろう。世界一になりたいのか?それならポルシェやらロレックスやらは全部売り払って本気でサッカーに打ち込め。そんなものは世界一の選手になればいくらでも手に入るんだ。お前には才能がある。でも今のお前は並以下のダメな選手でしかない」と一喝する。そして、ポルシェを売ってフィアットに乗り換え、クラブのトレーニングウェアで過ごすようになったイブラにつきまとい、尻を叩き続けた。

その2年後にユヴェントスに移籍し、そこからインテル、バルセロナ、ミランと渡り歩いて世界のトップ3に入るストライカーとなったイブラヒモヴィッチは、2011年に出版した自伝の中で「俺を最強にしたのはあのマフィアみたいにしつこいデブだ」と愛情を込めて語っている。

そのイブラヒモヴィッチをメガクラブからメガクラブへと移籍させ、年俸を雪だるま式に増やした手腕は語り草。アヤックスからユヴェントスに移籍させる際には、リヨンやモナコがより高額の移籍金(2000万ユーロ)をオファーしていたにもかかわらず、当時のユーヴェGDモッジと結託してアヤックスを揺さぶり、1200万ユーロでの移籍を受け入れさせた。その差額の多くがイブラの年俸に回ったことは言うまでもない。

ユーヴェからインテルへの移籍は、一度は合意に達していたミランを最後に袖にして実現した。バルセロナへの移籍は、インテルにCL優勝を可能にする戦力を揃える資金(+エトー)を、イブラには1200万ユーロという世界トップの年俸をもたらした。そこからたった1年でミランに移籍させた時には、逆に2400万ユーロという大バーゲンの移籍金を、しかも3年分割で支払うという条件をバルセロナに呑ませるしたたかさを見せている。

ミランのアドリアーノ・ガッリアーニ会長はこのディール、そして同時並行で実現したロビーニョの移籍交渉を通じてライオラの手腕に惚れ込み、今ではそれまでお気に入りのコンサルタントだったエルネスト・ブロンゼッティを上回るほどの信頼を寄せている。

カルチョの世界でも指折りの「古狸」であるガッリアーニからこれだけの評価と信頼を得るのは、一旦選手を移籍させると決めたら、なりふり構わずあらゆる手を使ってそれ実現させるだけの剛腕を持っているから。値段を決め、移籍先を探し出し、双方のクラブに何度でも足を運んで、揺さぶり、説得し、なだめすかし、時には脅しをかけながら説得し、契約の詳細を詰めるまで、すべてを自らの手でお膳立てする。誰に嫌われようが、どんな評判が立とうがまったく気にしない。

マリオ・バロテッリをインテルからマンチェスター・シティに移籍させる時もそうだった。おそらく彼も、イブラヒモヴィッチと同じようにあとひとつかふたつのメガクラブを渡り歩き、そのたびに年俸が吊り上がって行くのだろう。■

(2012年5月7日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。