ベルルスコーニがミランを手放しそうな気配がついに漂ってきました。この機会に、ミランの歴史を改めておさらいしてみましょう。2007年12月のクラブワールドカップ来日に合わせて書いたテキスト。ベルルスコーニ以前の時代に関して、日本語でこれより詳しいのはあまりないと思います。

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草創期から1940年代まで

イングランドで生まれたフットボールが、イギリス人を通じてヨーロッパや南米に「輸出」されていった19世紀末の黎明期、イタリアではじめてこのスポーツが広まったのは北西部に位置するトリノだった。

1864年にこの都市で生まれたエドアルド・ボシオは、学校を卒業すると英国ノッティンガムに本社を置く繊維商社トーマス・アダムス商会のトリノ支社で働き始める。仕事を通じてイングランドに長期間滞在する機会を得たボシオは、そこで触れたフットボールというスポーツに心を奪われた。帰国したのち、同僚のイギリス人たちや好奇心の強い地元の友人たちを巻き込んで、イタリア最初のクラブ「インターナショナル・フットボール・クラブ」を立ち上げる。1891年のことだった。

その創立メンバーのひとりに、ハーバード・キルピンがいた。学生時代にノッティンガムのクラブ、ノッツ・オリンピックでプレーした経験を持つスポーツマンだったキルピンは、その後ミラノに転勤になり、インターナショナルを離れることになる。

1898年、イタリアフットボール協会が設立され、初めてのイタリア選手権が開催されたが、すでにミラノに居を移していたキルピンは、参加することができなかった。ミラノではまだ、フットボールというスポーツが知られていなかったからだ。

翌1899年、キルピンはイギリス人ビジネスマンのたまり場だったミラノのビアホールに出入りして仲間を募り、イタリア人とスイス人の仕事仲間も加えて、フットボールのクラブを立ち上げる。その名も、ミラン・クリケット&フットボールクラブ。クラブ名がミラノの英語読みであるミランになったのは、メンバーの大半がイギリス人だったためだ。本部は、ドゥオーモ(大聖堂)の裏手にある居酒屋「トスカーナ」だった。

当時のメンバーの中で、フットボールの技術と戦術をちゃんと理解していたのは、キルピンただ1人だった。だが、その指導の甲斐あってミランは急速に強くなっていった。設立2年後の1901年に行われた第4回イタリア選手権では、それまで3連覇していたジェノアを破って、初めてのスクデットを獲得。その後も、06年、07年に連覇を果たす。

しかし、フットボールが徐々に普及し、イタリア選手権に参加するチームが多くなってきた1908年、フットボール協会はイタリア選手権に外国人の参加を禁じる決定を下し、ミランはこれに抗議して、選手権をボイコットすることになる。すでに38歳になっていたキルピンもこれを契機に引退し、クラブを去った。

キルピンが去ると同時に、ミラン草創期の繁栄も終わりを告げることになる。同じ08年、外国人の在籍を認めるかどうかをめぐりクラブの内部で分裂が起こり、袂を分かった「国際派」は、フットボールクラブ・インテルナツィオナーレ・ミラノ、すなわちインテルを設立する。現在まで100年にわたるライバル関係の始まりだった。

1909年に行われた初めてのダービーは、ミランが3-2で勝利を収めた。しかしそれ以降、1940年代終わりまでの40年以上、ミラノを代表するクラブはミランよりもむしろインテルであり続けた。イタリアサッカー史上に残る偉大なプレーヤー、ジュゼッペ・メアッツァをシンボルとするインテルが、全国リーグ「セリエA」がスタートした1929-30シーズンを含めて、通算5回のスクデットを獲得したのに対し、ミランは1908年から1951年まで、43年もの間優勝から遠ざかることになったからだ。
 

1950-60年代

イタリアが第二次大戦の戦禍から立ち上がり、復興期にあった1948年。この年から外国人選手の登録が3人まで認められたことで、セリエAではちょっとした「外国人ブーム」が起こっていた。ミランは、当時ヨーロッパで最強を争い、ロンドン・オリンピックで優勝したばかりだったスウェーデン代表の主力にターゲットを絞った。

まず49年1月、エースストライカーのグンナー・ノルダールと契約。ノルダールは、シーズン後半の15試合で16ゴールという誰もが驚くような活躍を見せて、あっという間にサポーターのアイドルになった。当時の会長ウンベルト・トラバットーニはその年の夏、すぐにノルダールが推薦する2人のMF、ニルス・リードホルムとグンナー・グレンを獲得する。今も語り継がれるスウェーデン人トリオ「グレ・ノ・リ」の誕生である。

華麗なドリブルを誇るファンタジスタのグレン、100kg近い巨躯を駆ってゴールに突進するストライカー・ノルダール、優雅なボールさばきと鋭い戦術眼でチームを指揮するリードホルム。彼らがイタリアの環境に慣れ、三者三様の個性を存分に発揮しはじめた50-51シーズン、ミランは44年ぶりとなる悲願のスクデットを掴み取り、カルチョの主役の座に返り咲くことになる。

1950年代から60年代初めにかけての10数年間は、ミランの歴史において、草創期に続く第二の黄金期といえるだろう。53-54シーズンを最後にグレンが去り「グレ・ノ・リ」は解体したが、ノルダールは、55-56シーズンまでの在籍7シーズンで通算227ゴールという驚異的な得点力を発揮し、リードホルムは60-61シーズンを最後に39歳で引退するまで、偉大なキャプテンとしてチームを統率し続けた。

ノルダールからエースストライカーの座を引き継いだのは、まったく対照的なプレースタイルを持つ南米のファンタジスタ、ホアン・アルベルト・スキアッフィーノだった。1950年のワールドカップ・ブラジル大会で母国ウルグアイを優勝に導き、54年スイス大会でも最優秀選手に選ばれた、当時世界でも指折りの名選手は、ミラン入りした時にはすでに29歳になっていたが、そのプレーの切れ味はまったく衰えていなかった。入団1年目の54-55シーズンにスクデットをもたらすと、56-57シーズン、58-59シーズンと、1年おき計3回の優勝に主役として貢献を果たす。

外国人ストライカーの系譜は、58-59シーズンにパルメイラスからやって来たブラジル人、ジョゼ・アルタフィーニへと続く。テクニックよりもフィジカルとゴールセンスで勝負する生粋のゴレアドールだったアルタフィーニは、61-62シーズンのスクデット、そして翌63年のUEFAチャンピオンズカップ初制覇の立役者となった。

50年代の主役が、「グレ・ノ・リ」、スキアッフィーノ、アルタフィーニといった外国人選手たちだったとすれば、60年代の主役となったのは、この61-62シーズンからチームを率いて、二度のスクデットと69年のチャンピオンズカップ初制覇に導くことになる名監督ネレオ・ロッコ、そしてジャンニ・リヴェーラ、ジョヴァンニ・トラパットーニをはじめとするイタリア人たちだった。

イタリア北東にある国境の町トリエステ出身のロッコは、50年代末に率いたパドヴァで、堅守&カウンターという「カテナッチョ」を武器に弱小チームを上位に導いて注目を集めた。「エル・パロン」(トリエステ方言でパトロン=庇護者のこと)というニックネームで知られるように、厳しいが愛情に満ちた態度で選手に接し、厚い信頼関係を築き上げた。戦術的には、「まず失点しないこと」というイタリア的なメンタリティを基本としながら、リヴェーラのようなタレントを自由にプレーさせ、決してディフェンス一辺倒ではない勝つためのサッカーを目指していた。

のちに監督として、そのロッコの後継者ともいうべき存在になるトラパットーニは、今のミランで言えばガットゥーゾのような、闘志あふれるメディアーノ(守備的MF)だった。地元ミラノ近郊の小さな村で生まれ、選手としてのキャリアは晩年までミラン一筋。監督としてのデビューもミランだった。

ロッコ就任1年目の61-62シーズンにスクデットを勝ち取ったミランは、翌シーズンのチャンピオンズカップで、イタリア勢として初めてヨーロッパの頂点に立つ。

1955年に『レキップ』紙の旗振りで始まった、欧州ナンバー1を決するこの国際トーナメントに、ミランはそれまで3回挑戦していた。初出場した55年の第1回は準決勝、そして2年後の57年には決勝で、アルフレード・ディ・ステーファノ率いる伝説的なレアル・マドリードの前に敗れ、59年は準々決勝で同じスペインのバルセロナに苦杯と、スペイン勢の厚い壁に阻まれてきた。

4度目の挑戦、ウェンブレーが舞台になった決勝の相手は、当時欧州最高のストライカーといわれた「黒豹」エウゼビオを擁するポルトガルのベンフィカだった。ミランは前半13分、そのエウゼビオに先制ゴールを許すが、後半に入って押し返し、アルタフィーニがリヴェーラのアシストから2得点を挙げて逆転、2−1で勝利を収める。聖地ウェンブレーでチャンピオンズカップを天に掲げたキャプテンは、チェーザレ・マルディーニだった。

このタイトルを区切りにロッコは一旦ミランを離れ、トリノの監督に就任する。チームも世代交代の時期に入り、リヴェーラとトラパットーニ以外のメンバーを徐々に入れ替えながら数年間の過渡期を過ごした。

ミランが主役の座に返り咲いたのは、ロッコが監督に復帰した67−68シーズンのことだった。ちょうど66年から、新たな外国人選手の登録が禁止されたこともあり、新たに加わったのはGKファビオ・クディチーニ(現チェルシーのカルロは息子)、MFジョヴァンニ・ロデッティ、FWピエロ・プラーティといったイタリア人選手。彼らは、翌68−69シーズンのチャンピオンズカップでも主力としてチームに貢献、ミランに二度目の欧州タイトルをもたらす立役者となった。

69年のチャンピオンズカップ決勝の相手は、若きヨハン・クライフを擁するアヤックス。71年から3年連続でバロンドールを勝ち取ることになる「ゴールの預言者」は、しかしこの試合ではトラパットーニの執拗なマークに、完全に抑え込まれた。

1970ー80年代

だが69年のこの栄光は、黄金時代の「終わりの始まり」を告げる最後の輝きとなった。70年代に入ると、ミランは緩やかな衰退の道を歩んで行くことになる。その中で数少ない栄光の瞬間は、72−73シーズンのカップウィナーズカップ優勝だった。

しかし、そのわずか4日後、ミランはヴェローナでのセリエA最終戦を乱戦の末3−5で落とし、99%確実と見られていたスクデットを逃すことになる。「ファタル・ヴェローナ」(運命のヴェローナ)として今でも語り継がれる悲劇である。

ここから80年代半ばまでの10年あまり、ミランはこの60年間で最もぱっとしない、低迷の時期を過ごさなければならなかった。ポジティブな出来事といえば、78−79シーズン、かつてチームのシンボルだったリードホルムを監督に迎え、通算10度目のスクデットを勝ち取ったことくらいだろう。

スクデットを10回勝ち取ったチームは、ユニフォームに星をひとつ縫い付けることを許される。それゆえミラニスタの間で「スクデット・デッラ・ステッラ」(星のスクデット) として記憶されているこのタイトルを勝ち取ったチームには、これが現役最後のシーズンとなったリヴェーラのほか、ファビオ・カペッロ(前レアル・マドリード監督)、ワルテル・ノヴェッリーノ(現トリノ監督)といった選手も名を連ねていた。

リヴェーラの引退とともにひとつの時代に終止符を打ったミランを待っていたのは、長い歴史の中でも最も屈辱的な時代だった。1980年3月、セリエAは闇サッカー賭博絡みの八百長という不正行為に広く蝕まれていることが発覚する。当時のコロンボ会長がこの疑惑に直接関与したことが明らかになり、ミランはクラブ史上初めてとなるセリエB降格を、不正行為に対する処分という最も不名誉な形で喫することになった。

翌シーズンはセリエBで優勝し1年でA復帰を果たしたものの、続く82-83シーズンは16チーム中14位という悲惨な成績で、今度は「実力によって」再びセリエBへの陥落を強いられる。この時にも1年でセリエAに復帰したが、クラブの財政状態は大きく悪化しており、2年後の85年秋には、当時の会長ファリーナが多額の負債を抱えていることが発覚、ミランは破産・消滅寸前の窮地に追い込まれた。

そこに救世主のように現れたのが、現在もオーナー会長を務めるシルヴィオ・ベルルスコーニだった。この野心的な会長のもと、ミランはまたたく間に息を吹き返したばかりか、たった4年間の間に、スクデット、チャンピオンズカップ、そしてインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)を勝ち取り、世界の頂点まで一気に駆け登ることになる。

その立役者となったのは、それまでまったく無名で、プロ選手の経験すら持たない理論派監督、アリーゴ・サッキである。まだリベロを置いたマンツーマンの守備的なサッカー「カテナッチョ」が全盛だったこの時代に、セリエBのパルマを率いていたサッキは、高い位置からのプレッシングとオフサイドトラップを多用するゾーンディフェンスの4-4-2という最先端の戦術を駆使してコッパ・イタリアでミランを破り、ベルルスコーニを魅了した。

会長になって実質2年目の87-88シーズン、ベルルスコーニは、最終ラインにクラブ生え抜きのフランコ・バレージとパオロ・マルディーニ、中盤にカルロ・アンチェロッティ(現ミラン監督)、ロベルト・ドナドーニといったイタリア代表クラスのトッププレーヤーを揃えた上、さらに当時欧州最強を誇っていたオランダ代表のエース、マルコ・ファン・バステンとルード・グーリットを獲得して、新監督サッキに委ねた。

「サッキのミラン」は、最初から順風満帆だったわけではない。それどころか、UEFAカップとコッパ・イタリアでは早期敗退を喫し、セリエAでも序盤は苦戦、解任の一歩手前まで行ったほどだった。しかし、戦術がチームに浸透して勢いに乗り始めると一気に順位を上げて、首位を走っていた「マラドーナのナポリ」を掴まえ、最後には逆転でスクデットを獲得する。

中盤に3人目のオランダ人、フランク・ライカールトを加え、「グレ・ノ・リ」を彷彿とさせる外国人トリオを完成させたミランは、翌88-89シーズンから2年連続でチャンピオンズカップ、インターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)を勝ち取って、世界最強チームの座に登り詰めた。

サッキがミランで実現した4-4-2プレッシングサッカーは、70年代初頭のアヤックス/オランダ代表によるトータルフットボール以来、20年ぶりにサッカーの世界を揺るがせた戦術革命だった。

縦横両方向に圧縮されたコンパクトな3ラインの布陣が一体となって、前線からアグレッシヴなプレッシングを敢行し、敵からボールをプレーするための時間とスペースを奪い取ってしまう。苦し紛れのロングパスは、名手バレージが統率する一糸乱れぬオフサイドトラップの、格好の餌食になるだけだった。奪ったボールは素早くサイドに展開して、パス3本でフィニッシュまで持ち込んでしまう。相手はまったくサッカーをさせてもらえないまま、ミランの圧力に押し潰されるだけだった。

スローなリズムの中でアーティストたちが華麗なテクニックや創造性を競う旧来のサッカーは、それからほんの数年の間に、ハイテンポな展開の中でアスリートたちがスピードと運動量を競うモダンフットボールによって、ほぼ完全に駆逐されることになる。ジーコ、プラティニ、マラドーナというファンタジスタの時代に終止符を打った「サッキのミラン」のシンボルたるオランダトリオ(グーリット、ファン・バステン、ライカールト)が、185cmを超えるしなやかな体躯に正確なテクニックを備えたスーパーアスリートだったのは、まさに時代の必然だったのである。

1990年代から2007年まで

91-92シーズン、サッキがイタリア代表監督就任のためにチームを去ると、ベルルスコーニはクラブの内部から、ファビオ・カペッロを昇格させた。カペッロは、それまでセリエAでの監督経験がほとんどなかったにもかかわらず、在籍5シーズンで4度のスクデットという黄金時代を築き上げることになる。

カペッロの戦術は、極端なまでにラインを押し上げアグレッシブなプレッシングを続けるサッキのそれと比べると、より保守的で中庸、言い方を変えれば得点を挙げるよりも失点しないことに重きを置くものだった。それを象徴するのが、就任1年目の無敗優勝、そして93-94シーズンの、34試合でわずか36得点(15失点)というミニマルな成績で勝ち取ったスクデットである。

右からタソッティ、コスタクルタ、バレージ、マルディーニという鉄壁の4バックを、鋼鉄のような肉体を持つ守備的MFデサイーがプロテクトする守備ブロックは、「水も漏らさぬ」という形容そのものの堅固さを誇った。攻撃を担ったのは、92-93シーズンまでが「オランダトリオ」、93−94シーズン以降はデヤン・サヴィチェヴィッチ、ズヴォニミール・ボバン、ジョージ・ウェアといった外国人スターたち。

国内ではほとんど負け知らずで「リ・インヴィンチービリ」(無敵軍団)と呼ばれたカペッロのミランだが、ヨーロッパの頂点に立ったのは、93-94シーズンの一度だけにとどまった。とはいえその「一度」は、過去15年のCL決勝の中でも99年のマンU対バイエルンと並んで、最も記憶に残る戦いによって掴んだものだ。

アテネで行われた決勝の相手は、ヨハン・クライフに率いられ、ロマーリオ、ストイチコフ、グアルディオラなど世界的なスターを揃えて「ドリームチーム」と呼ばれたバルセロナ。クライフは試合前「バルセロナがミランにサッカーのレッスンをしてあげよう」とまで豪語したが、試合はミランが4−0という一方的なスコアで勝利を収めることになった。3点目を決めたサヴィチェヴィッチの25mのループシュートは、今もミラニスタたちの瞼に焼き付いている。
 
カペッロは、自身にとって4度目のスクデットを勝ち取った95-96シーズンを最後にチームを去る。94年に政界進出を果たしたベルルスコーニに代わり、経営責任者となったアドリアーノ・ガッリアーニ副会長は、ウルグアイ人監督オスカル・ワシントン・タヴァレスを後任に選んだが、チームは低迷。96年12月に、イタリア代表からサッキを呼び戻すも、この96-97シーズンは10位、そして、レアル・マドリードからカペッロを呼び戻した翌シーズンは、さらに酷い11位という成績にとどまった。

この「迷走の2年間」に終止符を打ったのは、続く98-99シーズン、ウディネーゼから迎えた理論派のアルベルト・ザッケローニ監督の1年目に勝ち取った、望外とも言えるスクデットだった。

「迷走」の最大の原因は、バレージ、タソッティ、ドナドーニ、マッサーロといった重鎮が引退した後の世代交代に失敗したことだった。ガッリアーニは、すぐにスクデットを狙えるチーム作りを諦め、「勝つ」よりも「育てる」能力を評価されていたザッケローニに指揮権を委ね、数年がかりでチームを立て直そうという方針転換を図る。ところが、優勝候補にすら挙げられていなかったその1年目、ミランはオリヴァー・ビアホフ、ボバン、レオナルドなどの活躍によって、ラツィオを逆転してスクデットを勝ち取ったのだ。

だがこのタイトルは、言ってみれば78-79シーズンの「星のスクデット」と同様、過渡期における一瞬の輝きという位置づけにとどまることになる。その翌シーズンは優勝争いに加われないまま3位、続く00-01シーズンも中位に低迷し、ザッケローニは途中解任の憂き目を見なければならなかった。

すでに「隠居」の身だったチェーザレ・マルディーニを引っ張り出して6位でシーズンを乗り切ったガッリアーニは、翌01-02シーズンの監督に、フィオレンティーナを率いて魅力的な攻撃サッカーを見せていたトルコ人監督ファティ・テリムを指名する。だがこの人選はまったくの失敗だった。

プレシーズンキャンプとシーズン序盤の戦いぶりから、それを早々に悟ったガッリアーニは、わずか9試合でテリムを見限り、ユヴェントスを解任されて浪人中だったカルロ・アンチェロッティを招聘する。パルマからもオファーを受けて交渉を進めていたところを、サイン直前で割り込んでの「強奪」だった。

途中就任した01-02シーズン、翌シーズンのチャンピオンズリーグ出場権を確保できる4位を何とか確保したアンチェロッティは、続く02-03シーズン、前年獲得したマヌエル・ルイ・コスタに、リヴァウド、クラレンス・セードルフ、アンドレア・ピルロという3人を新たに加えて、計4人もの「10番」が顔を揃えたチームを機能させるという、困難な宿題に取り組むことを強いられる。だが、この難題を、ピルロを中盤の底にコンバートするというコロンブスの卵的な発想によって解決したことが、現在まで続く黄金時代を築く礎になったのだから、サッカーというのはわからないものである。

卓越した戦術眼と高い技術、そして長短の精確なパスワークを備えたピルロをチームの「臍」に据えた[4-3-2-1]システムを採用し、優れたテクニックを備えた攻撃的なプレーヤーを数多くピッチに送ったことで、ミランはそれまでのイタリアサッカーとは一線を画す、ボールポゼッションを重視したテクニカルな攻撃サッカーを確立した。その一方では、攻守のバランスを重視し組織的なディフェンスをないがしろにしない、イタリア的なメンタリティのいい部分も保っており、戦術的な完成度の高さは他の追随を許さないレベルにある。

この新たなスタイルを引っさげてヨーロッパの舞台に復活した02-03シーズン、ミランは準決勝でインテル、決勝ではユヴェントスを破って、8年ぶり6回目の優勝を勝ち取った。その後もチャンピオンズリーグでは5年連続でベスト8進出、決勝進出3回、優勝2回という素晴らしい実績を残している。

注目すべきは、今シーズンも含めてこの6年間、主力メンバーの顔ぶれに大きな変化がないことだ。02-03シーズンの優勝メンバーのうち、今も9人がレギュラークラスとして健在。とりわけガットゥーゾ、ピルロ、アンブロジーニ、セードルフというMF陣は、いまだに替えが効かない不動の顔ぶれである。もはや不動のエースであり、2007年のバロンドールを獲得したカカも、03-04シーズンにチームに加わってから早くも5シーズン目を迎えている。

だが、このチームを象徴する顔をひとり挙げるとすれば、それはやはり39歳を迎えた偉大なカピターノ、パオロ・マルディーニということになるだろう。

まだベルルスコーニが登場していなかった84-85シーズン、リードホルム監督によって弱冠16歳でセリエAデビューを飾ってから20年あまり、マルディーニは常にミランの顔であり続けてきた。サッキ、カペッロの時代には「世界最高の左サイドバック」という名声をほしいままにし、90年代末のセンターバック転向後も、長年にわたって「世界最高のディフェンダー」という揺るぎない評価を集めてきた。さすがに近年は故障がちで戦列を離れることが多くなったが、昨シーズンのチャンピオンズリーグ決勝が証明する通り、ピッチに立った時に発するカリスマ的なオーラはむしろ強まっている。

マルディーニにとっては、これが最後のシーズンになることはほぼ間違いない。また現在のチーム自体も、来シーズン以降は世代交代の時期を迎えるはずだ。その意味で、今回のクラブワールドカップに来日するミランは、ひとつの黄金時代の集大成のようなチームだと言えるかもしれない。成熟の極みにある偉大なチームの戦いぶりを生で堪能できる私たちは幸せである。□

(2007年12月1日)

By admin

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。