経営難に陥ってアルバニア人の新オーナーを迎えたものの財務状況は改善せず、ピッチ上でもカッサーノ、パレッタに逃げられ、セリエB降格は必至という、きわめて困難な状況に陥っているパルマ。今から13年前の2001年、中田英寿がローマから移籍したシーズンのレポートです。
この3年後に親会社パルマラットが破綻、パルマも国が送った再建委員会の管理下に置かれ、2007年にやっと新たな買い手(前会長のギラルディ)が現れて経営が安定したと思ったら、昨年夏にまたも危機。このままだと決定的な衰退への道を歩みかねないという状況ですが……。

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欧州カップに10年連続で出場し、UEFAカップ2回、カップウィナーズ・カップ1回を制覇。イタリア国内でも、スクデットこそないものの、セリエAでは常に上位に位置し(最高は96-97シーズンの2位、最低は91-92シーズンの7位)、コッパ・イタリアでも2度の優勝——。

1990年のセリエA初昇格以来、この10年間にACパルマが残してきた成績は、インテル、ラツィオ、ローマといった大都市のビッグクラブと比較しても、まったく遜色ないどころか、それを上回る素晴らしいものだ。イタリアサッカーの90年代を振り返ったとき、他でもないこのパルマこそが、ミラン、ユヴェントスに次ぐ“第3勢力”だったと断言しても、異論を唱える向きはいないだろう。

今となっては想像がつきにくいことだが、セリエAにデビューした90-91シーズン当時には、パルマも単なるプロヴィンチャーレのひとつに過ぎなかった。人口17万人の地方都市を本拠地とするこの無名の新顔は、しかし昇格1年目から「マラドーナのナポリ」や「サッキのミラン」を下すという金星を挙げ、セリエAに旋風を巻き起こす。メンバーの大半を占めていたのは、セリエBからそのまま持ち上がってきた無名選手。チームを率いるネヴィオ・スカーラも、まだキャリア4年目、セリエAはもちろん初めてという新鋭監督だった。いってみれば当時のパルマは、今シーズンの序盤戦を席巻しているキエーヴォと同じ、好感の持てるフレッシュなニューフェイスだったというわけだ。そしてもちろん、それ以上の存在ではなかった。

ところが、それからほんの短期間で、パルマは大きな成長を遂げる。昇格1年目を6位という望外の成績で終えると、翌年からコッパ・イタリア、カップウィナーズ・カップを連取、さらに1年置いて今度はUEFAカップまでも勝ち取った。そして、ヨーロッパのサッカー界に巨大な変化の波が押し寄せた90年代半ば以降も、ナポリ、サンプドリア、フィオレンティーナといった名門が凋落していくのを尻目に、常に安定した成績を残し、スクデット獲得を目標に掲げるビッグクラブ勢の一角を占めるに至ったのである。

地方の中小都市を本拠地とする、いわゆる「プロヴィンチャーレ」が、セリエAの上位に進出し、何年かの間ビッグクラブと対等に戦ったケースは、過去にもいくつかある。60年代末のカリアリ(69-70シーズンにスクデット)、70年代末のペルージャ(78-79シーズンに2位)、80年代半ばのヴェローナ(84-85シーズンにスクデット)がそうだ。

しかし、10年以上にもわたって安定した成績をおさめ、歴史と伝統を誇る大都市の強豪と肩を並べる存在になったクラブは、まったく例がなかった。その意味でパルマは、イタリアサッカーの歴史の中でも、また現在のセリエAの地図の中でも、きわめて特異な存在だということができる。

その特異さの背景にあるのは、名実共に「親会社」と呼ぶにふさわしい国際的大企業を後ろ盾に持つという、ヨーロッパでも数少ないクラブ経営形態である。ACパルマのほぼ全株式を保有して経営権を握っているのは、世界規模で事業を展開するイタリア最大の乳業・食品メーカー、パルマラット。ACパルマは、約14兆2000億リラ(8000億円強)の総売上高を誇るパルマラット・グループの一員に組み込まれている。30代前半の若さでクラブの会長を務めるステーファノ・タンツィは、パルマラットの創業者にしてグループの総帥であるカリスト・タンツィの長男である。

パルマラットがスポンサーとしてACパルマに関わるようになったのは、セリエBで戦っていた86年のこと。その後、90年にクラブの株式を一部買い取って経営に参加し、96年から全面的にグループ傘下に収めた。その目的は、国際的な市場拡大のための広告塔としての役割を果たすこと。これだけ積極的な形で「親会社」の企業戦略に組み込まれているプロサッカークラブは、イタリアではもちろん、ヨーロッパでも他には例がない。

今シーズン、中田英寿が移籍したことで、日本でも注目を集めているパルマだが、この「イタリア・クラブ探訪」で焦点を当てたいのは、ビッグクラブともプロヴィンチャーレともいえない特異なポジションにあるこのクラブが、どのような未来を見つめているのか、ということの方である。それには「親会社」であるパルマラットとの関係を鍵にして、パルマのヴィジョンと戦略を読み解く必要があるだろう。
 

イタリア半島のつけ根付近に位置するエミーリア・ロマーニャ州。パルマはその中央部、ちょうどピアチェンツァとボローニャの中間あたりに位置する、人口約17万人の地方都市だ。規模としては、ペルージャ、ベルガモ、ブレシアなどと変わらない。

ACパルマのクラブ・オフィスは、町の中心部から1kmも離れていない旧市街の外れにあるスタジアム「エンニオ・タルディーニ」の中にある。戦前からある古いスタジアムのメインスタンドを91年に改装した時に、観客席の下にオフィスが組み込まれた。

その一室で話を聞いたのは、ゼネラル・ディレクター(以下GD)のルカ・バラルディ。パルマにおいてGDは、財政面を含めたクラブ運営実務(総務・経理・財務を統括する管理部門といえばわかりやすいか)の総責任者という役割を担う。バラルディがこのポストに就任したのは今シーズンから。それまでは、地元の銀行バンカ・モンテ・パルマの上級管理職を務めていたが、21歳まで、セリエBのモデナでプロとしてプレーしたという経験も持っている。カルチョの世界にも精通しているのだ。

「パルマラットにとって、ACパルマは非常に大きなイメージ資産です。国際的な販売促進のための強力なブランドだといってもいいでしょう。イタリアはもちろん、ヨーロッパの舞台で大きなタイトルを獲得したことによって、今やパルマの名は世界中にアピールします。パルマラットは何年か前からアジア市場にも進出しているのですが、中国でもタイでも、パルマラットの商品のパッケージには、パルマの選手たちの写真がプリントされているんですよ」

パルマラットは、ACパルマを傘下におさめる以前から、スポーツに対するスポンサーシップを広告・PR戦略の中心に据えてきた。ドイツ、フランスといった欧州市場に進出した70年代にはアルペン・スキーやF1のスポンサーとなる。サッカーとの関係も、スペインに進出に伴って、85年にレアル・マドリーのスポンサーとなったのが最初で、地元ACパルマにかかわったのは、その後のことである。

すでに見たように、パルマの経営に乗り出したのは、セリエAに初昇格した90年。クラブが「全国区」になり、広告塔としての利用価値が高まったのと軌を一にしてのことだ。果たしてそれからの数年間でパルマは急速にチーム力を高め、ビッグ3(ユーヴェ、ミラン、インテル)に次ぐ中堅クラブ勢の一角に名を連ねる。さらに、ヨーロッパの舞台での活躍(カップウィナーズ・カップ、UEFAカップの相次ぐ獲得)を通じて、パルマの名前、そしてユニフォームの胸に描かれたパルマラットのロゴは世界的に知られるようになっていった。パルマの躍進と肩を並べるように、パルマラットも飛躍する。総売上高は、90年の1兆1000億リラ(約630億円)から、95年には4兆2900億リラ(約2450億円)へと、4倍以上もの伸びを見せた。

現在、市場を急速に拡大しているアジアの前には、南米が主なターゲットだった。パルマラットは、90年代半ばから後半にかけて、ボカ・ジュニオールズ(アルゼンチン)、ペニャロール(ウルグアイ)、ウニヴェルシタ・カトリカ(チリ)といった各国の有力チームのスポンサーとなり、ブラジルにおいては、パルメイラスの経営にまで参加していた。今や南米は、グループの総売上高の半分以上を生み出す、最大の市場に成長している。その後南米でのスポンサーシップは縮小され、パルメイラスの経営からも撤退したが、これは、南米での事業が成長期から安定期に入ったことと無関係ではない。

90年代の終盤、パルマラットは世界各地で展開していたスポンサーシップを大幅に整理して、すでに世界的な知名度・注目度を獲得した地元ACパルマに資本を集中投下することを決める。目標は2つ。セリエAでスクデットを獲得すること、そして欧州チャンピオンズ・リーグで上位進出すること。要するに、ヨーロッパの一流クラブの仲間入りを果たし、パルマラットのブランド力をさらに高めるためである。

98-99シーズン、フィオレンティーナからアルベルト・マレサーニ監督を迎えたパルマは、前線にヘルナン・クレスポとエンリコ・キエーザ、中盤にはホアン・セバスチャン・ヴェロン、ディエゴ・フゼール、アレン・ボゴシアン、守備陣にリリアン・トゥラム、ファビオ・カンナヴァーロ、ジャンルイジ・ブッフォンと、錚々たるメンバーを擁していた。本気でスクデットを勝ち取ろうという狙いがはっきりと表れたチーム作りである。

このシーズン、パルマはUEFAカップ、コッパ・イタリアの二冠を獲得し、セリエAでも4位に入って翌年のチャンピオンズ・リーグ出場権を確保する。頂点を目指す第一歩としては、申し分のないシーズンといってもよかった。しかし、続く99-00シーズン、せっかく固まったチームの土台をあえて壊すように、攻撃の要だったヴェロンとキエーザを、それぞれラツィオ、フィオレンティーナに放出してしまう。その後がまとして、アリエル・オルテガ、マルシオ・アモローゾを獲得したが、誰もが首を傾げる補強戦略であることに変わりはなかった。

当時、銀行の顧客であるパルマを外部から観察していたバラルディGDは、その理由をこう説明してくれた。

「最大の誤算は、コストの急上昇でした。当時、ビッグクラブによる有力選手の獲得競争に拍車がかかり、選手の移籍金はもちろんですが、年俸つまり人件費が急激に上がったのです。何百万人ものサポーターを持つ大都市のビッグクラブと違って、サポーターの少ないパルマは、入場料収入が少ないのはもちろん、TV放映権料も高く売れませんし、スポンサーやマーチャンダイジングからの収入にも限界があります。ビッグクラブには吸収できたかもしれませんが、パルマにとってこの人件費上昇はあまりに急激でした。

もちろん、親会社であるパルマラットが資金を補填することは不可能ではありませんが、独立採算で運営が成り立っていくことが、パルマラット・グループの一員としての事業の大前提です。
そのために必要だったのが、クラブが持つ最大の“資産”である選手の“トレーディング”でした。株式や債券の売買と同じ、正真正銘のトレーディングです。基本は、安く買って高く売り、その利益を再投資して資産を増やしていくこと。ヴェロン、キエーザも、あるいはその次の年に手放したクレスポも、“売り時”である以上手放さないわけにはいきませんでした。そうやって利益を出すことによってしか、毎年の収支を合わせることは不可能だったからです」

事実、決算報告書の数字を見ても、97-98シーズンに690億リラ(40億円弱)だった人件費は、翌98-99シーズンには1100億リラ(約63億円)と60%以上もの伸びを見せている。ここに遠征費から育成部門への投資まで、その他諸々のクラブ運営費を加えた総支出は、クラブの総売上(1320億リラ=約75億円)を軽々と上回っている。98-99シーズンは900億リラ(50億円強)もの赤字。これを補って決算を何とか黒字にしているのが、1000億リラ(約57億円)もの選手売買益、つまり“トレーディング”の収支なのだ。

決算の収支は何とか合った。しかし、翌99-00シーズンのパルマは、念願のチャンピオンズ・リーグの出場権を得たにもかかわらず、予備戦で敗退(対グラスゴー・レンジャーズ)するという大誤算で幕を開ける。UEFAカップもベスト16で敗退(対ヴェルダー・ブレーメン)、セリエAでも5位と、前年と比べてぱっとしない成績に終わった。その最大の要因は、ヴェロン、キエーザの抜けた穴を、オルテガ、アモローゾではまったく埋め切れなかったことだった。

活躍した選手を売るときには、その活躍に見合っただけの値段がつき、クラブに利益をもたらす。しかし、それと同じ(あるいはそれ以上の)金額で買った選手が、次のシーズンに同様の活躍をしてくれるとは限らない。売るのは簡単だが買うのは難しい、というのは、株式や債券でも、カルチョメルカートでも変わらない真実なのだ。

しかし、見込んでいたチャンピオンズ・リーグからの収入が得られず、UEFAカップでも早期敗退を喫したため、このシーズンも通常の売上だけでは支出をカバーできなかったパルマは、ふたたび“トレーディング”に頼って、収支の埋め合わせを図らざるを得なくなる。4シーズンに渡って攻撃の大黒柱だったクレスポを放出する一方、サボ・ミロセヴィッチ、セルジョ・コンセイソン、ヨアン・ミクー、サブリ・ラムシといった各国の代表クラスを獲得して10人以上の選手を入れ替えたのも、チームの戦力的な要請よりも、財政的な要請からのことだった。選手の売買益が必要だったのだ。

続く00-01シーズンは更に波乱に満ちた1年となった。大幅にメンバーが入れ替わったチームはなかなか調子をつかめず中位から抜け出せないまま。年明け早々、ホームでレッジーナに敗れた翌日、パルマラットが経営に参加して以来「御法度」だった、シーズン半ばでの監督交代に踏み切ることになった。

マレサーニの後任として満を持して招聘したのは、元ミラン、イタリア代表監督のアリーゴ・サッキ。オーナーのタンツィ親子とて、何の見通しも持たずにシーズン途中の監督解任に踏み切ったわけではなかった。サッキとの間には、次のシーズン(つまり今シーズン)からはテクニカル・ディレクターに昇格し、強化部門の最高責任者として長期的な視点からチーム作りに取り組むという合意も成り立っていたのだ。

しかしそのサッキは、わずか3試合後に、監督という重圧に心身が耐えきれないという理由で辞任を余儀なくされる。二重に重なった不慮の事態にパルマが招聘したのは、ボローニャ、ナポリ、カリアリなどで指揮を執ったベテラン、レンツォ・ウリヴィエーリだった。アモローゾ、セルジョ・コンセイソンというビッグネームをベンチに送る荒療治でチームのバランスを見出したウリヴィエーリは、就任後の18試合を10勝3分5敗というハイペースで乗り切り、11位に低迷していたチームを望外の4位まで引き上げてシーズンを終えた。
 
マレサーニ監督の就任から解任までの足かけ3シーズン、パルマはビッグクラブと比べても遜色のないワールドクラスをチームに揃え、スクデット獲得とチャンピオンズ・リーグ上位進出を目標に掲げて戦ってきた。しかしそれが、ホームタウンの人口やサポーターの数といったクラブの基盤と比べれば、明らかな“背伸び”だったことも、2年目、3年目の失敗で浮き彫りになった。1年目(98-99シーズン)に好成績を挙げたチームを、核になった選手(ヴェロン)を手放すことなく、さらに強化していくだけの“企業体力”が、ACパルマには備わっていなかったのである。

その一方で、選手獲得競争の過熱による年俸の高騰はさらに進み、パルマの人件費総額(00-01シーズン)は、クラブの総売上高とまったく変わらない、1500億リラ(約85億円)にまで膨れ上がっていた。クラブとしての経営戦略を見直す時期がきていることは明らかだった。
 

果たして、今シーズンに向けたパルマのチーム作りは、これまでとははっきりと異なる方向性に基づくものになった。ブッフォン、トゥラム、コンセイソン、アモローゾといったビッグネームを手放して獲得したのは、中田英寿、セバスチャン・フレイ、エミリアーノ・ボナッツォーリといった20代前半の若手。すぐに頂点を目指すというよりは、これを土台にして、何年かかけて強いチームに育てていこうという布陣である。

チーム部門の総責任者であるスポーツ・ディレクター(以下SD)を務めるファブリツィオ・ラリーニはこう語ってくれた。

「チーム作りの方針を変更したのは確かです。はっきりした理由もあります。この数年間、パルマのオーナー、つまりタンツィ家とパルマラットは、ワールドクラスの選手を何人も補強してチームを強化するために、多大な投資を行ってきました。しかし残念ながら、その投資に見合うだけの結果を挙げることはできませんでした。

パルマは静かで落ち着いた豊かな小都市で、サポーターやマスコミのプレッシャーも、大都市とは比較にならないほど低い。すでに一度頂点に立ったトッププレーヤーたちがそういう環境に置かれると、どこかでリラックスしてしまい、勝利への強い欲望が失われる部分があるのかもしれません。結果的に、彼らの多くは、我々が期待しただけの活躍を見せてはくれませんでした。

そこで今シーズンは、名前のあるトップクラスの選手を獲るのはやめて、まだトップに立っていない分、モティベーションも高い、より若くてこれからさらに伸びる可能性のある選手にターゲットを絞って獲得する方向に、チーム作りの方針をはっきりと転換しました。そもそも、パルマという都市やクラブの規模からすれば、むしろこれが一番ぴったりしたやり方です。その意味では、原点に戻ったと言ってもいいかもしれません」

バラルディGDは、クラブの財務を預かる立場からこうつけ加える。

「財政的なことだけを考えれば、もっと早くから方向転換を図るべきでした。ビッグクラブに対抗して、移籍金も年俸も高い、すでに評価を確立してしまったビッグネームを獲得し続けることは、元々不可能だったのです。それに、カネをかけたからといって、それに見合った結果が得られるとは限らないのがカルチョの世界です。むしろ、それとは違う別の可能性をさぐることが、パルマのようなクラブが選ぶべき道でしょう」

選手を大幅に入れ替えたこともあり、チームとしての継続性を保つために、パルマは本来は「中継ぎ」でしかなかったウリヴィエーリ監督の留任を決める。昨シーズン後半に不調からチームを立て直した手腕を信じての選択だった。
 
中田が移籍したこともあり、今シーズンのパルマの動向は、日本でも今までになくフォローされていたから、シーズンが始まってから現在までの経緯は、まだ誰の記憶に新しいところだろう。苦しいシーズンを戦い、やっと手に入れたチャンピオンズ・リーグ出場権は、リールとの予備戦に敗れて逃げ去ってしまった。

「はっきりいって、まったく想定していませんでした。精神的にも準備ができていませんでしたし、経営的にもそれを想定した準備はできていませんでした。二重のショックですよ」(ラリーニSD)というダメージから立ち直る間もなく迎えたセリエAの開幕後も、チームの組織は噛み合わないまま。第9節(8試合目)のヴェローナ戦で引き分けたところで、このラリーニSDを初めとするクラブ首脳の信頼を失ったことを知ったウリヴィエーリは、自らクラブに解任を申し入れてパルマを去った。

ここでオーナーのタンツィ親子が持ち出したのは、昨シーズン半ばに一度は頓挫した“サッキ・プロジェクト”だった。テクニカル・ディレクターにアリーゴ・サッキを迎え、チームの監督には、昨シーズンまでユヴェントスを率いていたカルロ・アンチェロッティを据えて、新しい考え方に基づく長期計画を立ち上げる、というものである。しかし、99%実現するかに見えたこの魅力的なプロジェクトも、土壇場でアンチェロッティをミランに“強奪”されるというアクシデントによって、幻に終わってしまう。結局、監督に就任したのは、ダニエル・パッサレッラ。パルマは、またも“次善の策”で満足することを強いられたことになる。

セリエA第13節を終えた現時点で、パルマは11ポイントしか挙げられず、B降格ゾーンの15位に低迷している。

「パルマラットのイメージリーダーという立場からすると、パルマの現状は由々しき問題です。今シーズンの失敗は、クラブの内外で起こった様々な変化を、うまく吸収しきれなかったために起こったことではないかと、私は思っています。外的には、選手の年俸の急激な上昇による経営環境の悪化(フィオレンティーナがいい例です)、内的には、チームのメンバーを大きく入れ替えすぎたこと。

監督留任という選択も、おそらく誤りでした。ウリヴィエーリは優秀な監督ですが、ベテランを上手く使ってソリッドなチームを作るのが上手いタイプです。若手を積極的に抜擢しながらチームを作っていくのには向いていなかった。その点、パッサレッラはアルゼンチン代表などでも実績があるとおり、このチームには適任だと思います。そう遠くないうちに、立ち直りのきっかけが見えてくると信じていますよ」

こう語るバラルディGDによれば、パルマは現在、アメリカに本社を置く経営コンサルタント会社・バインに依頼して、新たな中期経営戦略を策定中だという。年明けには発表されるというこの計画の骨子は、3〜5年の間に、アヤックス、ヴァレンシアといったクラブに範をとった、才能のある若い選手を中心にして競争力のあるチームを作り上げる強化システムを確立すると同時に、パルマラットのイメージリーダーとして、その世界戦略との連動もより強化していくというもの。

これはいわば、ビッグクラブの戦略とは異なる、パルマならではのもうひとつの選択肢をひとつの理念として確立する、ということである。すでに、クラブ経営という点から見ればイタリアでも最先端、もっともビジネスライクな組織を確立しているパルマだけに、この領域では更に一歩先を行くことは間違いない。

確かに、カルチョの世界には、ビジネスライクな経営戦略の枠には収まらない不確定要素が、あまりにも多い。マレサーニ解任以降の監督人事のもつれは、その象徴といっていいだろう。もし「サッキ・プロジェクト」が実現していれば…、と思うのは筆者だけではあるまい。

しかし長期的に見れば、確かなポリシーと明確な戦略を、一貫性と継続性を持って押し進めていくことが、大きな成果を挙げる上で最も大切な要素であることに変わりはない。それを自覚しまた実行してきたことが、セリエA初昇格からわずか10年間でこれだけの成長を遂げた大きな秘密であり、これからもパルマの大きな強みであり続けるだろう。□

(2001年12月2日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。