チッタデッラ4-4サレルニターナ。

9月2日、セリエB第2節の試合結果のひとつである。これがスペインやイングランドならば、「お、派手な試合だったな」という程度の感想で見過ごされるところだろうし、オランダならば単なる日常のひとコマに過ぎないだろう。

ところが、これが「今週一番の話題」になってしまうのがイタリアである。なにしろ、ここ2日ほど、一般紙も含めほとんどの新聞がこの試合にまつわる記事を取りあげているのだ。今週は代表ウィークでセリエAが休みだったとはいえ、いずれにしてもセリエBに割かれるスペースなどそう大きくはないから、各紙揃って話題にするというのは滅多にないことである。

もちろん、これが気の抜けた試合で両チームの守備陣がミスを連発した結果、偶然生まれた、「ただの」4-4ならば、こういう形で注目を浴びることもなかっただろう。だが、両チームが合わせて7人ものフォワードをスタメンに起用し、ともに確信犯的な攻撃サッカーを展開して、「4-4が7-7や8-8でもまったくおかしくなかった。

決定機は少なく見積もっても20はあったし、オフサイドトラップも何と合計13回」(コリエーレ・デッロ・スポルト紙)という、文字通りノーガードの打ち合いを演じたとなると話は違う。

こんな試合、イタリアではそうそう見られるものではない。そして、それを演出したのが、イタリアでは異端ともいえる攻撃サッカーを看板にする新旧ふたりの監督だったから、マスコミも喜んで飛びついたというわけだ。
 
アウェーのサレルニターナの監督は、ズデネク・ゼーマン。「サッカーというゲームのコンセプトは、相手のゴールにボールを蹴り込むことにある。そう考えるとボールをなるべく相手のゴールに近いところ、自分のゴールから遠いところに置いておくことが必要だ。

そのためには私の選手たちもより相手ゴールに近いところでプレーしなければならない」(本人のコメント)という理想主義的な4-3-3の攻撃サッカーで90年代のセリエAを席巻した、チェコ人のアウトサイダーである。

徹底したゾーンディフェンス、極端に高い最終ラインと積極的なオフサイドトラップ、攻撃に転ずるとほとんどウイングのように振る舞うサイドバック、ひとりひとりのムーブメントが細かく決められたシステマティックで組織的なアタックなどを戦術的な特徴とするゼーマンのサッカーに対しては、残念ながらこの数年、「あのサッカーでは絶対勝てない」という評価が定着してしまった感がある。

90年代初頭、シニョーリ(現ボローニャ)やディ・ビアージョ(現インテル)を擁してセリエBから昇格してきたゼーマンのフォッジャはセンセーショナルだった。まだリベロを置いたマンマーク・ディフェンスが幅を利かせ、1-0や0-0ばかりが結果表に並んでいたセリエAで、4-2で勝ったり3-5で負けたりしながら、ビッグクラブを圧倒したかと思えば最下位のチームに大敗するという派手な立ち回り。

しかし結果的には、並以下の戦力しか持っていなかったにもかかわらず(シニョーリやディ・ビアージョが大成したのはその後の話だ)、3シーズン連続で余裕の残留を果たす。

フォッジャで残したこの結果、そしてそれ以上にスペクタクルな攻撃サッカーが評価されて、その後ラツィオ、ローマを率いたゼーマンは、94-95シーズンから98-99シーズンまでの5年間、2位、3位、途中解任(ラツィオ)、4位、5位(ローマ)という成績を残した。

両クラブともまだ、北のビッグクラブと肩を並べるほどの戦力レベルには達していなかったことを考えれば、これは決して失敗と評価すべき成績ではない。しかし、当時の空気はもっとずっと否定的なものだった。

確かに、ローマの2つのチームを率いた5年間、終盤戦に猛烈な追い上げを見せて最終的には高い順位を確保するものの、シーズン半ばの12月から1月にかけて毎年必ずスランプに陥りスクデット争いから脱落する(ゼーマンが採用しているフィジカル・コンディショニングのメソッドが原因とされる)、2-0で勝っているにもかかわらず攻撃を続けてカウンターを喰らい、2-3や3-4で負けるような戦いぶりをしばしば見せる(もちろん4-0で勝つことも少なくない)といった、いくつかの“特徴”が共通してみられたことは事実だった。

いま振り返ると、それが必要以上にネガティブに捉えられ、強調されるにつれて、「ゼーマンではタイトルは獲れない」という空気が、カルチョの世界(クラブやマスコミから同業者の評価まで)に徐々に広がっていったという印象がある。

ちょうど同じ時期に“カルチョのビジネス化”が急速に進展して、ローマ、ラツィオ、パルマ、フィオレンティーナといったかつての中堅クラブまでがスクデット戦線に参入、とにかく性急に目先の「結果」ばかりを求める風潮が蔓延したことも、自分のサッカーをチームに浸透させるまでに時間を必要とするゼーマンのような監督にとっては不運だった。
 
結果的に、ローマとの契約を更新しなかった99-00シーズンは、どこからも声がかからず「浪人」。シーズン途中にトルコのフェネルバーチェから声がかかり監督に就任したが、2ヶ月あまりで辞任することになった。

続く昨シーズンは、2年ぶりにセリエAに復帰したナポリに招聘されたものの、希望に添った選手をまったく獲得してもらえず、チーム作りの段階からトラブル続き、わずか2ヶ月で解任の憂き目にあった。
 
失敗が続くと、クラブの方もますます声がかけにくくなる。今シーズンも、セリエAの監督ポストは望めそうになかった。そこにオファーをしたのが、以前からゼーマンのサッカーに心酔していたサレルニターナ(セリエB)のアリベルティ会長。

98-99シーズンにセリエAに昇格しながら1年でBに逆戻りして2年、チームの再構築の時期に直面していたこともあって、「今年すぐに昇格してほしいとはいわない。時間をかけていいチームを一緒につくりたい」いうのが、ゼーマンに対するオファーの内容だった。いわば10年前のフォッジャと同じような環境の元で、もう一度あの躍進を、というわけである。
 
さて、こうして再出発を図った攻撃サッカーの教祖・ゼーマンが率いるサレルニターナと派手な大立ち回りを演じたもう一方の主役、チッタデッラの監督は、エツィオ・グレレアンという。まだメジャーな世界ではほとんど無名だが、セリエB、Cの世界では、この2-3年、最も注目されている監督のひとりである。

というところで、いつもの悪癖で紙幅が足りなくなってしまったので、以下、後編に続きます。

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。