「イナモトにはうちもオファーを出していたんですよ。彼のことはかなり以前からマークしていました。日本代表のフランス戦、スペイン戦はもちろん、この間のコンフェデレーションカップにもスカウトを送ってプレーをチェックしました。我々の出した結論は、これならうちの中盤の柱として十分活躍できる、というものでした。

オファーを出し、クラブとも代理人とも話をして、かなり具体的なところまで交渉が進みました。一時は、まず獲得できるだろうと思ったくらいです。最後には、20万ドルの差でアーセナルに持って行かれてしまいましたが…」
 
これは、キエーヴォ・ヴェローナのスポーツ・ディレクター、ジョヴァンニ・サルトーリのコメントである。ガンバ大阪の稲本にセリエAのクラブがオファーを出している、という噂は日本経由で耳にしていたが、それがキエーヴォだとは思わなかったので、この話を聞いたときには驚いた。「だったらこっちに来ればよかったのに…」というのが、思わず口をついて出た感想である。
 
キエーヴォ・ヴェローナなんて名前は聞いたこともない、という方も少なくないかもしれない。しかしそれも無理はない。セリエAに昇格したのは今シーズンが初めてという、まったくの新興勢力なのだから。

北イタリア・ヴェネト州の中都市ヴェローナ(人口約25万人)には、かつてストイコヴィッチがプレーし、ここ3シーズン、セリエAに定着しているヴェローナ(正式名称はエラス・ヴェローナ)というクラブがある。キエーヴォはそれとは別の、この都市を本拠地とするもうひとつのクラブである。

キエーヴォというのは、ヴェローナの郊外にある人口2000人ほどの地区の名前だ。キエーヴォ・ヴェローナも、もともとはその地区を代表する、どこにでもある地元のアマチュアクラブに過ぎなかった。

ところが、1986年のプロリーグ(セリエC2=4部)初昇格以来、一度も降格することなく着実に成果を積み重ね、94年にはセリエB、そして昨シーズンにはセリエAに昇格を果たしてしまった。

都市ではなく、その中の一地区のクラブがセリエAで戦うなど、前代未聞である。3年ちょっと前にこの連載を始めたとき、1回目に取りあげたのは、当時セリエBで戦っていたカステル・ディ・サングロという、人口5500人ほどの山村のクラブの話だった。キエーヴォのセリエA昇格は、それを超えるほどの一大センセーションである。

なにしろ、クラブの年間予算は約100億リラ(=約5.5億円/中田ひとりの税込み年俸とほぼ同じ)、フロント部門の常駐スタッフわずか5人という、セリエC並みの運営規模で、カリアリ、サンプドリア、ジェノアなどを蹴落として昇格を果たしてしまったのだ。

まさに、「マネー」という怪物が支配する巨人の国セリエAに、知恵と工夫と勇気だけを武器に敢然と飛び込むリリパットとでもいうべき、ちょっとスペシャルな存在なのである。
 
もちろん、そんな規模でこれだけの結果を残すためには、クラブとしての戦略やプログラムがよほどしっかりしていなければ不可能である。事実、キエーヴォはその点では以前から非常に高く評価されている、知る人ぞ知る優等生クラブだった。

その具体的な紹介は某WSD誌(16日発売)に記事を書いたのでそちらに譲るが、今回のセリエA昇格も、決してフロックなどではなく、決して無理をせず、しかし一歩づつ着実に力をつけてきた結果である。セリエBで3ヶ月以上首位をキープした昨シーズンのチームも、無名選手ばかりながら、個人の力に頼ることなく、高度に組織された小気味いいサッカーを展開する好チームだった。
 
そのキエーヴォが、セリエAに昇格した初めてのシーズンに臨むために、中盤のキープレーヤーとして獲得を望んでいたのが、日本の稲本だったというわけだ。サルトーリは語る。

「イナモトは、運動量、テクニック、戦術眼を兼ね備えた、完成度の高いミッドフィールダーです。しかもまだ21歳。これからまだまだ伸びるでしょう。ただし、そのためには試合に出てプレーすることが必要です。我々はもちろん、レギュラーとして使うつもりでした。

監督のデル・ネーリも期待していたんですよ。アーセナルに行ったと聞いたときには、キエーヴォにとってはもちろん、彼のためにも残念なことになったと思ったものです。スター揃いのあのチームで試合に出るのは簡単じゃないでしょうからね」

ちなみに、デル・ネーリ監督の戦術は、典型的な4-4-2ゾーンのプレッシング・サッカー。最近では珍しく、積極的にディフェンス・ラインを押し上げてオフサイド・トラップをかける、アグレッシヴなサッカーである。

稲本は、ディフェンスラインの前に2枚並んだセンターハーフのうちの1枚に起用されることになったはずだ。守備の局面では中央でフィルターの役割を果たし、攻撃の局面では組み立ての起点となると同時に、時には前線に上がってミドルシュートを打つ役割である。

稲本をよく知る日本のある記者によれば、本人は常々、試合に出られるチームに移籍したい、ビッグクラブに移籍しても出られなければ意味はない、と語っていたという。また、移籍先を決める最終局面で、選択肢はアーセナルとキエーヴォの2つに絞られており、本人はイタリアに傾いていたようだという話も人づてに聞いた。

最終的にアーセナルを選んだ経緯がどんなものだったかは、知るよしもない。本人がキエーヴォに傾いていたという話が本当かどうかもわからないし、そもそも移籍というものは、本人の意思だけで決まるものでもない。クラブの利害もあれば代理人の利害もあるからだ。

一般論としていえば、クラブは、オファーされた金銭的条件が有利な方を選ぶのが当然だし(「20万ドルの差」とサルトーリは語っている)、本来は選手のキャリアを長期的な視点から考えサポートすべき立場にある代理人もしばしば、自分の懐がより潤う移籍を実現しようとするものだ(ふたつのクラブのネームバリューを比べたら、期待できる肖像権ビジネスの規模は大違い)。

問題は、これらがいずれも経済的な利害であり、選手の利害と必ずしも一致するわけではないところにある。例えば中田のローマ移籍にしても、ペルージャのガウッチ会長の意向が強く働いた結果だったが、あれが本人にとってベストの選択だったと言い切れる人は少ないだろう。
 
稲本がアーセナルに移籍してまだ1ヶ月足らず。この選択が正解だったかどうかの判断を下すには、まだまだ時間が必要だ。ただ、客観的に見て、あのチームでレギュラーを確保するのはかなり困難だろう。

ワールドカップを目前に控えた1年を、世界的な知名度を誇るビッグクラブのリザーブとして送るか、ついこの間までは誰も聞いたことがなかった弱小クラブのレギュラーとして送るか。キエーヴォがどんなクラブかを知る立場からすれば、個人的には後者がお勧めだったが…。
 
そういえば、サルトーリは、こうも言っていた。

「キエーヴォは、選手に他よりもいい金銭的条件をオファーすることはできません。そのかわり、経験を積み能力を高めるチャンス、試合に出て活躍し、より高いレベルに進むチャンスを提供することができます。今までも常にそうでした。もし稲本に会うことがあったら、キエーヴォはいつでも門戸を開いて待っている、と伝えて下さい」

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。