今回も、フィオレンティーナの監督交代に伴う笑えない大騒動を、引き続きレポートする。少々長くなるが、興味のある方はおつきあい願いたい。

2月26日(月)にファティフ・テリム前監督が自ら辞任し、それにテクニカルスタッフ6人とジャンカルロ・アントニョーニGM、そして彼のアシスタントの計8人が追随したことで、フィオレンティーナのトップチームは指導者不在に陥った。

しかし同日夜、ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリ会長が経営するローカルTV局「カナーレ10」に生出演したマリオ・スコンチェルティ副会長は、「今週の木曜日(3/1)から、ロベルト・マンチーニがフィオレンティーナの監督に就任する。それまでの間は、現在プリマヴェーラの監督を務めるルチャーノ・キアルージがトップチームを見る」と発表する。

チェッキ・ゴーリがマンチーニを監督に望んでいることは、昨年夏から周知の事実だった。その意味でこれは順当な人選ともいえるのだが、事態はそう単純ではない。

サッカー協会技術委員会には、ひとりのコーチが1シーズンに複数のクラブと契約を交わすことを禁じる規定がある。マンチーニは今シーズン、ラツィオでエリクソン前監督のアシスタントコーチを務めていた。

したがって本来ならば、来シーズンまで他のクラブと契約することは不可能なはずだ。しかし、フィオレンティーナは、このルールはトップチームの監督に限られるものと強引に解釈し、その解釈に基づいて、サッカー協会の上層部に対し、マンチーニにはこの規定の適用を除外するという特例措置を取ってもらえるよう、すでに働きかけを始めていた。

この生放送中、スコンチェルティは「テリムは国の中にもうひとつの国を作った」、「今日からやっとまともに仕事ができる。アントニョーニは役員であるにもかかわらず、監督と行動を共にしてクラブを窮地に陥れた」などと発言。

これを聞いたアントニョーニはスタジオに電話をかけ、視聴者の前でスコンチェルティとやりとりを始める。それが声を荒げての罵り合いに発展するまで、さほど時間はかからなかった。

「お前は嘘つきだ。チェッキ・ゴーリの操り人形だ」(A)。「10年間もチェッキ・ゴーリの下で仕事をしてきて、今さら何をいっているんだ。10年間飯を食わせてもらった相手に感謝するべきなのはお前の方だ」(S)。

「おれはお前に文句を言っているんだ。チェッキ・ゴーリにじゃない。大体、お前がフィオレンティーナのために何をしたっていうんだ。おれはフィオレンティーナに人生のすべてを捧げてきたんだ」(A)。「おれだってすべてを捧げてきた!」(S)。

おそらく、いや間違いなく、すべてのフィオレンティーナ・サポーターを現経営陣との全面対決に一致団結させたのは、スコンチェルティのこの最後の一言だった。

アントニョーニは、1972年に18歳でセリエAにデビューして以来、選手として14年間、役員として13年間、ローザンヌ(スイス)でプレーヤーとしての晩年を送った2年間を除いて、常にフィオレンティーナ一筋を貫いてきた、文字通りの「バンディエーラ」であり、フィレンツェ市民にとっては神格化された存在である。

そのアントニョーニに、たった1ヶ月前に副会長に就任した元ジャーナリストが「おれだってすべてを捧げてきた」と激昂して言い返すなど、侮辱以外の何物でもない。アルテミオ・フランキ・スタジアムを囲むフェンスには、すぐに「29年間の光をたった40日間の闇で覆うことなど不可能だ」という怒りの横断幕が掲げられた。

この大口論は翌日、全国版のニュースでも繰り返し流され、イタリア中の失笑を買った。アントニョーニを崇め、開幕から一貫してテリムを支持してきたサポーターは、反チェッキ・ゴーリ、反スコンチェルティの旗色を鮮明にして抗議のムーブメントを組織し始める。

一方、邪魔者を排除した格好になったスコンチェルティは、執行副会長としてクラブの再建に本格的に着手する。最初に手をつけたのは、肝心のチームの動揺を鎮めクラブとしての方針を示すことだった。クラブ事務所に選手全員(各国代表に合流していた数人を除く)を召集する。

副会長の口からチームに説明されたのは、この“戦争”はクラブが望んだから起こったものではないこと、テリムはクラブが“解任”したのではなく自ら“辞任”したこと、今日が新生フィオレンティーナの新たなスタートの日であること、などだった。チームはもちろん、クラブへの忠誠を約束する(他にどうしようがあったというのだろうか)。

この“対話”が終わり、マスコミの前に出てきたスコンチェルティは、「新生フィオレンティーナ」の構想を熱っぽく説明するのだった。

以下が、その構想を伝えるいくつかのコメント。

「フィオレンティーナという新聞の編集長になったつもりで、有能なスタッフを集めた中枢機関を作りたい。実際の誌面を作るのは各セクションの長であり、編集長の仕事は方向性を決め決断を下すことだけだ。各セクションの長にはトップレベルの人材がほしい。もしできるなら、アリーゴ・サッキに育成部門を任せ、ゼーマンやカスタニェールにも参画してほしいくらいだ」

「家族企業や町工場と変わらない現在の体勢とは違う、きちんとした経営組織を構築する。ミランには75人も職員がいるのに、フィオレンティーナには15人しかいない。外交部長のポストを新設し、国外のクラブと提携関係を結んで選手を交換する仕組みを作りたい。

育成部門を専門に担当するテクニカルディレクターも欲しい。今シーズンで契約が切れる世界中の選手を専門にリサーチするスタッフもほしい…」

執行副会長の夢は広がるばかりだが、問題は、肝心の新監督が決まらないこと。

プロコーチの組合組織であるイタリア監督協会内部は、規則がある以上、マンチーニが1シーズンに複数のクラブと契約することは許されない、という意見で一致。

監督協会会長である元代表監督のアゼリオ・ヴィチーニは「マンチーニはまだセリエB以上のクラブを指揮するのに必要なカテゴリー1のライセンスすら持っていない(注:現在取得のためのマスターコースを受講中)。セリエAの監督に就任するためにすら特例措置が必要なのに、さらに特例を認めるなど、ルール無視も甚だしい」と強硬な立場を崩さない。

フィオレンティーナから特例措置を求められているサッカー協会技術委員会は、すぐに判断を下すことはできないとして、結論を翌週に持ち越すことを発表。体よく様子見を決め込んだ格好である(イタリアらしい展開だ)。週末のバーリ戦は、キアルージ臨時監督が采配をとることになった。

週も半ばになると、サポーターの動向も具体的に明らかになってくる。それぞれフィエーゾレ、フェロヴィーエと呼ばれるふたつのクルヴァ(ゴール裏)を占めるウルトラス(独立系グループ)の連合組織であるAtf、そして世界に320を数える公認ファンクラブの連絡会議であるチェントロ・ディ・コルディナメントが、何度か話し合いを重ねた末に出した結論は、チェッキ・ゴーリをフィオレンティーナから追い出すまで、暴力以外のあらゆる手段を使って戦い抜く、という全面戦争路線だった。

フィレンツェはチェッキ・ゴーリを見放したのだ。
Atfがマスコミに配布したマニフェストの内容(抄訳)は、以下のようなもの。

「8年間にわたるヴィットーリオ・チェッキ・ゴーリによる経営は、ACフィオレンティーナにセリエB降格を初めとする屈辱的な不成績をもたらしてきた。そして今フィオレンティーナは、ロッカールームやTV生中継での口論、役員による恥知らずのコメントといったレベルの低い出来事を通して、イタリア全国民の嘲笑の的になっている。

全テクニカル・スタッフ、そしてフィオレンティーナにとって最後の砦であったアントニョーニDGが辞任を強いられた事態を受けて、1月24日に執行副会長マリオ・スコンチェルティとの間に交わされた100日間の休戦協定は、本日をもって効力を失うことを宣告する。

次のバーリ戦以降、ヴィットーリオ・チェッキ・ゴーリがフィオレンティーナ会長を辞任するまで、2つのクルヴァに紫色の旗が掲げられることは一切ない。掲げられるのは、抗議の横断幕のみである。

ただし、チームに対する全面的な支持と応援は継続される。2つのクルヴァはこの機会を借りて、ジャンカルロ・アントニョーニがフィオレンティーナと共に過ごした29年に、心からの感謝を表する。

と同時に、彼のこの離脱は一時的なものであることを願いつつ、彼というバンディエーラ(旗印)なしのフィオレンティーナは想像することも受容することもできないことを表明するものである」

紫色は、フィオレンティーナのチームカラー。このシンボリックな抗議行動には、チェッキ・ゴーリはフィオレンティーナの紫には値しない、という意味が込められていることはいうまでもない。

フィレンツェは、チェッキ・ゴーリの前のオーナーであるポンテッロ家にも1990年に同様の戦いを挑み、勝ったという歴史を持っている。そのきっかけになったのが、当時フィオレンティーナでプレーしていたロベルト・バッジョの移籍問題だった。

バッジョのユーヴェへの移籍話が表面化した90年1月22日、市内の集会所に集まったサポーターの代表者たちは、ポンテッロ家への宣戦布告を決め、その6日後のナポリ戦でクルヴァ・フィエーゾレを空にするというストライキによって戦いの口火を切る。この戦いは、バッジョ移籍が発表された5月18日の「暴動」でピークを迎えることになった。今回の「全面的非暴力路線」はその反省に基づくものである。

フィエーゾレの最大勢力、コレッティーヴォ・アウトーノモのリーダーは、次のようにコメントしている。「我々はチェッキ・ゴーリに替わってフィオレンティーナの経営に携わる人物あるいは企業を求めている。チェッキ・ゴーリに話をなかったことにさせないためにも、その意思がある場合には公に名乗り出ることをお願いしたい。

ここではっきりさせておきたいのは、我々は巨万の富を持って大風呂敷を広げる会長を求めているわけではないということだ。フィレンツェという都市の規模、そして場合によってはその限界に見合ったプログラムであっても受け入れる用意はある。何よりも大切なのは、真剣で現実的なプログラムであること、会長の背後に健全で堅実な企業がついていることだ」。

こうして迎えたアウェイのバーリ戦。スタディオ・サン・ニコラのアウェイサポーター席には、ただ1枚「チェッキ・ゴーリ辞めろ」(Cecchi Gori vattene)という大横断幕だけが掲げられていた。ベンチで指揮を執ったのは、キアルージ臨時監督。協会の特例措置を待っているマンチーニは、スコンチェルティとともにスタンドからの観戦。

試合は、テリムの辞任に対してはっきりと遺憾の意を表明していたルイ・コスタのスーパーゴールで1-0とリードしたものの、その後すぐに同点にされてハーフタイム。後半はまったく精彩を欠き、終了間際には決勝ゴールを決められて1-2。最下位バーリに敗れて、順位は11位まで降下することになった。

週明けの月曜日(3/5)には、Atfに続いて、ファンクラブの連絡会議であるチェントロ・ディ・コルディナメントも、「今日からチェッキ・ゴーリは私たちの会長ではない」という宣言と共に、本格的な抗議行動を打ち出した。

その柱は、チェッキ・ゴーリに会長辞任を勧告する署名運動。連絡会議の事務所があるアルテミオ・フランキ・スタジアムの一角を初め、市内各地に署名簿を設置し、3万人(全市民の7.5%に相当する)の署名を集めて、市長に提出するというものだ。もちろんこれには、Atfも全面協力することになる。

完全にフィレンツェ全体を敵に回した形になった現経営陣は、8人の大量離脱で空洞化したテクニカル・スタッフの再建に着手する。

月曜日にまず、元ナポリ、インテル監督のオッタヴィオ・ビアンキのチーム部門総合責任者への就任を発表。就任記者会見でビアンキは「私はトップチームから育成部門までを含む全体の責任者であって、トップチームのベンチに座ることは絶対にない。私はもう監督業からは引退した」と、マンチーニが特例措置を得られない場合の“保険”ではないかというマスコミの勘繰りをはっきり否定した。

この前日、スコンチェルティ副会長は、「私の積極的で大胆な決断や、私が新体制構築に傾けているエネルギーが、人々を困惑させていることは知っている。しかし私はこれまで仕事をしてきたどの場所でも、大鉈を振るって状況を立て直してきた。今回もそうなることを信じている」と語り、前進し続ける決意を明らかにしている。

残る最大の問題は監督人事だった。3月7日水曜日、フィレンツェ郊外・コヴェルチャーノの協会テクニカルセンターに集まった技術委員会は、投票の結果、「現在の規則においては、今シーズン、ラツィオのテクニカルスタッフとして登録されたロベルト・マンチーニが、他のクラブに登録されることは許容されない」として、フィオレンティーナ監督就任を認める特別措置を否決する。

しかしレポートには同時に、次の一文も加えられていた。「委員会は、カルチョを取り巻く現状、さらに海外で活躍する我が国の監督が置かれた環境との適合性からも、現在の規則を見直す必要があると判断する。来シーズンからは、この見直しを経た新規則が実施されることを望む」。

これを受けて、イタリアサッカー協会の特別運営委員長であるジャンニ・ペトルッチは、超法規的措置として、フィオレンティーナ監督としてマンチーニを登録することを認めることを発表した。見直しの必要があると認められている以上、現実にそぐわない規則の遵守にこだわるよりも柔軟に対応すべき、というのがその論法である(イタリアらしい展開だ)。

イタリアサッカー協会は、昨年12月に行われた何度目かの会長選挙で、プロサッカーリーグ、セリエC、アマチュアリーグ、プロサッカー選手協会、監督協会の5団体が共に納得する新会長を選出することができず、会長不在のままになっている。

現在、6ヶ月の期限付きで協会の運営にあたっているのは、サッカー協会の上部団体であるCONI(イタリアオリンピック連盟)を初め、有識者によって組織されている特別運営委員会。その委員長であるペトルッチはCONIの会長である。つまり、日本でいえば体協の会長がサッカー協会の会長を一時的に兼任しているようなものだ。

ペトルッチが長を務める特別運営委員会が、サッカー協会会長選挙でセリエC、選手協会、監督協会のほぼ全員とアマチュアリーグの半分強、全選挙人の62.3%から支持を得ていたジャンカルロ・アベーテ元副会長の会長選出を、拒否権を行使して阻止したプロサッカーリーグ(セリエA、Bのクラブが所属)の傀儡であることは、改めていうまでもない。

懸案だった監督問題が解決し、フィオレンティーナはやっと、名実共に新たなスタートを切ることになった。マンチーニは早速、2枚の契約書にサイン。1枚目は2001年3月1日から6月30日までの4ヶ月契約。2枚目は、2001年7月1日から2002年6月30日までの1年契約。ただし後者は、クラブの側からのみ、契約が発効する前日までに解消することができることになっている。

スコンチェルティは、ジャンカルロ・デ・システィ(元監督)、ジョヴァンニ・ガッリ(元GK)といった「昔の名前」をテクニカル・スタッフに迎え入れることで、新体制の基盤を固めようと、エネルギッシュに動き回っている。

マンチーニ監督就任の報を受けたウルトラスの代表のコメントは次のようなもの。「当然、マンチーニは我々の抗議行動には何の関係もない。我々は、すでに表明した通り、チームに対しては全面的な支持と応援を、経営陣に対しては全面的な抗議行動をともに継続する。抗議行動は、チェッキ・ゴーリが会長を退くまで継続される」。

ちなみに、このコメントが発表された記者会見は、アルテミオ・フランキ・スタジアムのプレスルームで行われている。クラブと対立する勢力が、クラブが試合を行うスタジアムで会見を行うことが可能だったのは、スタジアムが市の所有・管理(この点は日本と同じ)であり、市がその使用を認めたからだ。フィレンツェ市が心情的にどちらに与しているかは明らかである。

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さて、長々とおつきあいいただいたが、“騒動”のここまでの経過は以上のようなものだ。

いまフィレンツェで起こっているのは、フィオレンティーナという「クラブ」を間に挟み、その経営陣とサポーターが対立するという不思議な構図である。

ここで注意していただきたいのは、この場合、「サポーター」は、フィレンツェという「都市」とほとんど同義であり、「クラブ」は彼らにとって共有の財産であること、そして経営陣は、単にその財産を一時的に預かって運営するだけの存在に過ぎないということだ。

経営者は変わってもクラブは残る。そしてそのクラブを支える都市も常にそこにある。選手も監督も変わり、経営者も変わる中で、変わらず残るのはクラブと都市だけだ。フィオレンティーナのサポーターにとって「ヴィオラ」(紫色)がこれほど重い意味を持つのは、まさにそれゆえである。マーケティング主導で割り当てられたお仕着せチームカラーとはわけが違うのだ。

おそらくクラブ経営者(ゼネラル・ディレクター)としては二流でしかないアントニョーニがこれほどサポーターに愛されているのも、彼らと同じように常にフィオレンティーナに忠誠を誓ってきたからに他ならない。アントニョーニは、フィレンツェ市民と同じように、一生フィレンツェという都市、フィオレンティーナというクラブに縛り付けられた存在なのだ。しかも、フィレンツェ生まれでもない彼の場合は、自ら望んで。

それを下らないセンチメンタリズムだと斬って捨てることはたやすい。ガゼッタ・デッロ・スポルトの副編集長、イル・セーコロXIX(ジェノヴァの日刊紙)の編集長、コリエーレ・デッロ・スポルトの編集長を歴任し、常にラジカルな改革主義を打ち出して多くの敵を作りながら、しかし結果を残すことで周囲を黙らせてきたスコンチェルティのような“武闘派”とは、対極にあるメンタリティであることは確かだろう。

そして今、「ビッグ7」というカルチョの先頭集団から脱落しようとしているフィオレンティーナが本当に必要としているのは、もしかするとアントニョーニではなくむしろスコンチェルティの方かもしれない。

しかしそれは、もしフィオレンティーナがこのまま「ビッグ7」の一員であり続けようとすれば、の話である。その意味で「フィレンツェという都市の規模、そして場合によってはその限界に見合ったプログラムであっても受け入れる用意はある」というウルトラスの意志表示は非常に興味深い。

背伸びをして周囲について行くこと、他のビッグクラブのように産業化して都市の日常性から遊離したバーチャルな存在になることよりも、フィオレンティーナが自分たちの身の丈に合った存在であり続けること、自分たちのアイデンティティから離れないことの方が、彼らにとっては大切なことに違いないからだ。そういう選択だって「都市」の側からすれば十分「あり」なのである。

フィレンツェvsチェッキ・ゴーリ。長期戦になることだけは間違いないこの戦いが、どんな展開と結末を迎えることになるのか、またそのうち大きな変化があれば、続編をお届けしたいと思っている。

P.S. Jリーグがスタートして8年。日本でもいくつかの「都市」と「クラブ」の間には、以前では想像もできないほどに濃密な関係が築かれつつあるように見える。しかしそれでも、例えばウラワがレッズからミツビシを追い出そうと、市民挙げての非暴力長期闘争を展開し勝利するようになるまでには、まだあと一世代くらいはかかるのだろうか。

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。