セリエAは誰1人として予想しなかったであろう大どんでん返しで幕を閉じた。ラツィオが、すでに残留を決めほとんど無抵抗のレッジーナを2-0で下したところまでは予想の範囲内だったが、アウェイとはいえ、まさかユヴェントスがペルージャ戦を落とし、プレーオフにすらならずにラツィオの逆転優勝が決まる、などというシナリオは、誰ひとり思いつかなかったに違いない。

事実、最終節を前にして、世間はすでにユーヴェの優勝を「受け入れて」いるように見えた。先週の半ばには、ミラノのある出版社が出した「愛蔵版!ユヴェントス・イタリアチャンピオン1999-2000」と銘打った写真集が早くも一部のキオスクの店頭に並んでいたし(これは結局、別の意味で「愛蔵版」となったが…)、ラツィオのウルトラス「イッリドゥチービリ」に至っては、木曜日に、先週お伝えした“疑惑のホイッスル”に抗議し、「プレーオフか、死か」という横断幕を掲げて、ローマのイタリアサッカー協会本部前で警官隊と小競り合いを繰り返していたほどだったのだ。

5月14日、日曜日。突如土砂降りの雨に見舞われたペルージャで、長い中断の後に試合が再開されるよりも一足先に、オリンピコではラツィオ-レッジーナの試合が終わっていた。

ラツィオのクラニョッティ会長はスタジアムのVIPシートにとどまったまま、観客席から飛び降りてピッチを埋めたサポーターと共に、ペルージャ-ユーヴェの成り行きを見守る。一方、エリクソン監督とチームは、ロッカールームに引きこもってTVにかじりついていた。

後半開始からわずか5分後にペルージャのDF・カローリ(彼は個人的にはユヴェンティーノである)が誰も期待していなかったゴールを決めた瞬間、オリンピコでは7万人の歓喜が爆発する。それからの45分間は、その場にいた誰にとっても永遠のように感じられたに違いない。試合終了の報が伝えられ、再びオリンピコが狂乱に包まれた時、マイクを向けられたクラニョッティ会長が最初に感謝の言葉を向けたのは、エリクソン監督だった。

「このスクデットは彼が勝ち取ったものだ。一時は、逆転の可能性を本気で信じていたのは彼だけだったのだから。

9ポイント差まで離され、一度は3ポイント差まで詰めた後、フィオレンティーナ戦のロスタイムにバティストゥータのFKで同点にされて再び5ポイント差まで開いた時には、みんな、すべてが終わったと思ったものだ。それでもただ1人勝利を信じ、チームを励まし続けたのがエリクソンだった。スヴェン(エリクソン)と選手たちに感謝したい」
 
そのスヴェン・ゴラン・エリクソン監督は、今年52歳。まだベテランともいえない年齢だが、プロコーチとしてのキャリアはすでに20年を超えている。

79年、31歳の若さでイエテボリ(スウェーデン)にカップ優勝をもたらしたのを皮切りに、82年にはスウェーデンリーグ、カップ、そしてUEFAカップの3つを制し、83年、84年とベンフィカ(ポルトガル)でリーグを2連覇、86年にはローマを率いてコッパ・イタリア、91年にはベンフィカで再びリーグ優勝、再びイタリアに戻って94年にはサンプドリアでコッパ・イタリア、さらに97年にラツィオを率いてからも、コッパ・イタリア、イタリアスーパーカップ、カップウィナーズ・カップ、欧州スーパーカップを勝ち取るなど、獲得したタイトルの数は、現役の監督としては世界でもトップクラス。

にもかかわらず、ローマを率いていた86年に、すでに降格が決まっていたレッチェとの最終戦(しかもホーム)を落としてスクデットを逃し、昨シーズンもミランに土壇場での逆転優勝を許したことから、イタリアでは「永遠の敗北者」、「決して勝てない男」といった不名誉なレッテルを貼られ続けてきた。

決して冷静さを失うことなく、選手にもマスコミにも常に紳士的で穏やかな態度で接するエリクソンは、イタリア人の目には、過剰なほどに理性的で、先頭に立ってチームを勝利に導くカリスマ性に欠けているように映ってしまうのだ。

しかし、クラニョッティ会長も認めるように、ラツィオがスクデットを勝ち取ることができた最大の功績者を挙げるとすれば、彼をおいて他にはいないだろう。

TVマネーの流入によるセリエAの“二極化”、欧州カップの再編と試合数増加などで「カルチョ新世紀元年」となった今シーズン、「セブン・シスターズ」のほとんどは、できるだけ多くのトッププレーヤーをチームに揃え、いわば「数の力」でシーズンを乗り切ろうとした。これは別のところにも書いたことだが、その基本にあるのは「チームの力は個人の力の総和で決まる」という思想である。

だが、今シーズンの結果が明らかにしたのは、この思想を現実レベルで機能させることは決して簡単なことではない、ということだ。代表クラスの選手を20人以上抱えている以上、その全員が満足できる選手起用はありえない。結果が出ているときは、誰も文句を言うことはできないが、問題は結果がついてこなくなったときである。

シーズンが深まり、1試合1試合の結果がチームの運命を左右する状況になった時には、戦術や技術以上に、集団としての結束や精神的な強さが問われるものだ。インテル、パルマ、ミラン、ローマといったチームは、決定的な場面で一旦躓いたあと、それを跳ね返すことができずにずるずると後退していった。その時期には、必ずといっていいほどチーム内の不協和音が伝わってきたものだ。

その点からいえば、ラツィオと共にシーズンを通して最も安定した戦いぶりを見せたのが、ビッグ7の中で唯一、「組織の力は個人の力の総和を上回る」という思想に立った少数精鋭主義を貫き、実質的にわずか14-15人を使い回しながら戦ったユヴェントスだったという事実は示唆的である。

スクデットにこそ手が届かなかったものの、94/95シーズンに3ポイント制が導入されて以来、優勝ラインといわれた70ポイントの壁を、2位のチームとしては初めて突破したという事実(ラツィオ72ポイント、ユーヴェ71ポイント)から見ても、ユーヴェの健闘は賞賛されて然るべきものだろう。
  
チーム内の不協和音に悩まされたという点では、実はラツィオも同じだった。エリクソン監督は開幕から、1試合ごとに5-6人、多いときには8人の選手を入れ替えるという、過去には例のないほど極端なターンオーバー制を敷き、戦力の消耗(と選手の不満)を抑えながら毎週2試合のハードスケジュールを戦い抜くという大胆な策を採った。

しかし、シーズンが深まるに連れて、出場機会が少ない一部の選手(アルメイダ、サラス、ボクシッチ、コウト、マンチーニなど)が不満を表に出し始める。

中盤両サイドに陣取るコンセイソン、ネドヴェドの攻撃力を生かし、なおかつヴェロンの守備の負担を減らすためにあえて踏み切った、4-4-2から4-5-1へのシステム変更も、ポストの減ったFW陣から不興を買うことになった。ちょうど、ラツィオがヴェローナに敗れて首位のユーヴェに9ポイント差をつけられたのがこの頃である。

普通のチームならばそのまま空中分解してもおかしくないこの危機を乗り切ったことが、ラツィオが最後の最後でスクデットを勝ち取った最大の要因といってもいいかもしれない。エリクソン監督は、選手たちの不満に妥協するどころか、逆にターンオーバー制に見切りをつけ、メンバーを固定して戦うという選択でこの状況に応えた。

サンプドリア時代から「ピッチ上の監督」として全幅の信頼を寄せてきたとはいえ、衰えが隠せなくなったことで逆に扱いが難しくなったマンチーニを、テクニカルスタッフ兼任に格上げして観客席に送る、という荒療治までやってのけたのだ。

そして、クラニョッティ会長のコメントにもあるとおり、誰の目にもスクデットが絶望と見えたときにもそのわずかな可能性を信じ続け、チームのテンションを高く保ち続けたのも彼、エリクソンだった。

リッピやカペッロのように強面で選手に服従を要求することもなければ、アンチェロッティやマレサーニのように選手との仲間意識を育もうとすることもない。あくまでも理性的にかつ淡々と、しかし必要ならば柔軟に状況に対応して、しかも決して一貫性を損なうことなく、その時々において自らの信じる最善策を採り続け、チームを最後までひとつのグループとして保ち続けたそのチーム・マネジメントの手腕は特筆に値する。

―と、毎年同じような話を書いているような気もするが、監督という仕事にとって、いかにチームの結束を保ち、モティベートしていくかというのは、長いシーズンを戦う上で、戦術と同じかそれ以上に重要な側面なのだ(そうですよね、湯浅さん)。

もちろん、ラツィオの勝因はエリクソン監督のチーム・マネジメントだけにあったわけではない。戦術的に見ても、今シーズンのラツィオのサッカーには注目すべき点が少なくないし、かつてはシステマティックな4-4-2プレッシングサッカーの世界的先駆者だったエリクソン監督自身の変化も興味深いものだ。

ここから具体的な分析に入りたいところなのだが、残念ながら紙幅が尽きてしまった。最近はこのパターンが極度に多くて申し訳ないのだが、続きはまた改めて、ということでお許しいただきたい。お楽しみに。

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。