この1-2年、イタリアサッカー界には「ディフェンス主義」のメンタリティが戻って来つつあり、かつてのようにボールポゼッションを前提とした攻撃的なサッカーは見られなくなってしまった、というのが前回の話だった。

それでは、何がその原因なのか、というのが今回のテーマである。前回に続いて、今週もサッキ、ゼーマンを初めとするエキスパートたちの意見をご紹介しながら見ていきたい。
 
「カルチョはビジネスの場になってしまった。それを支配しているのは、スポーツの論理とは全く異なるビジネスの論理だ。過大な投資とそれをめぐる利害の大きさによって、今や誰も敗北を受け入れることができなくなっている。大事なのは結果だけであり、そこに至るプロセスはまったく問われない。

多くの参加者の中で勝利を得ることができるのはただひとりであり、敗北は敗北として受け入れるべき、というスポーツの論理が復活しない限り、審判やサッカー界の仕組みに対する批判や抗議が収まることは決してないだろう。

自己の失敗を省みず、どんなサッカーをしているかを棚に上げて責任転嫁の相手を探そうとしている人々にとって、審判の判定はあまりにも都合のいい逃げ道なのだから」(ズデネク・ゼーマン)

「最近のサッカー界が極度の緊張と神経質さ、忍耐力の欠如、暴力性に支配されているのは、誰も敗北を受け入れることができないからだ。

クラブを取り巻く様々なプレッシャーや過剰なまでに過密な日程のために、監督はプログラムに基づいてチームを作り上げることすらできないまま、すぐに結果を求められる。それに答えるために選び得る戦術的選択肢はそう多くはない。必然的に、すぐにチームに適用できる単純なものでなければならないからだ。

そこで復活してきたのが、まず守備を固めて失点を防ごう、という我々のDNAに刷り込まれた思想だ。攻撃的なサッカーを完成させるためには、明確な戦術思想、そして絶え間ないトレーニングを通してそれを実現する時間と忍耐力が必要とされる。イタリアの監督たちは優秀であり、思想には事欠かない。しかし、それを実現するための時間と忍耐力は、もはや誰も与えてはくれない」(アッリーゴ・サッキ)

「カルチョを取り巻くビジネスの大きさは、もはや誰にも敗北を許さないところまで来ている。頂点に立つことは義務といっていいほど大切なことであり、クラブは監督にすぐに結果を出すことを求めるため、長期的なプログラムを立てることはもはや不可能だ。

我々監督が、選手たちをひとつのグループとしてまとめ上げ、正しいメンタリティを与え、継続性のあるチームを構築することは、年々難しくなっている。現在の監督に求められるのは、何よりもまず現実的な即効性だ」(マルチェッロ・リッピ)

つい数日前、チーム(とくにビッグクラブの)を取り巻く緊張と神経質さがどれだけのものかを実際に目の当たりにする機会があった。某誌の取材スタッフの一員(通訳)としてトリゴリアにあるローマの練習場を訪れた時のことだ。

広報担当のスタッフが雑談の中で話してくれたマスコミ対応の仕組みは以下のようなものだった。原則として練習は非公開。取材陣は毎日15-20分間だけ、クラブハウスのテラス(ピッチから100m近く離れている)にひとかたまりで誘導され、そこから練習風景を眺めることができる。

選手に直接取材する唯一の機会である練習後の記者会見は、1日ひとりが出席するだけで、誰が出るかを最終的に決めるのは広報責任者。この2つ以外に、マスコミの取材機会は事実上皆無である。

かつては、駐車場の出口で待っていれば、練習を終えて帰途につく選手が、車を止めて(時には車から降りて)取材に応えてくれるのがビッグクラブでも普通だった。しかし、今ではそういうこともまったくと言っていいほどない(これはラツィオなど他のビッグクラブでも同じ)という。毎日練習場に詰めている記者ですら、選手と話すことはもちろん、練習している姿を見ることすら簡単ではないのだ。

ローマは今シーズン、ビッグ3(ユーヴェ、ミラン、インテル)やラツィオ、パルマに匹敵するほどの投資でチームを強化し、スクデットを狙うと宣言して開幕に臨んだ。国内外のマスコミの関心を高め、欧州トップレベルのビッグクラブとして生き残っていくための必然的な選択である。

しかしそうして獲得したマスコミの関心は、厳重な報道管制でそれをコントロールしなければ対応できないほどに大きくなっていく。最近のように、チームの成績が思わしくない時には、マスコミの(そしてサポーターの)プレッシャーはますます大きくなり、対応する側もさらにナーヴァスにならざるを得ない。こうして、クラブを取り巻くすべての状況が「敗北を許さない」方向に向けて膨らんで行くのである。
 
もちろん、セリエAのすべてのクラブが、これだけ厳重な報道管制を敷いているわけではない。実際、取材をお手伝いしたJ’s Voiceでもおなじみの後藤健生氏によれば、前日訪れたレッジーナでは文字通り諸手を挙げての歓迎ぶりで、何から何まで見せてくれた上に、会長から監督、選手まで、誰にでも好きなだけ話を聞くことができたということだった。

これは、ローマのようなビッグクラブにマスコミの関心が集中する一方で、レッジーナのような弱小クラブに向けられるそれがどんどん小さくなっていることのひとつの証左だろう(もちろん、この歓迎ぶりの背景には、チームがこのところ好調でA残留をほぼ確実にしていることもあるのだろうが)。
 
さて、前回取り上げたように、サッキ、ゼーマン、ヴァルダーノなどの「攻撃サッカー主義者」は、イタリアに戻りつつある守備的なメンタリティを強く批判している。しかし、実際に「現場」に立っている監督の立場がそれとは異なることも、また事実である。

「イタリアで最も広まっているシステムは7-1-2だ、という意見もあるが(訳注:これはゼーマンを指している)、これは明らかに誇張だ。事実、ビッグクラブはもちろん、中小クラブにも、2トップに加えて攻撃的MFをトップ下に配しているチームは少なくない。

一時はその存在すら忘れられていたポジションだ。ジダン、ルイ・コスタ、ヴェロン、オニール、シードルフといった選手は、このポジションでは世界でもトップレベル。トップ下を置かない代わりに3トップを敷いているチームもある。

そして、攻撃の局面がこの3人だけに委ねられているわけでもない。攻守双方の能力を備えたアウトサイドのMFがしばしば組み立てに参加するからだ。そうなると、残る中盤センターには、ディフェンシヴな選手をふたり置いてバランスを取るのは必然だろう。

もちろん、ここにも攻撃の才能を持つ選手を置ければ理想的なのだが、勝利を得るという目的を現実的に考えれば、断念しなければならないこともある。しかし、2トップ+トップ下、2人のアウトサイドと5人を攻撃に費やすサッカーが、本当に古くさく守備的だといえるのだろうか?」(マルチェッロ・リッピ)

しかし、この反論が説得力を欠くのは、「攻撃に何人割くか」という議論に終始しているためである。リッピ自身もこの後「サッキのミランや私のユーヴェのように、高い位置からプレスをかけ、常にゲームを支配し続けようというサッカーをするのは難しくなっている。

攻撃的なメンタリティという点では、以前と比べてやや消極的になっている」と認めている。実際、今シーズンのインテルは、自らの理想のサッカーと立場上求められる「現実的な即効性」の狭間で苦悩するリッピの現状を見事に反映しているようにも見える。

「敗北を受け入れられない」状況の中で、敗北に対する恐怖が膨らみ、サッカーがより消極的に、守備的に、安全志向になっていく―。おそらくこれが、現在のイタリアサッカー界(とりわけビッグクラブ)の現場を取り巻く「空気」なのである。
 
今週、ペルージャのガウッチ会長が所有するもうひとつのクラブ、ヴィテルベーゼ(セリエC1/B)の今シーズン4人目(!)の監督に就任したマウリツィオ・ヴィシディは、以前こう語ってくれたことがある。

「6つ、7つものチームがスクデットを目指してシーズンに臨む、というのは今までにはなかったことだ。でも、狙うチームがどんなに増えても、勝てるのは1チームだけというのは変わらない。優勝できなければシーズンは失敗、という考え方で監督やチームを評価するのは、その意味であまりに非建設的だし、間違っていると思う。

結果がすべて、という発想が、より安全で守備的なサッカーを志向させているのだろうが、その結果、試合からスペクタクルがどんどん失われていることも事実だ。長い目で見ると、観客を楽しませるいいサッカーを見せることができなければ、結局ファンは離れていってしまうのではないだろうか。

ひとりの監督として、それが実現できる時間と環境が失われつつあることは非常に残念だし、イタリアサッカーの将来を考えても、これは決してポジティヴなことではないと思うのだけれど…」

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。