1月30日にローマのスタディオ・オリンピコで行われたセリエA第19節・ラツィオ―バーリ。スタジアムが最も盛り上がる選手入場の瞬間、ラツィオのサポーターが陣取るクルヴァ・ノルド(北側ゴール裏スタンド)に、縦1.5m、横20mという巨大な横断幕が掲げられる。そこには「ONORE ALLA TIGRE ALKAN(虎・アルカンに栄誉あれ)」という一文が大書されていた。
アルカン?もちろんラツィオにはそんな名前の選手はいない。過去にもいなかった。それではこの横断幕は、いったい誰に捧げられたものだったのだろうか?
アルカン。本名はゼリコ・ラズナトヴィッチ。名前からもわかるようにセルビア人である彼は、ユーゴ内戦とそれに続くボスニア、コソヴォの紛争で、ミロセヴィッチ政権下の「特殊部隊」のリーダーとして、「民族浄化」の先頭に立った人物である。
内戦で最も悲惨な出来事のひとつといわれるヴコヴァル(クロアチア)の大量虐殺も、コソヴォでのアルバニア人虐殺も、彼が率いる部隊が実行したものだった。コソヴォ紛争終結後もセルビア国内に半ば公然と潜伏していたが、さる1月15日、ベオグラードのホテルで何者かに暗殺されたばかり。
信じ難いことかもしれないが、ラツィオ側のゴール裏にひるがえったこの横断幕は、ヨーロッパ中を震撼させた大量虐殺者の死を追悼し、連帯の意思を表明するために掲げられたものだったということになる。
ラツィオ・ウルトラスの中で最大勢力を誇るグループ「イッリドゥチービリ」は、イタリアで最も過激な「武闘派」のひとつであり、相手チームのウルトラスや警官隊との衝突は枚挙にいとまがない。
政治的にもはっきりと極右(ネオ・ファシズム)を標榜しており、以前から、ゴール裏にはケルト十字(○と+を組み合わせた図柄)やムッソリーニの肖像など、ネオ・ファシズムのシンボルが踊ることも少なくなかった。
ネオ・ナチズム、ネオ・ファシズムなどヨーロッパの極右勢力に共通しているのは、反ユダヤ主義、移民排斥など明らかな人種差別と一体になった排他的民族主義(ハイダー党首率いるオーストリア自由党の政権参加がEUを揺るがす問題となっているのもそのためである)。
その点において、ミロセヴィッチ政権が掲げた「セルビア民族主義」も、旧来的な区分で見れば「左翼」であっても、本質的には同根といっていいかもしれない。
さらにもうひとつ重大な事実がある。実をいうとアルカンは、単なる狂信的なセルビア民族主義者ではなかった。「民族浄化」という「政治活動」に身を転じる以前、彼は全ヨーロッパで最も暴力的なことで知られるレッドスター・ベオグラードのサポーター・グループ「デリエ」の伝説的なリーダーだったのだ。
読者の皆さんならご存じの通り、旧ユーゴ時代、80年代末から90年代初頭にかけてのレッドスターは、ユーゴヴィッチ、プロシネツキ、ミハイロヴィッチ、パンチェフ、サヴィチェヴィッチなど、セルビア、クロアチア、モンテネグロのトッププレーヤーを擁する欧州最強チームのひとつだった(90-91シーズンにはチャンピオンズ・カップを制して翌年のトヨタカップにも来日している)。
当時のレッドスターが対戦相手から怖れられたのは、チームが強かったからだけではない。ホームではもちろん、チームに帯同してアウェイにも遠征する「デリエ」が、ありとあらゆる暴力・破壊行為をヨーロッパ中で働いていたのだ。
その先頭に立っていたのがアルカンである。そして内戦が始まると、「デリエ」の多くのメンバーはアルカンに従い、「特殊部隊」の戦士として「民族浄化」の先兵となった…。
ちなみに、当時レッドスターでプレーしていた選手の何人かは、今でもアルカン支持を隠していない。ラツィオのシニーサ・ミハイロヴィッチもそのひとりである。アルカンとの交遊を公然と認め(「スポーツの世界ではアルカンは“清潔”で偉大な人物だった。
それ以外の横顔には興味がないし、自分には関係ない」)、彼がベオグラードで暗殺された直後には、ユーゴの新聞にサヴィチェヴィッチと連名で追悼の辞を掲載しているほど。
「イッリドゥチービリ」のある幹部は、横断幕事件後、イタリアの全国紙、La Repubblicaのインタビューに答えて「戦士としてのアルカンには興味がないし、あの献辞にも関係はない。アルカンはレッドスターの偉大なウルトラであり、我々の友人であるミハイロヴィッチと親交があった。今回の献辞はウルトラとしてのアルカンを讃え、追悼するものであって、それ以外の意味はない」と語っている。
その真偽は想像する以外にないが、彼らが礼賛する「ウルトラとしてのアルカン」自体、サポーターの名を借りた無軌道な暴力の権化のような存在であったことは、ここで改めて強調しておくべきだろう。
さて、イタリアの刑法において人種差別は、実際の行動はもちろん、公にそれを表明しただけでも人道上の犯罪となる。公の場でハーケンクロイツやケルト十字を掲げることはもちろん、ナチスやファシズムを礼賛するだけでも立件の対象となりうるのだ。
ラツィオに限らず、イタリアの多くのウルトラス・グループは地下で活動する極右勢力と密接な関係を持っている(文末の注参照)。これまでもしばしば旗や横断幕を掲げたり、黒人選手に人種差別的コールを浴びせるなどして、多くのスタジアムが極右の「政治的マニフェスト」(もちろん非合法)の舞台となってきた。
当然、当局はそのたびに介入しようとするのだが、なにしろ警官隊との武力衝突も辞さない(どころかその機会を待ちかまえている)ウルトラスが数百人、数千人単位で密集し、試合の間中ほとんど「無法地帯」と化すのが多くのゴール裏の実態である。
おまけに、イタリアのスタジアムはイングランドなどと比べてセキュリティ面では著しく遅れており、警備用のTVカメラが設置されているところの方が少ないくらい。入り口でのチェックもかなりずさんである。
当局が「実行犯」を特定するのはほとんど不可能といってよく、これまでは、サッカー協会の規律委員会がクラブに罰金を課すだけで、事実上野放しに近い状態。毎週のようにどこかのスタジアムにハーケンクロイツやケルト十字がひるがえるというのが実情だった。
しかし、この程度(?)ならまだしも、民族浄化の実行犯を公然と礼賛する横断幕が張り出されるところまでエスカレートしては、これ以上黙って見過ごしておくわけにはいかない。
当日夜のTVニュース、翌日の新聞はこの問題を大々的に取り上げ、ラツィオのクラニョッティ会長は「ああいう行為をする人間がラツィオのサポーターを自称することは許せない。これが計画的な政治行動なら、私はラツィオから手を引く」と息巻いた。
さらに翌日、ビアンコ内務大臣とメランドリ文化・スポーツ大臣が連名で、スタジアムに暴力行為・人種差別行為を支持または象徴する旗や横断幕が「出現」した場合には、警備責任者(国防省警察官)が審判団に通知し、直ちに試合を中断させる、という緊急措置案を発表する。
サッカー界も世論も賛否両論に分かれたが、イタリアサッカー協会、イタリアサッカーリーグは即座にその受け入れを表明、最終的には、中断後45分が経過しても警備責任者が試合再開を支持できる状態にない場合、つまり旗や横断幕が撤収されない場合には、審判が試合の没収を宣告、試合結果はピッチの上での経過にかかわらず0-2(サポーターが違法行為を犯したチームの敗戦)とされることが決まった。
この緊急措置は、翌週、2月5-6日の第20節から即座に適用された。この日は、初回とあってスタジアム入り口でのボディチェックもことのほか厳しかったが、問題になるような旗や横断幕を持ち込もうとする動きはほとんど皆無。
トリノのサポーターなどは、前週の「ONORE ALLA TIGRE ARKAN」をもじって「ONORE A GATTO SILVESTRO(猫のシルヴェスターに栄誉あれ)」というアイロニーに満ちた横断幕でデッレ・アルピに「問題の」ラツィアーリを迎えている(シルヴェスターはもちろんディズニー・キャラクターのあの猫)。
このエピソードはまあご愛嬌としても、とりあえずのところ、この緊急措置は効果を上げたといえるだろう。しかしもちろん、問題の根本がまったく手つかずのまま残っていることもまた事実。
ウルトラスの集団的な暴力性は、高い若年層の失業率、拡大する貧富の差、急増する移民の流入など、彼らが生きる社会の病巣と深くかかわっており、極右勢力との結びつきの根もまたそこにあるからだ(この話は始めるとややこしくなるので、また別の機会に)。
遠い日本からTVの画面を通して見たときには、ややもすると華やかで「かっこいい」世界に見えるイタリアのゴール裏も、その背後には、社会の歪みの底から湧き出す無軌道な暴力という大きな闇を抱え込んでいるのである。
注)60年代後半から80年代初頭まで、イタリアのゴール裏は、トリノ、ミラン、ジェノア、ボローニャ、ローマが「赤」(左翼)、ユヴェントス、インテル、サンプドリア、ヴェローナ、ラツィオが「黒」(右翼)と、はっきりと色分けされていた。
しかし「イデオロギーの時代」が終焉を迎えた80年代以降、こうした区分はほとんど消え去り、サポーター・グループ同士の友好関係にも大きな変化が起こった(95年1月にジェノアのサポーターがミランのサポーターとの諍いで刺殺された事件はそれを象徴している)。
近年はどのゴール裏でも極右勢力の台頭が著しく、伝統的に左翼系とされてきたゴール裏でも、「黒い」グループが支配力を増しているのが実情。ラツィオのライバル、ローマのサポーターが陣取るオリンピコのクルヴァ・スッド(南側ゴール裏)でもフォルツァ・ヌォーヴァというネオ・ナチ系のグループが急速に勢力を拡大中である。