セリエA、Bの審判プロ化問題を引き続き取り上げよう。前回は、ボッジ(元)主審が辞任した背景には、プロ化に伴う根本的な問題を巡る対立があった、というところまでだった。
ではその「根本的な問題」とは一体何なのか。それは、サッカーにとって最も基本的な前提である“審判の独立性と中立性”である。プロ化に向けて導入されようとしている「プログラム」は、それを骨抜きにしかねない要素を含んでいるのだ。
実のところ、「プログラム」の策定にあたって全面的な主導権を取ったのは、イタリアサッカー協会の審判部門ではなく、日本でいえばJリーグにあたる、イタリアプロサッカーリーグ(以下リーグと略記)だった。
一方、本来ならこの件に関して全面的な権限を持つべきサッカー協会(ニッツォーラ会長、ゴネッラ審判部長)は、 リーグの動きを黙認し静観した上に、出てきた案をほとんどそのまま受け入れるという不思議な態度を取ったのだ。
リーグは、建前上はイタリアサッカー協会傘下に属しているが、その構成員はセリエA、Bに所属する38クラブの役員。つまり、Jリーグとは異なり、クラブ側の利益を代表し協会と対立する立場にある組織である。
しかも、その内部を牛耳っているのは、ユヴェントス、ミランをはじめとする一握りのビッグクラブ。そういう組織のイニシアティブで審判のプロ化を進めるということは、いってみれば「裁かれる側」(クラブ)が「裁く側」(審判)のあり方を思い通りに左右するということに他ならない。
それだけならまだしも、「プログラム」の原案では、プロ化の大前提である審判報酬の増額分すべて(数100億リラに上る)を リーグが(進んで)負担するいうことにさえなっていた。
そうなれば、事実上、ビッグクラブが審判を雇っているのと変わらなくなり、審判の独立性や中立性など確保のしようがなくなってしまう。これはどう考えても正常な状態ではない(リーグの本当の狙いはむしろそこにあったようにも見えるが…)。
にもかかわらず、サッカー協会側がこれを受け入れざるを得なかった背景には、レフェリングの質向上という視点からはプロ化に傾きつつも、報酬の増額分をカバーする財源確保の見込みがまったく立たないというサッカー協会側の事情がある。
それを負担しましょうというリーグの提案は、ある意味では協会にとっても渡りに船だったというわけだ(非常に危険な船ではあるが…)。「カルチョのビジネス化」の進展は、セリエAのビッグクラブに、サッカー協会をも上回る経済力(=発言力、影響力)をもたらすところまで来ているのだ。
事実、リーグはサッカー協会審判部の人事にさえ介入している。
昨シーズンの開始前、「審判の指名に特定の人物の恣意が介入するのはおかしい」として、リーグが導入を強く求めた審判の完全抽選制が失敗に終わり(経験の少ない審判がビッグゲームを担当し判定ミスを犯すケースが相次いだ)、指名制と抽選制の折衷案を採ることになった今シーズン、サッカー協会のニッツォーラ会長が指名責任者に就けようとしていたのは、ピエルルイジ・パイレットだった。
ラツィオ、ローマ、フィオレンティーナといったクラブはこの人事を支持したものの、リーグ内で強い発言力を持つユーヴェ、ミランが反発。それを受けたリーグのカラーロ会長はこの両チームが推すパオロ・ベルガモの就任を求める。
この綱引きの行方には大きな注目が集まったが、結局、指名責任者二人制という、前代未聞ながら極度にイタリア的な解決方法が採られることになった。これでどのビッグクラブも、自分の息がかかった人物が指名責任者になっているという「安心感」を持つことができるようになったことは確かだろうが…。
ボッジ(元)主審が辞任という手段にまで訴えて抗議したのも、まさに、リーグの介入によるプロ化を通して、審判の独立性、中立性が蹂躙されようとしていることに対してだった。彼は辞任の1週間後、ゴネッラ審判部長に宛てて書いた手紙(こういうものが表に出てくるところがイタリアなのだが)の中で、要約すると次のような主張を展開している。
◆プロ化に向けて提示された「プログラム」は、本来この問題を扱うべきではない組織(注: リーグのこと)の主導で計画され、一方的なやり方で強制されたもの。プロ化に伴うメリット、デメリットが十分に検討された結果には見えないし、そもそも決定までの経過そのものが不透明。
◆プロ化に伴う拘束時間の増加で、レフェリングの技術ではなく、この活動のためにどれだけ時間を割けるかで審判の評価が決まる(このことはベルガモ氏が明言している)という不可解な事態が生まれている。これがレフェリングの質向上に寄与するとは思えない。むしろ逆だろう。
◆プロ化は、審判の世界に対する「経済的要因」(注:報酬)の影響力を強め、結果として、この要因を左右する立場にある「強い権力」(注: リーグ=ビッグクラブのこと)に審判が従属させられる恐れがある。
中立的な立場にある審判が、良心にもとづいた判断の結果としてミスを犯す「自由」があるというのは、サッカーの大前提。「プログラム」に示されたプロ化への道は、審判の中立性・独立性を崩し、第三者の意志による「方向づけ」を介在させることにつながりかねない。
◆このように危険な内容を含む「プログラム」に、1人の審判として同意することはできない以上、辞任を選ぶしかなかった。
まさに正論としか言いようのないこの主張は、ごり押ししてまで「プログラム」を実現しようとするリーグ、それに対して何の対抗策も取れないサッカー協会の双方を、大きな窮地に陥れることになった。
特に、審判報酬の増額分をリーグがカバーする、という案はマスコミでも大きな問題になり、サッカー協会のニッツォーラ会長は「リーグの助けを借りるつもりなど初めからなかった」と大見得を切らなければならなくなった。こうなってはリーグも、いくら金を出したくとも出すわけには行かない。
とはいえ、協会もない袖は振れない。結局、審判報酬の改善は、協会の予算年度が変わる来年1月まで据え置きということになった。おそらく改善の幅も、当初案から大幅に縮小されざるを得ないだろう。
しかし、このような紆余曲折を経つつも、開幕までの間に、審判の間からボッジに続く反逆者/脱落者(視点によって異なる)は出なかった。「プログラム」の目玉である毎週木曜からの合宿制は、予定通り開幕から実施されている。
審判にとっては収入増どころか、逆に減収になっているのだから皮肉な話ではあるが、それも一時的なこと。審判としてのキャリアを断念するよりは、来年からの報酬増を選ぶ、というのが、一時はボッジに同調しかけた一部の審判たちの最終的な決断のようである。
「これは厳密に言えばプロ化ではない。レフェリングの質向上のために、審判が準備とコンディショニングにより多くの時間を割くのは必然的な流れ。それに対して報酬が増えるのも当然のことで、これはフルタイムのプロフェッショニズムとは区別して考えるべきだ」というのが、指名責任者の1人、パイレットの最近のコメント。
「プロ化」という看板を下ろし、世間を刺激しないようにしつつも、「プログラム」はこのまま推進していくというのが、審判部の意向だろう。
しかし、リーグが経済的な「影響力」を行使することは当面できなくなったとはいえ、審判の独立性と中立性が骨抜きにされる可能性は残されたままだということも、忘れるわけにはいかない。今後の成り行きを見守りたい。