6月5日、イタリアスポーツ界を震撼させる出来事が起こった。自転車ロードレース界のスーパースター、マルコ・パンターニが、ジーロ・ディターリア(ツール・ド・フランスに次ぐ伝統と人気を誇るイタリア一周ステージレース)の2年連続優勝を目前にして、抜き打ちの血液検査に引っかかり(血球濃度が規定値の上限である50%を超えていた)、ドクターストップ(=15日間の出場停止処分)を受けて途中棄権に追い込まれたのである。

パンターニは、体重58kg、身長は170cmにも満たない軽量級の山岳スペシャリスト。アスリート・タイプのオールラウンダーが幅を利かす近年の自転車ロードレース界では、長丁場のステージレースで優勝を争うことができる唯一の「クライマー」である。

レースの大半を占める平地のステージやタイムトライアルでは圧倒的な不利に立ちながら、最も厳しい山岳ステージで驚異的なアタックを繰り返し、それまでのハンデを一気にひっくり返してしまうという、胸のすくようなレースを見せる。

昨年は、この「ジーロ」を制したばかりか、ツール・ド・フランスでも、得意の山岳ステージで優勝候補のヤン・ウルリッヒ(ドイツ)を葬り去り、劇的な優勝を勝ち取っている。今年の「ジーロ」も、圧倒的な強さでイタリア・アルプスを制圧してトップに立ち、ミラノのゴールまであと2日を残すだけだった。

ドーピング問題で大荒れに荒れた昨年のツール・ド・フランスで生き残って「クリーンな」チャンピオンとしてのイメージを確立し、国民的ヒーローとなった彼にまで薬物使用疑惑が及んだことは、信用を取り戻しつつあった自転車レース界に、はかりしれない打撃を与えている。

しかし、これは決して、自転車レースの世界だけの問題ではない。この事件は、スポーツの世界にどれだけ深く薬物(合法、非合法にかかわらず)による「トリートメント」が浸透しているかを、改めて浮き彫りにしつつあるからだ。

突然サッカーではなく自転車レースの話題から始まったことで、不審に思う読者もおられるかもしれないが、この薬物使用疑惑、サッカー界には何の関係もないと断言することは、今のところ誰にもできない。

読者の皆さんもご記憶の通り、昨年8月、ローマのゼーマン監督(当時)は「サッカーの世界から薬剤師を追放するべきだ」と語り、この発言はその後半年に渡ってサッカー界を騒がせた「ドーピング疑惑」の引き金となった(詳細は本連載のvol.28を参照)。

これをきっかけとして着手されたトリノ検察庁・グァリニエッロ検事の捜査は、開始から1年近く経過した現在もまだ続いており、問題の大きさと深刻さを窺わせている。その焦点となっているいくつかの薬物は、まさに自転車レース界で問題になっているそれと同じものなのだ。
 
パンターニが引っかかったのは、EPO(エリトロポイエチン:体液性造血因子=赤血球の生成を促進するホルモン)の使用をコントロールするために、血液中の血球濃度を計測する検査。

成人男性の血球濃度は通常42-3%で、50%というのは、2000m以上の高地で1ヶ月以上生活するか、極度の脱水症状に陥らない限り出ない値なのだが、一定量のEPOを皮下注射あるいは静脈注射すれば、到達は容易である。赤血球が増えればそれだけ血液の酸素運搬量も増えるため、疲労しにくくなり持久力も高まる。体力の極限で勝負する自転車レースにおいて、これは結果を左右する決定的な要因にすらなり得るのである。

問題は、現在の検査技術ではEPOそのものを検出できないこと。検出できない以上、EPOを禁止薬物に指定することも不可能で、したがって血球濃度が「非常識な」値にあっても、「ドーピング」と断定して処罰することはできない。

IOCでは、血球濃度が50%を超えると、血液の粘性が高まって梗塞症、血栓症を誘発する危険が生じるとして、選手の健康を守るという名目でドクターストップ(=15日の出場停止処分)をかけるという苦肉の策で対応しているのが現状である。

その結果、自転車レースの世界では、選手やチームが血球濃度の検査機器(簡単な遠心分離器)を常時携帯するという事態が日常化している。これが、EPOの投与をコントロールして、血球濃度を50%ぎりぎりに保つためであることは、99.9%明白だ。

なにしろパンターニのチーム、メルカトーネ・ウーノが「前日の夜に検査したときには、彼の血球濃度は“規定内”(47%)に収まっていた」として、検査の精度を疑う苦し紛れのコメントを発表しているほどなのだから。

サッカー界でここまで周到な「トリートメント」が行われているかどうかはわからない。個人的な印象では、おそらくこれほどではないだろうとも思う。しかし、例えば昨年7月、プレシーズンのトレーニング開始を前に、パルマの選手全員を対象に行われた血液検査では、24名中4名の血球濃度が50%を超えており、残る大半の選手も、これに近い値だったという事実がある。

当時、’96年7月から’97年12月までパルマに在籍したフランス人、ダニエル・ブラーヴォ(現O.マルセイユ)は「パルマでは先発メンバー全員に、試合前、ビタミン剤だという注射が打たれていた。(…)私はいままで6つのクラブでプレーしたが、こんなことをしたのはパルマだけだ。問題は、注射の中身が我々には全くわからなかったということだ」と、『フランス・ソワール』誌のインタビューに答えている。

また、「ドーピング疑惑」が持ち上がった後、政府の強い要請で行われたCONIとプロサッカー選手組合の話し合いで、選手組合は、抜き打ちの血液検査(もちろん血球濃度検査である)の実施を受け入れはしたものの、1) 血球濃度が50%を超えていることが確認された場合にも、その選手名はクラブのドクター以外の何人にも決して公開してはならない、2) クラブドクターは、自らの責任において、選手の血液が正常に戻るまで出場を停止することとする―という2つの保留条項を認めさせた。

これが、表には何も出すことなく、すべてを「水面下」で処理するための条件であることは明らかである。パンターニの一件同様、サッカー界でも「不慮のミス」ひとつで50%を超えてしまう可能性を常に内包していることを疑わせるには十分なエピソードではないか?

自転車レース界では、EPO以外にも、興奮剤系(血流を高め、脂肪の燃焼を促進するほか、疲労の知覚を鈍らせる)、ホルモン系(成長ホルモン、副腎皮質刺激ホルモン、男性ホルモン生成促進剤など。多くは筋肉増強剤)などの禁止薬物が半ば公然と流通しており、その多くは、ドーピング検査の網を逃れるマスキング用の薬物と併用されているといわれる(パンターニの名誉のために付け加えるが、彼にこの種の禁止薬物に関する疑惑がかけられたことは全くない)。

これらのうちいくつかは、サッカー界のドーピングにターゲットを絞ったグァリニエッロ検事の捜査リストの中にも入っているようである。
 
「疑惑」は「確証」がないかぎりあくまで「疑惑」でしかない。しかし少なくとも、サッカーの世界にも「薬剤師」たちの手が伸びていることは、もはや否定できない事実である。そして、そうである以上「疑惑」は徹底的に解明されなければならない。たとえそれがどんなにサッカー界にとって「不都合」なものであるとしても…。 

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。