あけましておめでとうございます。と言ってももう1月も半分が過ぎてしまいました。このアーカイブも停滞しっぱなしですが、今後は週2、3回は更新しようと思います。毎回、何かしらの脈絡をつけたいと思って記事を選んでいて、それが面倒になっていたので、今後は何の脈絡もなく目に付いたものをアップするという方針で行くことにします。

というわけで、新年最初はもう過去の人となってしまったロベルト・バッジョさんについて。2000年夏にインテルとの契約満了を迎えた後、次のチームが決まらず3ヶ月間浪人状態だった当時に書いたものです。この時点ではまだ、その後ブレシアで4年間もプレーを続けるとは想像できませんでした。

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「一般的にいって、天才が理解しがたい存在であることは間違いない。しかし、ロベルト・バッジョを理解しない、あるいはしようとしない人間があまりにも多すぎはしないか?それとも、責任は彼にあるのだろうか?

あまりにも型にはまらないがゆえに、普通の選手ではあり得ない。あまりにも美しすぎるゆえに、常にチームの役には立ち得ない。あまりにも貴重な存在であるがゆえに、とても壊れやすい。監督はしばしば彼をどこに置いていいかわからなくなり、彼はしばしば監督から与えられた場所が我慢できない…。“ずぶ濡れの兎”はいつまでも乾くことのないまま、カルチョの世界の真ん中に佇んでいる」(マウリツィオ・クロゼッティ)

これは、昨シーズン半ばにロベルト・バッジョとマルチェッロ・リッピ監督との確執が表面化した時、ローマの全国紙“La Repubblica”が掲載した記事の一節である。だが、現在のバッジョの姿を言い表す上でも、これ以上の言葉は見つからないように思える。

事実、ネラッズーロのユニフォームを着てプレーした最後の試合である、チャンピオンズ・リーグを賭けたパルマとのプレーオフからはや3ヶ月以上が過ぎ、セリエAの異例に遅い開幕があと半月あまりに迫ったにもかかわらず、バッジョが今シーズン、どのクラブでプレーするのかは、今もまだ決まらないままだ。

5月23日、ロベルト・バッジョは、中立地ヴェローナで行われたこのプレーオフで、芸術的な2ゴール(美しい弧を描いたFKと左足での難しいボレーシュート)を決め、インテルにチャンピオンズ・リーグへの挑戦権をプレゼントすると同時に、苦悩と落胆に満ちたミラノでの2年間に幕を引いた。この試合での鬼気迫る、魂のこもったプレーの数々は、自らの運命に対する、そしてそれ以上に、そんな運命に彼を追い込んだ“誰か”に対する小さな復讐のように見えた。

「辛いシーズンだったから、こういう形で最後を締めくくれて、心から満足している。今日の試合で、監督とのトラブルにも関わらず、ぼくがプロとしての努めを真摯に果たしてきたことが証明できた。インテルでプレーするのはこれが最後だ。リッピがいる限りぼくは残らない。来シーズンのこと?まだ何も決まっていない」

バッジョは試合後、こう語ってスタディオ・ベンテゴーディを後にした。インテルとの契約は2000年6月30日まで。チャンピオンズ・リーグへの権利を手にしたリッピ監督の続投が確実となった以上、クラブもバッジョ自身も契約の更新を望まないことは明らかだった。

それから100日あまりの間に起こった、バッジョの「落ち着き先」を巡る出来事を、最も簡単に総括すると次のようになる。

スクデットを狙えるビッグクラブは、もはや「戦力」としてのバッジョには興味を示さない。中堅以下のクラブには、バッジョの経済的要求(インテル時代と同じ年俸50億リラの2年契約・応相談)とプライヴェートな要求(家族のいる家から近いところがいい)を同時に満たせるところがない。外国のビッグクラブからのオファーは引きも切らないが、本人はイタリアでプレーすることに執着し続けている…。

バッジョの新たな「落ち着き先」としてこれまでに名前が挙がったクラブの数は、イタリア国内外合わせて優に二桁に上る。しかし、「可能性の打診」や「とりあえずのオファー」というファースト・コンタクトの段階から話が先に進み、少しでも具体的な可能性が見えたのは、2-3のプロヴィンチャーレだけだ。以下、ここまでの経過を振り返ってみることにしよう。

昨シーズンも終盤にさしかかり、インテルとの契約切れ(=訣別)が濃厚になった頃話題に上っていたのは、バッジョは自分が育ったヴィチェンツァでキャリアを終えたいに違いない、という観測だった。セリエC1のアスコリでゴールを量産していた末弟エディと、故郷のクラブで2トップを組むという、いかにも(というよりはあまりにも)ロマンティックなストーリーを夢見る向きも少なくなかった。

しかしこれはあくまで「噂」の範疇を出るものではなく、シーズン終了後も含めて、実際にバッジョとヴィチェンツァの間に、具体的なコンタクトがあったのかどうか自体、定かではない。ヴィチェンツァは、バッジョが在籍していた当時から3度もオーナーが替わっており、現在の経営陣とバッジョの間に特別なつながりがあるわけでもない。

もうひとつ、かなり以前から名前が挙がっていたのが、マラドーナ、ゾーラ以来、祭壇に奉って崇めるべき“10番という名の神”を失っているナポリ。セリエA昇格のメドが立ちつつあったと同時に、北イタリアの実業家・コルベッリ氏の資本参加を得たことで、フェルライノ会長が一度ならず真剣に獲得を検討したことは間違いない。バッジョ自身も、この噂が立ったシーズン最終盤には「ナポリでプレーするというのは、なかなか魅力的なアイディア」と発言していた。

しかしその後、現実にA昇格が決まると、コルベッリとフェルライノは監督にズデネク・ゼーマンの招聘を決める。ゼーマンは、プレーヤーとしてのバッジョを評価しながらも「私の構想には、彼のような選手の居場所はない」と、就任早々に獲得の可能性を否定。その後も何度かナポリの名前は浮上するが、事実上この時点で扉は閉ざされたといっていいだろう。

また、儲かりそうな話なら何でもとりあえずは試してみるペルージャもアプローチを試みたが、バッジョ自身はあまり興味を示さなかったようで、それ以上の展開はないまま。シーズン終盤から名前が挙がっていた上記3チームとの話は、こうして具体化することなく立ち消えになった。
 
パルマとのプレーオフが終わり、事実上「失業」の身になったバッジョはしかし、本格的に動き出したカルチョ・メルカートを気にすることもなく、交渉を代理人のペトローネに任せると、恒例のヴァカンスのために、アルゼンチンに旅立ってしまった。

この頃から、単なる噂からとりあえずの打診・オファーまで、国内外のクラブの名前が相次いでマスコミを賑わし始める。イタリアではナポリ、ペルージャに加えて、ラツィオ、アタランタ、フィオレンティーナ、パルマ。国外ではリヴァプール、チェルシー、アーセナル、トッテナム(以上イングランド)、ボルシア・ドルトムント、バイヤー・レヴァークーゼン(以上ドイツ)、バルセロナ(スペイン)、ベシクタシュ(トルコ/監督はネヴィオ・スカーラ)など。

しかし、欧州サッカー界がEURO2000一色に染まった6月が終わり、各クラブが新シーズンに向けた戦力をほぼ整えて、プレシーズンのキャンプに突入する時期になっても、これらが「噂」の域を出て、具体的な「交渉」に発展する気配はまったく見られないままだった。
 
その中で、7月に入ると意外な名前が浮上する。南イタリアの小さなクラブ・レッジーナである。クラブ創立85年目にして初のセリエAの舞台を踏んだ昨シーズン、カロン、ピルロ(共にインテル)、バローニオ(ラツィオ)と、ビッグクラブで出場機会を得られない有望な若手をレンタルして主力に据え、ホームゲームを毎試合満員にする熱狂的なサポーターの声援に応えて、見事に残留を勝ち取ったチームだ。

80年代半ばにセリエCで破産寸前だったクラブを引き受け、10数年かけてここまで引き上げたパスクアーレ・フォーティ会長は、地元レッジョ・カラーブリア出身の実業家。もしバッジョが獲得できれば、昨シーズンの主力が抜けて戦力が低下したチームの救世主になり得るだけでなく、サポーターに「夢」を与え、またレッジョ・カラーブリアという、イタリアの中ではどちらかというと見下されている都市の「格」を引き上げることにもなる—と考えているようだ。

もちろん、このプロジェクトを打ち上げただけで、すでに2万4000枚ものシーズン予約チケットを売りさばいたことも忘れるわけにはいかないが…。

いずれにしても、レッジーナの名前が挙がった時に、選手全員の年俸を合わせても60億リラ強に過ぎないこの小さなクラブが、どうやってバッジョひとりに50億リラの年俸を支払えるのか、という疑問を誰もが持ったのは当然だった。だが、フォーティ会長はそれを解決する「ウルトラC」を手にしていた。バッジョと個人的には良好な関係を続けているインテルのモラッティ会長のサポートである。

インテルがバッジョと新たに2年契約を結びレッジーナに1年間レンタルに出す、というのがその内容。引退後もインテルとの関係を保てるように、という建前だが、事実上、モラッティが個人スポンサーとなって、バッジョに新たな活躍の場を提供するという形である。

しかし、このオファーが表沙汰になって以降も、具体的な交渉が進展する様子は見られない。バッジョ自身が、イタリア半島の南の果てでB降格を避けるためにだけ戦い続けるという選択に、大きな魅力を感じていないことは、この時点ですでに明らかだった。

7月も半ばになって、ヴァカンスから戻ってきたバッジョは、やっとマスコミにコメントらしいコメントを出す。

「2002年まではプレーするつもりだ。ワールドカップに出場したい。これは夢ではなく明確な目標だ。トラパットーニに代表に召集してもらうためには、試合に出場してぼくがまだやれることを示さなければならない。そのためにも、試合に出られるチームを選びたい。今回は急ぐ必要はない。外国に行く可能性もないわけではない」

この発言から、更なる長期戦になることは避けられない、という見方がマスコミにも広がる。“決断”の最初のタイムリミットと考えられたのは、チャンピオンズ・リーグ参加クラブが、UEFAに登録選手名簿を提出する期限である8月末。

バッジョがこのタイトルにこだわりを持っているのは周知の事実であり、もしそれまでにイタリアのクラブから納得の行くオファーが得られなければ、CL出場権を持つ国外(おそらくイングランド)のビッグクラブに移籍する決断を下すだろう、という観測だった。
 
8月に入ると、新たにもうひとつ、ウディネーゼの名前が浮上する。一部メディアは、バッジョの個人スポンサーであり、ウディネーゼのテクニカル・スポンサーでもあるディアドーラ社が間に立ち、話がまとまる方向にある—と確信ありげに報道。しかし、オーナーのジャンパオロ・ポッツォは、この“噂”を即座に否定した。「バッジョは我々の手に余る。百姓がフェラーリを買うようなものだ。クラブの経営哲学にも反する」。

バッジョの立場からいえば、自宅のあるヴィチェンツァ近郊、カルドーニョからも近く、ヨーロッパの舞台(UEFAカップ)で活躍するチャンスもあるウディネーゼは、現実的に望みうる最良の選択だったかもしれない。事実、チームを率いるディ・カーニオ監督も、社交辞令とはいえ歓迎の意志を明らかにしていた。監督自ら、チームの選手たちに獲得の是非を諮った結果もポジティブなものだったと伝えられている。

しかし、よく知られているように、ウディネーゼは、世界中から若い才能を発掘して「青田買い」し、数年かけて育ててビッグクラブに売却することで、長期的な経営の安定を図ろうという明確なポリシーをいちはやく打ち出し実践してきた、「ポスト・ボスマン」時代の先端を行くクラブである。

その経営哲学からすれば、戦力にはなっても売却益をまったく期待できない33歳のファンタジスタを獲得し、自ら発掘した若い才能から活躍の場(=市場価値を高めるチャンス)を奪うというのは、確かに大きな自己矛盾に違いない。

事実、「ウディネーゼ説」はその後も何度か蒸し返されるが、そのたびに当事者(クラブ、バッジョの代理人ペトローネなど)から否定されることになる。
 
8月16日、マルセイユで行われたフランス代表vsFIFAワールドスターズ(その実体はアジア・アフリカ選抜+α)のチャリティ・マッチに出場し、また伸ばし始めた“コディーノ”を揺らせて90分間プレーしたバッジョは、試合後、マスコミに次のように心境を語った。

「もし金だけが問題だったら、もうとっくにチームは決まっていただろう。条件は他にある。家から近いところでプレーしたいということだ。これ以上家族に負担を掛けたくはないから。でも今のところその可能性は低そうだから、他の選択肢も真剣に検討する。

つまり、バッジョの名に相応しい場所でプレーするということ。もちろん外国も含めての話だ。その時には家族を連れていくことになる。でも、問題は、もし代表にもう一度選ばれたいと思ったら、イタリアでプレーする必要があるということだ。だから、すべての可能性を時間をかけて検討する必要がある。まあ、時間だけはたっぷりあるから…」

確かに、時間が必要な状況には違いなかった。イタリアで、具体的な可能性があるのはレッジーナだけだが、この日のコメントも、間接的にレッジョ・カラーブリア行きを否定するものでしかなかった。

一方、国外からのオファーは相変わらず引きも切らない(この頃にはヴァレンシア、ミドルスブラ、PSG、ガラタサライなどの名前が挙がっていた)。しかし、ディノ・ゾフに替わってイタリア代表監督に就任したばかりのジョヴァンニ・トラパットーニは、次のように明言していた。

「イタリアから出てプレーしている選手に関しては、代表召集の可能性はどうしても低くなる。というよりも、事実上なくなると言ってもいいだろう」

事実、8月末の“最初のタイムリミット”が刻々と近づいて来ていたにもかかわらず、国外のクラブとの交渉はついぞ具体化することがなかった。ここで逆に攻勢に出てきたのが、1ヶ月半以上もバッジョにオファーを出し続けながら、返事を引き延ばされたまま確固たる結論を得られずにいるレッジーナである。フォーティ会長とマルティーノDSが、改めて提示した条件は驚くべきものだった。

「我々はバッジョの専属スタッフを信用している。水曜日まではカルドーニョにいてトレーニングしてくれていい。木曜日にレッジョに来て紅白戦に参加し、そのままチームに合流して日曜日の試合に備える。試合が終わったら、カルドーニョに戻ればいい。試合に出るのは、カンピオナート34試合のうち、重要な20試合だけでいい」

この条件には、バッジョも「独創的で魅力的な提案」だとコメントせざるを得なかったと伝えられている。しかしそれでも、彼を説得するにはまったく十分ではなかった。結局レッジーナは、「最後の最後の保険」以上の存在にはなり得ないように見える。
 
8月31日。チャンピオンズ・リーグ(とUEFAカップ)参加クラブの選手登録は締め切られ、バッジョにとって外国でプレーする動機は大きく後退した。

一方、イタリア国内では、2年ぶりにセリエAに復帰したブレシアの名前が突然浮上してきた。当初は頭から否定していたジーノ・コリオーニ会長も、9月7日になって「現在、ロベルト・バッジョ獲得の可能性を探っているところだ」と、コンタクトを公に認める発言をしている。「実現の可能性は10%というところだろう。この夢が実現するよう全力を尽くしたい。バッジョの側から扉を閉じたわけではないということ自体、かなりいい兆候だと思っている」。

ブレシアの監督は、以前から常々「バッジョのような選手がポジションを得られないのはおかしい。あれだけの選手を使いこなせなければプロの監督とは言えない」と語ってきたカルレット・マッツォーネ。公のコメントは出ていないものの、バッジョ自身も「マッツォーネなら」と、金銭その他の条件さえ折り合えば、このオファーを受け入れる意志を持っていると伝えられている。

問題は例によって、ブレシアがバッジョの高年俸を手当てできるかどうかにかかっているというわけだ。ただし、この原稿を書いている9月11日の時点では、具体的な交渉が進んでいるという情報は伝わっていない。
 
9月8日、バッジョは、ヴァカンスから帰ってきて以来、毎日、専属フィジカルコーチのエンリク・ミゲルと共にトレーニングを続けている地元カルドーニョのグラウンドで、次のように語っている。

「目標は2002年W杯だ。代表に呼ばれるためには、試合に出てプレーしなければならない。それもイタリアのクラブで。外国に行くのはアズーリを諦めるのと同じだ、ということは明らかだ。継続して試合をこなす必要がある以上、ビッグクラブよりは中小クラブを選ぶ方がベターだと思っている。

もうひとつ、家から近いところがいい。家族と離れたくはないから。コンディションはいい。70-80%というところだろう。もう2ヶ月も毎日ここで、ひとりでトレーニングを続けている。望ましいオファーが来るまで待ち続けるつもりだ。プレーすることさえできれば、トラパットーニを説得する自信があるから」

“次のタイムリミット”は、セリエAが開幕する10月1日。果たしてその日までに、バッジョの夢見る「望ましいオファー」を届けてくれる白馬の王子様は、カルドーニョに現れるだろうか?■

(2000年9月13日/初出『ワールドサッカーダイジェスト』)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。