ウルトラス関連シリーズの3回目。この後ももう少し続きます。

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「NO al calcio moderno (新時代のサッカーにNOを)」。
ここ数年、イタリア中のゴール裏に、こんな横断幕が頻繁に掲げられるようになった。

別に、プレッシングやゾーンディフェンスをやめて古き良きカテナッチョに戻れ、と言っているわけではない。「新時代のサッカー」というのは、TVやマーケティングに支配されたビジネス・オリエンテッドなサッカー界のあり方のことだ。イタリアのゴール裏は、プロサッカーのビジネス化に「NO」を突きつけているのである。 

プロサッカーのビジネス化というのは、つまるところ、サポーターを消費者として取り込もうという動きのことだ。スタジアムをテーマパーク化してカネを落とさせ、試合をペイTVのコンテンツとして囲い込んで視聴料を払わせ、クラブそのものをブランド化してオフィシャルグッズを売りまくる。いま国内リーグが最も繁栄しているイングランドとドイツは、このビジネスモデルが最も成功している国である。

イタリアでは、スタジアムの整備もオフィシャルグッズのブランド展開も遅れているが、その分、ペイTV局(スカイ・イタリア)のビジネス的な重要性が高い。いまやTV放映権料はクラブ売上高の3分の2を占めており、入場料収入の比率は年々下がり続けている。

プロサッカークラブという事業が、地元の都市とスタジアムに来てくれるサポーターを顧客とする集客ビジネス(集金装置はスタジアム)から、地域を限定しない消費者を顧客とするマーケティングビジネス(集金装置はメディア)へと変貌してきているという構図そのものは、ヨーロッパの他のサッカー先進国とまったく変わらない。

ポイントは、この「新時代のサッカー」の構図においては、スタジアムを埋める数万人よりもTVの向こうの数百万人の方が、クラブにとってずっと大切な顧客であるという点にある。スタジアムを埋める数万人の、そのまたほんの一部分でしかないゴール裏の数千人が、「新時代のサッカーにNOを」と叫ぶのは、彼ら自身の存在感や重要性が大きく低下し続けていることに対する、深刻な危機感の表れなのである。
 
TVの向こうの数百万人、スタジアムに通う数万人、ゴール裏を埋める数千人。これが「新時代のサッカー」におけるクラブにとっての顧客の全体像だ。それぞれを以下、カギカッコつきで「ファン」、「サポーター」、「ウルトラス」と呼ぶことにしよう。

顧客の99%以上を占める「ファン」は、プロサッカーというエンターテインメントの従順な消費者といえる。受動的にサッカーを楽しみ、メディアというチャンネルを通じてクラブに金を落とし、でもそこに夢を見たり何かを仮託したりして楽しんでいる。そこではサッカーは、音楽や映画と同じレベルにあると言ってもいい。

わずか1%にも満たない「サポーター」は、毎試合スタジアムに足を運び、ライブでエンターテインメントを楽しむ、より積極的な消費者だ。だが、サッカーの世界との関わり方は、受動的なレベルにとどまっている。言ってみればコアなファンである。

一方、数で言えばまったくのマイノリティ、コンマ数%にしか過ぎない「ウルトラス」は、「ファン」や「サポーター」とは根本的に異なる側面を持っている。彼らは、もっと能動的にサッカーの世界に参加しているからだ。毎試合ゴール裏を埋め、応援のプレッシャーによってホームアドヴァンテージを作り出して、試合の内容や結果に直接的な影響を及ぼす。

「ウルトラス」にとってサッカーとは、単に受動的に楽しむべきエンターテインメントではなく、自分たちのアイデンティティに関わる何かであり、人生の重要な一部だ。彼らは、愛するチームの戦いにそのように能動的に参加し影響を及ぼしていることを以て、自分たちを一般の「ファン」や「サポーター」と区別して特別な存在だと考え、それを誇りに思っている。

一種のエリート意識を持っているといってもいい(数百万人の中の数千人なのだから、実際エリートには違いない)。だから、マフラーとかTシャツとかそういう自分たちの所属を示すアイテムを身に付けて、エリートであることをことさらに誇示する。暴力もまたしばしば、そのための手段となる。

チームカラーに対するロイヤリティや試合への能動的な参加が「ウルトラス」のポジティブな側面だとすれば、暴力はそれと裏腹になったネガティブな側面である。このネガティブな側面ゆえに、そして消費者としては最も従順ではない部類に属する(クラブにカネを落とすよりはアウェー遠征費やコレオグラフィに使う。すぐに抗議をしたり暴れたりする)がゆえに、「ウルトラス」はクラブからも、そして「ファン」や「サポーター」からも、煙たがられる存在となりつつある。

問題は、彼ら「ウルトラス」が、暴力を許容し、それどころか積極的に肯定すらするカルチャーを持っているところにある。ただし注意しておきたいのは、スタジアムを舞台とする暴力事件を起こすような過激な暴徒は、数千人の「ウルトラス」の中でもまたほんの一部、せいぜい数百人単位でしかないということだ。彼らこそが正真正銘の「フーリガン」なのであり、一般の「ウルトラス」とは区別して論じるべきだろう。

彼ら「フーリガン」にとって、ゴール裏はしばしば、単なる隠れ蓑でしかない。彼らの目的は暴力そのものであり、その暴力衝動を最も簡単に、そして頻繁に解放できる場所として、ゴール裏が選ばれたに過ぎない。スタジアムでの暴力事件はたいてい、チームが負けている時に起こっているが、結局のところそれは暴動の理由ではなく、単なるきっかけでしかない。「フーリガン」は、暴れるための機会を待っていただけなのだ。

様々な報道や社会学的研究からわかるのは、彼らの多くはワーキングクラスや学生であり、元々格差社会であるヨーロッパにおいて、今の自分の境遇に不満を抱いていたり、生活に困難を抱えていたりする比率が高い階層であるということ。そして、徒党を組んで暴力を働くという行為が、そうした不満や困難のひとつのはけ口になっていることである。

厄介なのは、「フーリガン」がほとんどの場合、ゴール裏の「ウルトラス」の中に紛れていること。それだけでなく、「ウルトラス」を暴力に誘い、巻き込むことも珍しくない。それゆえ、各国の政府や警察は、「フーリガン」ではなく「ウルトラス」、すなわちゴール裏全体を標的にして、厳しく圧力をかけはじめている。

イタリアでも、今年2月のカターニア暴動事件以降、スタジアムの安全対策強化と同時に、横断幕規制、発煙筒や爆竹の全面禁止(これは以前からそうだったが事実上許容されていた)といった、ゴール裏への締めつけが進んでいる。

スタジアムの安全対策を徹底して行い、暴力に対してはどんな小さな行為(例えばコインをピッチに投げこむ)でも即時逮捕・拘留という厳罰を導入して、スタジアムから暴力を全面的に排除することに成功したイングランドのケーススタディが、学ぶべき模範としてしばしばマスコミや関係者に取り上げられるようにもなった。 

「新時代のサッカー」が最も進展しているイングランドのプレミアリーグ、ドイツのブンデスリーガ(この両国はヨーロッパで最も経済が発展している豊かな国でもある)のスタジアムで今シーズン、暴力事件が起こっていないのは、おそらく偶然ではないのだろう。

この両国は、「フーリガン」を徹底排除し「ウルトラス」の暴力性を抑圧することによって、トップリーグのスタジアムを「サポーター」と「ファン」、つまり受動的な消費者、従順な顧客だけの場所にすることに成功した。

だが、排除された「フーリガン」たちは、いったいどこへ行ったのか?消え去ってしまったのだろうか?

イタリア在住の英国人作家ティム・パークスは2004年にこんなことを書いている。
「ハイバリーやアンフィールドが、映画館のように安全で、オペラ座のように高額になったこの時代、ロンドン郊外における暴力事件は毎年眩暈がするようなペースで増えている。土曜の午後のスタジアムは安全で快適だ。

しかし夜になったら足を踏み入れることすら危険なストリートは、特に郊外では増えるばかりだ。単に、この種の暴力は日常の中に溶け込んでおりニュース性がないので、その犠牲者がマスコミに取り上げられることが少ないというだけのことなのである」

ドイツでも、今年の2月15日、旧東ドイツ・ザクセン州の地域リーグで、800人のフーリガンと300人の警官隊が衝突し、警官36人が病院送りにされるという事件があった。イタリアでも、スタジアムにおける暴力はセリエAよりもセリエC以下の下部リーグの方がずっと深刻である。東欧やギリシャ、トルコといった、経済的に遅れている国々でも、スタジアムは荒れている。

これは何を意味しているのか。「新時代のサッカー」の舞台となっているサッカー大国のトップリーグでは、ビジネス化の波にも後押しされる形で「フーリガン」、そしてしばしば「ウルトラス」の抑圧と排除が進み、スタジアムが素晴らしい“シアター・オブ・ドリームズ”に仕立て上げられる一方で、プロサッカーの周縁部分(下部リーグ、マイナーな国々)はそこから取り残されて、ネガティブな側面だけを抱え込むようになっている、とは言えないだろうか。

スタジアムは社会の鏡、とよく言われる。社会が抱える歪みや澱がゴール裏に吹き溜まり、「フーリガン」の暴力として噴出するのもその一面なら、トップリーグのスタジアムがその歪みや澱を、抑圧と排除という形で、スポットライトが当たらないどこか別の場所に追いやって涼しい顔をするのも、またその一面である。

ビジネス化の波は「フーリガン」を追い詰めている。しかしスタジアムから排除されたところで「フーリガン」が消えるわけではない。社会が抱える歪みが解決したわけではないのだから。
 
しかしその一方では、イタリアの「ウルトラス」の中にも、「フーリガン」と距離を置き、非暴力・反人種差別をモットーに、チームカラーに対するロイヤリティや試合への能動的な参加というポジティブな側面だけを全面に打ち出したムーヴメントを作り出そうという動きが出始めている。

 ゴール裏そのものを「フーリガン」と呼んで断罪し、スタジアムから一方的に排除しようとするのは、あまりにも安直でご都合主義的な論理に過ぎる。受動的な「ファン」や「サポーター」ではない、能動的な参加者としての「ウルトラス」の存在意義と価値を、もう一度ポジティブに捉え直すべきではないのか。「新時代のサッカー」にNOを突きつける彼らは、そう主張する。

チームに対する愛情と献身、応援を通して共に戦う団結の意識、勝利の熱狂と敗北の落胆を共有することで生まれる運命共同体的感情。これは、世界中の「サポーター」と「ウルトラス」に共通する要素である。そこを出発点にして、「フーリガン」とは一線を画したゴール裏のあり方を築いていけるかどうか。「ウルトラス」の未来はそこにかかっていると言ってもいいだろう。■

(2007年6月14日/初出:『footballista』)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。