今後数回はウルトラス関連の原稿を順番にアップして行くことにします、と書いてから瑣事に紛れて半月も経ってしまいましたが、予定通りウルトラス関連の話を続けます。

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イタリアでゴール裏のサポーターグループが暴力集団化して、ウルトラスと呼ばれる(というか自称する)ようになったのは、1970年代からだと言われている。80年代にヨーロッパ全域で活発化したフーリガン現象と軌を一にして、イタリア中のゴール裏に広まり、そのまま定着して現在に至っている。

ウルトラスというのは、彼ら自身に言わせれば「一つのライフスタイルであり価値観」なのだと言う。

自分の都市とチームを深く愛し、ともに戦うためにホームはもちろん、どんなに遠いアウェイの試合にも必ず駆けつけ、そのためならいかなる肉体的、経済的な犠牲をも厭わない。仲間との友情、自らが属する組織に大きな価値を置く。そして、その行く手を阻む者、自由を奪おうとする者とは徹底的に「戦う」。

チームに対する愛情と献身、応援をとおしてともに戦う団結の意識、勝利の熱狂と敗北の落胆を共有することで生まれる運命共同体的感情。これは、世界中のサポーターに共通する気持ちだろう。理解が困難になるのはそこから先、暴力にかかわる部分だ。

「ウルトラスというライフスタイル」には、暴力の肯定が最初からセットされている。「敵」(相手のウルトラス)に対して自らの名誉を守るため、そして自分たちを抑圧する「権力」(警察)と戦い自由を守るため、という名目での暴力は積極的に認められており、逆にその暴力性がアイデンティティのようになっているのだ。

ただし、彼らが「ウルトラスのメンタリティ」と呼んでいる独自の倫理規範に従えば、暴力の行使が許されるのは上に挙げた2つの状況、つまり対ウルトラス、対警察だけであり、しかも、ナイフをはじめ殺傷力のある武器を手にしたり、圧倒的な数的優位に物を言わせて相手を痛めつけるような卑怯な振る舞いは、本来許されていない。

ヘラス・ベローナのウルトラスと1シーズンにわたって行動をともにしたルポルタージュ、『狂熱のシーズン』(日本語版タイトル)を著した在伊イギリス人作家ティム・パークスは、3年ほど前に『コリエーレ・デッラ・セーラ』紙に寄稿した一文の中で、次のように記している。

「現代社会は私たちの中に、強く闘争的な連帯の感覚を取り戻させてくれるコミュニティへのノスタルジーを、否応なく育んできた。そのはけ口としてのウルトラスは、行き過ぎた感情が最悪の形で爆発することからは逃れている。彼らは犯罪集団やナチストになるかわりに、場所と時間を週末のスタジアムに限定した、局地的な原理主義を発明した。

そこでは、政治とか労働とか、そういうリアルな世界の中に具体的な原点を持つ必要がないまま、戦闘状態にあるコミュニティがもたらしてくれるあらゆる興奮とエモーションを満喫することができる。一部のウルトラスグループが取る、非常にアイロニカルで自嘲的な態度は、まさにリアルな世界における具体的な原点の欠落を自覚しているがゆえである」

パークスが『狂熱のシーズン』の中で非常に好意的に描いているヘラスのウルトラスは、はっきりいって下品で粗暴なろくでもない連中でありながらも、最後の一線を決して超えないバランス感覚を備えており(それを支えているのがアイロニーだ)、それゆえに愛すべき存在だった。しかし残念ながら、2007年のゴール裏の現実は、その最後の一線のこちら側にはとどまっていない。

今や、イタリア中のゴール裏のほとんどは、ネオナチ、ネオファシストといった極右勢力の拠点となっており、その多くはドラッグの密売を通じて地下犯罪組織(マフィア)とも繋がっている。

そしてウルトラスのリーダーたちは、チケットのマージン搾取からオリジナルグッズ、果てはドラッグ(主にコカイン)の密売まで、ゴール裏を舞台にしたビジネスという「リアルな世界における具体的な原点」を持ってしまっている。

彼らが警察を目の敵にし、今回のカターニアのように戦争(あれは完全に市街戦だった)を挑みさえするのは、単にウルトラスの自由を抑圧する国家権力の象徴だからという理由だけでなく、(しばしば非合法の)ビジネスという彼らの具体的な利害を損なう、憎むべき敵だからである。

イタリアのウルトラスの最大の特徴は、グループとして非常に強く組織化されており、独自のヒエラルキーと規律を持っている点にあると言われる。それぞれのゴール裏では、複数のグループが群雄割拠して勢力を競っている訳だが、どのグループでも、限られたリーダーが全権を握り、その周囲を幹部が固め、残りはすべて兵隊、という構造は同じである。

許しがたく醜いのは、その兵隊たち(未成年も多く含まれている)が、ひと握りのリーダーたちによって、治外法権化したゴール裏に囲い込まれ、喰い物にされているという現実だ。3日ほど前に取材で話をしたミランのガットゥーゾははっきりと「棍棒を持って警官隊に突っ込んで行く15歳、16歳の子供が、正気だってことはあり得ない。クスリで思考と感覚がマヒしているからあんなことができるんだ」と言っていた。

そこにはもはや、ウルトラスが当初持っていた「ライフスタイル」も「メンタリティ」もない。あるのは、犯罪組織に限りなく近いグループによる、暴力と搾取の構造だけである。彼らが存在を許される理由は、どこにもない。□

(2007年2月9日/初出:『footballista』)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。