2000年から2003年にかけて某WSD誌に連載していた『イタリア・クラブ探訪』。今回は2002年9月に取材したフロレンティア・ヴィオラの回をお送りします。もしかすると、そんなクラブは聞いたことがない、という方もいるかもしれません。実際、当時このクラブは発足したばかりで、セリエC2(4部)で戦っていました。でも今はセリエA。その種明かしは本文でどうぞ。

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ACフィオレンティーナは、スクデット2回、コッパ・イタリア6回、欧州カップウィナーズ・カップ1回の優勝歴を誇り、1926年の創立以来わずか2シーズンを除いて常にセリエAの舞台で戦い続けてきた、イタリア有数の名門クラブだった。

「だった」と過去形で書かなければならないのは、昨シーズンのセリエAで最下位同然の17位に終わりB降格を喫したこのクラブが、2002年8月1日をもって破産・消滅し、76年にわたる輝かしい歴史に突然の終止符を打ってしまったからだ。理由は、オーナー会長だったヴィットリオ・チェッキ・ゴーリが経営する企業グループの財政破綻。

プロクラブとして存続するための基準すら満たせない巨額の負債を抱え、セリエBへの登録保証金も捻出できなくなっていた。つい2シーズン前には「ビッグ7」の一角を占めてスクデットを争い、チャンピオンズ・リーグを戦っていたことを考えれば、にわかには信じられない結末だった。

その破産劇から1ヶ月半が過ぎた9月15日、ACフィオレンティーナのホームだったフィレンツェのスタディオ・アルテミオ・フランキでは、昨シーズンまでのセリエAとは打って変わって、セリエC2(4部)の試合が開催されていた。一応プロのはしくれとはいえ、1試合平均の観客数は2000人にも満たないというマイナーなリーグである。

カードは、フロレンティア・ヴィオラ対カステル・ディ・サングロ。名前を聞いたこともないチーム同士の対戦だけに、観客席はガラガラ…と思いきや、スタジアムには2万5000人を超える観衆が詰めかけていた。それどころか、それぞれフィエーゾレ、フェロヴィエと呼ばれるふたつのゴール裏は、昨シーズンまでと同様、フィオレンティーナのウルトラスで満員である。

フィオレンティーナ?そう、この「フロレンティア・ヴィオラ」こそ、ACフィオレンティーナに替わって、都市フィレンツェを代表するプロサッカークラブとして新たに設立され、プロ最下層のセリエC2から再スタートを切ったばかりのチームなのである。

法的に見れば、旧ACフィオレンティーナとは何のつながりもない全く別の組織であり、そもそも「フィオレンティーナ」という名前ですらないのだが、フィレンツェの人々はもちろん、マスコミまでもが、このチームを「フロレンティア」ではなく「フィオレンティーナ」と呼び続けている。

どうやらフィレンツェの人々は、このチームを1926年から続く長い歴史と伝統をそのまま受け継ぐ正当な存在、要するに「フィオレンティーナ」以外の何者でもないと考えているようなのである。

旧ACフィオレンティーナの倒産からこのホームでのデビュー戦まで、わずか40日あまりの間に何がフィレンツェで起こったのか。そしてフロレンティア・ヴィオラ、いや新生フィオレンティーナは、これからどこに向かおうとしているのか。それを明らかにするため、フィレンツェに足を運んだ。
 
中部イタリアの美しい丘陵地帯に位置するヨーロッパ有数の芸術都市・フィレンツェの起源は古代ローマ時代、紀元前3世紀にまで遡る。当時この地に開かれ、現在まで栄える“花の都”の元になった都市の名こそが「フロレンティア」だった。

その千数百年後、中世にはイタリア有数の自治都市として発展し、14-15世紀になってルネッサンスの中心地として栄華を極めたことは、どんな歴史の教科書にも書かれているとおりである。

まさにその当時、つまり今から500年以上前に建設された荘厳なフィレンツェ市庁舎“パラッツォ・ヴェッキオ”の2階に、フィレンツェ市のスポーツ行政責任者にしてフロレンティア・ヴィオラ誕生の立役者のひとり、エウジェニオ・ジャーニ評議員を訪ねた。

ACフィオレンティーナの破産・消滅が濃厚になった7月31日、フィレンツェ市はイタリアサッカー協会のカッラーロ会長に、もしそうなった場合、都市を代表するチームをセリエC(3~4部リーグ)に登録できるよう求める嘆願書を送っている。ジャーニは、その理由を次のように語る。

「サッカー協会の規定では、クラブが破産・消滅した場合、その後を受けたチームはアマチュアリーグ(5部または6部)から再出発しなければならないことになっています。しかし、フィレンツェが都市を代表するプロチームを持たないという事態は、この都市とフィオレンティーナがカルチョの歴史に残してきた足跡とその重要性を考えると、何としても避けなければなりませんでした」

この嘆願書は翌日開かれたサッカー協会の幹部会で検討され、「チームが設立されればセリエC登録を受け入れることを特例として認める」という結論に至る。最悪の事態だけは避けることができたわけだが、問題は、まだその受け皿となる会社さえ存在していないことだった。

「とにかく一刻も早く会社を設立する必要がありました。フィレンツェ市の代表として赴いていたローマのサッカー協会本部で、私がその結論を聞いたのが8月1日の午後1時半。すぐにレオナルド・ドメニチ市長に連絡を取って、午後4時半にここフィレンツェ市庁舎に公証人を呼び、新しいチームの母体となる会社を立ち上げたのです。私と市長のふたりが出資者となって、設立に必要な最小限の資本金を提供しました」

市長とスポーツ行政責任者、重要な公職にあるふたりが自らの個人的な資金を投じて設立した新会社の名称は“フィオレンティーナ1926フロレンティア”。破産・消滅したACフィオレンティーナの歴史と伝統を守り、フィレンツェ市民を代表してこれを引き継ぐという意志を強く打ち出した命名だった。

母体となる会社が設立されたとはいえ、もちろん単なる私企業であるプロサッカークラブの運営に市の公的資金を投入するわけにはいかない。2人の設立者はすぐにマスコミを通じて、この会社を買い取って新しいクラブのオーナーとなってくれるパトロンを募集すると表明した。もちろん、少しでも早くこのクラブを「都市・フィレンツェにふさわしい、そしてサポーターの情熱に見合ったレベル」、すなわちセリエAに連れ戻すための意志と資金力を持っていることが条件である。

それからわずか2日後の8月3日、電光石火といっていい展開で決まった新オーナーは、世界中のセレブリティご用達の高級靴・革製品ブランド「JPトッズ」(年商約3億2000万ユーロ=380億円)を経営する実業家、ディエゴ・デッラ・ヴァッレだった。カルチョの世界では例外といっていい高級ファッションブランドの経営者をオーナーに選んだ理由を、ジャーニはこう説明する。

「彼は、ここトスカーナ州と深いつながりを持つお隣りマルケ州の出身であり、また事業を展開しているのもフィレンツェと非常に縁の深いファッション分野です。彼との間にはある種の紳士協定が成立しました。彼は彼のビジネスに、フィレンツェという都市のプレステージ、世界で通用するイメージを利用することができる。

フィレンツェはそのかわり、彼の資金力と経営力の提供を受けて、都市を代表するサッカーチームを持ち続けることができる。利害がはっきりと一致しているだけに、この結婚は非常に幸せな結婚だといえるでしょう」

デッラ・ヴァッレ以外で最も有力だった候補は、今年セリエAに昇格したコモのオーナーであり、イタリア最大手の玩具製造・販売会社「ジョキ・プレツィオージ」を経営するエンリコ・プレツィオージだった。

しかし、複数のクラブを持つということになると、何年かするうちにカテゴリーが重なって双方の利害が対立する可能性もある。資金力ではむしろ上回るプレツィオージが選ばれなかったのは、それがフィレンツェにとって望ましくないという判断があったからだという。

またジャーニによれば、地元フィレンツェからの立候補はまったくなかったともいう。フィレンツェの基幹産業は商業、そしてファッション関連をはじめとする中小規模の手工業であり、ここまで大きくなったプロサッカーというビジネスを支えられる規模の大企業は、残念ながら存在しないのだ。

ここでひとつ付け加えれば、当初の“フィオレンティーナ1926フロレンティア”という名称は、デッラ・ヴァッレへの経営権の譲渡と時を同じくして、“フロレンティア・ヴィオラ”に変更することを余儀なくされている。これは、破産した旧ACフィオレンティーナの債権者との間に、名称の使用権をめぐる係争が起こるのを避けるため。したがって、名称使用権の問題さえ解決すれば、このクラブは改めて堂々と“フィオレンティーナ”を名乗ることになるはずである。
  
さて、こうして「フロレンティア」のオーナーとなったデッラ・ヴァッレは、しかし自ら会長に就任することはせず、クラブ経営に専念する執行権を持った会長として、「JPトッズ」の有能な幹部を送り込んできた。

その新会長、ジーノ・サリカにインタビューしたのは、ホームスタジアムであるアルテミオ・フランキのメインスタンド下、クラブが仮の事務所として使用している、決して広いとはいえない一室だった。明晰でインテリジェンスあふれる話しぶりは、その語彙も含めて、カルチョの世界というよりはビジネス世界の住人のそれである。

「このクラブが掲げる最大の目標は、1年でも早くこのチームをフィレンツェにふわさしいレベル、つまりセリエAまで引き上げることです。しかし、C2(4部)からスタートすると、毎年昇格を繰り返したとしてもまる3年間はかかるわけですから、まずは1年づつステップ・バイ・ステップでチームを強化していくこと、そのシーズンを勝てるチームを作っていくことの積み重ねです。

ただ、それと同時に、クラブとしてのポジティブなイメージ、フィレンツェという都市にふさわしいイメージを築くことも、非常に重要だと考えています。ですから、フェアプレー、スポーツマンシップは非常に重要だと考えています。勝つためならあらゆる手段に訴えることも辞さないという論理は、我々は受け入れません。相手よりもいいサッカーをして勝つことを大切にしたいのです。これが、私たちの重んじる価値観であり、このフロレンティアのポリシーです」

そうである以上、いかにセリエAへの早期昇格を目指すチームとはいえ、金に飽かせて上のレベルの選手ばかりを買い集め、セリエCのメルカートに混乱を起こすようなことはあってはならない。事実、今シーズンのフロレンティアの年間予算は650万ユーロ(約7.5億円)と、セリエC2ではトップレベルだが破格とはいえない、まずまず妥当な規模に押さえられている。ちなみに、そのうち約70%を占めているのは選手やスタッフの人件費である。

 一方、収入の見込みは500万ユーロ(約5.9億円)前後。初年度は150万ユーロ(約1.8億円)の赤字になるわけだが、「新会社の一年目であることを考えれば、この程度の赤字は、先行投資として許容範囲に収まる数字でしょう」とサリカ会長は語る。最初の数年間は、すぐに上に行かなければならないこともあって、ある程度の投資は避けられないということだろう。

「これだけのサポーターを抱えたチームは、C2にはもちろんC1にも存在しません。イタリア全体を見ても、ユーヴェ、ミラノの2チーム、ローマの2チーム、ナポリに次ぐサポーター数を誇っているわけだし、今年の年間予約チケットもすでに1万5000枚を超えています。

できるだけ早くBに上がるのは、フィレンツェに対する義務と言わなければならないでしょう。そのためにも、今年はまずこのC2で優勝し、次のステップに進んでほしい。もちろん、それにふさわしい試合内容を伴ってです」

ちなみに、プロ4部リーグにあたるセリエC2は、それぞれ18チームづつからなる、A(北部)、B(中部)、C(南部)の3グループに分かれており、計54チームから構成されている。フロレンティアが所属するのはグループB。

セリエC1(3部リーグ・こちらは2グループ構成)に昇格するためには、グループで1位になるか、2~5位のチームで争われるプレーオフを勝ち抜くかしなければならない。プレーオフは一発勝負の水モノゆえ、確実に昇格を果たすためには、優勝を飾る以外の手段はないのである。
 
優勝を義務づけられたチーム作りは、どんなカテゴリーにおいても簡単な仕事ではない。オーナーのデッラ・ヴァッレからこの大きな宿題を与えられたのは、チーム部門の全権を持つテクニカル・ディレクター(TD)に就任し、サリカ会長の片腕となったジョヴァンニ・ガッリだった。

フィオレンティーナのユースセクションで育ち、19歳から9シーズンにわたってヴィオラのゴールを守った後、ミラン、ナポリでも活躍、イタリア代表でも30試合に出場した、80年代イタリアを代表する名GKである。

ガッリがTDに就任したのは8月8日。しかしこの時フロレンティアはまだ、監督はもちろん選手のひとりすら所有していない、ペーパーカンパニー同様の会社でしかなかった。だが、チーム登録の期限までに残された時間はわずか10日あまり。

8月19日には、コッパ・イタリアの初戦がすでに迫っていた。プロリーグに登録できるチームの体裁を整えることすら困難なこの条件下で「C2で勝てるチーム」を作り上げなければならなかったのだから、その苦労は想像するにあまりある。

まず決めなければならないのは監督だった。ガッリは当初、セリエBを戦う旧フィオレンティーナで指揮を執るはずだったエウジェニオ・ファシェッティ、そして昨シーズンにBでナポリを率いたルイジ・デ・カーニオにアプローチしたが、合意には至らなかった。その後に残ったのが、ベテランのレンツォ・ウリヴィエーリ(昨シーズンはパルマを指揮)か、若手のピエトロ・ヴィエルコウッド(2年前に40歳で現役を引退し、監督としてのキャリアを始めたばかり)か、という選択だった。

「最終的に私たちが選んだのは、ゼロからの再出発なのだから、それにふさわしいフレッシュな監督を選ぶ、という方向でした。ピエトロは、非常に真面目で真摯な人間であるだけでなく、監督としても非常に研究熱心で能力が高く、強い成功への意欲を持っています。それに私たちはフィオレンティーナで一緒にプレーした経験があり、個人的にもどんな人物かよく知っていました。

確かに、監督としての経験は浅いですが、それはマイナスではありません。私たちはみんな、先入観や固定観念に囚われず、新しいフィオレンティーナを創っていかなければならないからです」

スタジアム内のオフィスでこう説明してくれたガッリの口調は、冷静沈着で鳴らした現役時代のプレースタイルを思わせる落ち着いたものだった。

ヴィエルコウッドの就任が決まったのが8月12日。もはやチームづくりには1週間の猶予しか残されていなかった。「とにかく大変な量の仕事をこなさなければなりませんでした。毎日、片時も電話を手から放さず、選手やクラブに連絡を取り、獲得交渉を続けましたよ」とガッリは笑って振り返る。

「チーム作りのコンセプトははっきりしていました。まさにC2で勝てるチームを作るということです。これは簡単ではありません。C2というのは、技術レベルが低い分、よりフィジカルの強さと運動量が求められるカテゴリーです。したがって、それに合ったキャラクターを持った選手が必要なのです。

しかし、それではライバルに差をつけられない。ですから、C2を戦うために必要なフィジカル能力に加えて、上のカテゴリーでも通用するテクニックや経験を持っている選手を、チームの核として何人か獲得することが不可欠でした」

そうして集められたのが、クラウディオ・ボノーミ(MF・元トリノ、サンプドリア)、ラファエレ・ロンゴ(MF・元パルマ、ナポリ)、ロベルト・リーパ(DF・元ペルージャ、バーリ)、アンドレア・イヴァン(GK・元サレルニターナ)といった、セリエAでのプレー経験をもつ強者たちである。

「ぜひ言っておきたいのは、私が声をかけた選手全員が、最初に連絡して『フィオレンティーナに来る気はないか?』と訪ねた時点ですぐに、上のリーグでプレーしているにもかかわらず、『SI’』(イエス)と返事してくれたということです」

その大きな理由のひとつは、昨シーズン、ACフィオレンティーナのキャプテンとして不屈の戦いを見せた大ベテラン、アンジェロ・ディ・リーヴィオが、いち早くフロレンティアへの参加を表明していたことだろう。ガッリは語る。

「ディ・リーヴィオにとってこの選択は、プロフェッショナルとしてというよりも、ひとりの人間としての人生の選択だったのだと思います。彼はフィレンツェに家を買うほど、この町に愛着を感じていましたし、それは彼の家族も同じでした。

それに、フィレンツェにこれだけ愛着を持ち、フィオレンティーナを再びセリエAに連れ戻すという仕事にキャリアの最後を捧げるという選択は、引退後の人生を考えても、経済的なものを超えた大きな満足を彼にもたらすはずです。

彼には、そしてボノーミ、イヴァン、ロンゴといった、上のカテゴリーのプレーヤーたちには、ピッチの上でだけでなくロッカールーム、つまりグループの中でも重要で決定的な役割、つまりリーダーとして勝利のメンタリティをチームに植え付けてくれることを期待しています」

こうして、苦労の末に短い時間で作り上げられた、しかしセリエC2の中ではトップレベルの戦力を揃えた「フロレンティア・ヴィオラ」は、やっと9月のシーズン開幕を迎えることになった。アウェーで戦った初戦は、同じトスカーナ州の田舎町サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノのチーム、サンジョヴァンネーゼ相手に引き分け。そして迎えたのが、冒頭で取り上げた9月15日のホームでのデビュー戦だった。

あえて上から下まで白で統一したユニフォームには、しかしこのクラブの隠れたアイデンティティを示すように紫の縁取りが入っている。その左胸には、1293年に市民による自治を確立して以来700年以上にわたるフィレンツェの市章である赤い百合の紋章。ACフィオレンティーナ時代は、市章を元にデザインされた独自の図案だったが、現在はクラブと都市のより深い結びつきを示唆するかのように、市の紋章そのものが使われている。

胸のメインスポンサーは、地元フィレンツェの保険会社「ラ・フォンディアリア」。「もっといいオファーもありましたが、フィレンツェとの結びつきを第一に考え、地元の企業を選びました」とサリカ会長は語る。

実はこのユニフォームは、間に合わせの仮バージョンである。とはいえ、この試合のつい数日前にテクニカル・スポンサーに決まったプーマ製の正式バージョンも、デザインは原則として現在のものが踏襲されるようだ。「フィオレンティーナ」の名前とともに「ヴィオラ(紫)」のユニフォームが戻ってくるのは、まだもう少し先のことのようである。

さて、肝心の試合の方は、前半1点を先制したフロレンティアが、後半開始早々に一度は追いつかれたものの、最終的には5-1という圧倒的な大差で勝利を飾り、見事にシーズン初勝利をものにした。フィレンツェの人々にとっては、昨年の12月16日にフィオレンティーナが1-0でブレシアを下して以来、9ヶ月ぶりにフランキで祝う勝利だった。

ジョヴァンニ・ガッリはこう語る。
「これをスタートに、1年でも早くセリエAの舞台をフィレンツェに取り戻したい。C2、C1、B、最低でも3年はかかりますし、上に行けば行くほど、戦いは厳しいものになっていくでしょう。1度や2度、躓くこともあると思います。しかし、長くとも5年以内にはセリエAに返り咲きたい」。

フィレンツェとフロレンティア、いや新生フィオレンティーナの長い戦いは、今やっと始まったばかりである。■

(2002年9月12日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。