セリエAは1週間前に終了しましたが、セリエBは昨日がラス前。シーズンを通して首位争いを続け、終盤戦にライバルを突き放してトップに立ったキエーヴォが、足りなかった勝ち点1を上乗せして昇格を決めました(拍手)。

1年前、セリエAの最終戦でパルマに負けて、6シーズン踏みとどまったセリエAに一旦別れを告げたわけですが、そのまま崩れ去るクラブも少なくない中、わずか1シーズンでA復帰を果たしたのはお見事というしかありません。その秘密がどこにあるか、その一端は、7年前のA昇格時に取材したこのテキストを読んでいただければ伝わるかと。

ちなみに、同じヴェローナでも本家というか、かつてスクデットを勝ち取ったこともあるヘラス・ヴェローナの方は、何と今やセリエC1という凋落ぶりです。Bから降格した今シーズンは、18チーム中15位でプレーアウト(降格プレーオフ)を戦う羽目になり、昨日何とかそれに勝ってほうほうの体でC1残留を決めました。

今でも観客はキエーヴォよりずっと多いし、ウルトラスの皆さんも相変わらず健在のようですが……(でも傷害致死事件を起こした連中あり)。

さて、今シーズンのキエーヴォを率いたのは、45歳のベッペ・イアキーニでした。名波がいた当時のヴェネツィアで親分格だった小柄で闘志あふれるセントラルMFが、今やセリエAの監督ですからね。そういえばイアキーニは、現役最後の年にわがアレッサンドリア(当時セリエC1)でもプレーしています。

私事で恐縮ですが、そのアレッサンドリアも、破産・消滅とアマチュアリーグからの再出発という苦難を乗り越えてセリエC2昇格を決め、5年ぶりにプロリーグに戻ってきました。キャプテンはなんと、かつて浦和レッズでプレーしていたジュゼッペ・ザッペッラだったりします。来年も残ってくれるならインタビューするつもりです。

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「ロメオとジュリエット」でも知られる北イタリア・ヴェネト州の美しい中都市ヴェローナに、ここ2シーズン続けてセリエA残留を勝ち取っているヴェローナ(正式名称はエラス・ヴェローナ)というクラブがあることは、読者の皆さんならもちろんご存じだろう。今年でセリエA通算24シーズン目を数え、84年にはスクデットを獲得したこともあるプロヴィンチャーレの名門だ。

一方、今シーズン新たにセリエAに昇格してきた4チームの中には、ヴェネツィア、ピアチェンツァ、トリノというおなじみの名前と共に、キエーヴォ・ヴェローナという聞き慣れないクラブが名を連ねている。この名前を初めて耳にする方も、もしかすると少なくないかもしれない。それもそのはず。このクラブがセリエAという晴れ舞台に登場するのは、今回がまったく初めてのことなのだから。

キエーヴォ・ヴェローナは、その名の通りヴェローナを本拠地とするもうひとつのクラブである。いや、この言い方は正確ではないかもしれない。なぜならキエーヴォとは、ヴェローナの中心部から5kmほど離れた郊外に位置する、人口わずか2000人ほどの地区の名前であり、キエーヴォ・ヴェローナもまた、元々はこの小さな地区を代表するクラブに過ぎないからだ。イタリアサッカーの頂点・セリエAに、都市ではなくその中のひとつの地区のクラブが名を連ねるなど、まったくもって前代未聞である。

事実、1970年代末までのキエーヴォは、セリエAから数えると6部、7部にあたる地域リーグで戦う、どこにでもある地元のアマチュアクラブでしかなかった。よほどの過疎地でもない限り、イタリア中の市町村にひとつずつはあるような規模の小さなクラブが、20年間でセリエAという頂点にたどり着いたのだから、これは驚異的なことだ。

しかしさらに信じられないのは、年間たった100億リラ(約5億5000万円)という低予算で、この大事業が達成されたということだ。この100億リラという数字は、ユヴェントスの年間予算の30分の1以下、A昇格を狙うセリエB上位クラブの年間予算と比較しても3分の1に過ぎず、さらにいえば、中田英寿(パルマ)ひとりの税込み年俸とほとんど変わらない——といえば、キエーヴォがどれだけ素晴らしい、そして奇跡的な偉業を成し遂げたか、多少は理解していただけるだろうか。

昨シーズンからお送りしている「イタリア・クラブ探訪」、2001-2002シーズンの第1回目は、「マネー」という怪物が支配する巨人の国セリエAに、知恵と工夫と勇気だけを武器に敢然と飛び込むリリパット、キエーヴォ・ヴェローナを取りあげることにしよう。
 
ミラノから鉄道で東に約1時間半。ヴェローナは、ローマ時代に起源を持ち、中世には北イタリア有数の自治都市として栄えた古都である。街の中心には、ローマ時代の円形闘技場(アレーナ)がそびえ、その裏手には狭い通りの両側に中世の館が並ぶ古い街並みが続いている。

キエーヴォは、その旧市街から北西に約5kmほど離れたところにある、かつては郊外の一集落だった地区だ。中心には広場と教会があり、その周囲には何の変哲もない街並みが広がる。イタリアのどこにでもある、地方都市郊外の平凡な風景だ。街はずれには、アマチュアリーグで戦っていた1986年までホームグラウンドだった、カンポ・ボッタジーシオがある。木造の古いメインスタンドがあるだけの、スタジアムとも呼べないグラウンドである。現在は育成部門が使用している。

キエーヴォがこのボッタジーシオを離れ、ヴェローナの市営スタジアムであるスタディオ・ヴェンテゴーディ(4万5000人収容)で戦うようになったのは、クラブ史上初めて、プロリーグでは一番下のカテゴリーであるセリエC2(4部)に昇格した86-87シーズンからのことだ。現在クラブの会長を務めるルカ・カンペデッリの父ルイージが、自らが生まれ育った街のクラブのオーナーとなり、「いつかはヴェローナとダービーを戦うチームにしてみせる」と語ってから6年が過ぎていた。

しかし、そこからの歩みは着実だった。C2では2シーズン続けて4位を保ち、3年目の88-89シーズンにはC2(グループA)で優勝してC1(3部リーグ)への昇格を果たす。ワンランク上のC1でも、89-90シーズンから4シーズン続けて中位グループに位置しながら、降格の危険を冒すことなく、着実にチームとしての基盤を固めていった。

92年9月にはルイジ・カンペデッリ会長が死去するという悲劇にも遭遇したが、弱冠24歳の長男ルカがその後を継ぎ、キエーヴォを引っ張った。93-94年には、アシスタント・コーチのアルベルト・マレサーニ(現ヴェローナ監督)が、若き会長の抜擢で監督に昇格する。ヴェローナにある日本企業キャノンの社員を続けながら育成部門のコーチを務めるという二足のわらじを4年間に渡って履き、その後2年間、コーチとして経験を積んだ後、満を持しての監督就任だった。マレサーニは、1年目にしてセリエC1を制覇し、セリエB昇格を勝ち取るという快挙を果たす。

キエーヴォで選手としてプレーし、コーチを経て、91-92シーズンからチーム部門の責任者であるスポーツ・ディレクター(以下SD)を務める、ジョヴァンニ・サルトーリが当時を振り返る。

「キエーヴォという小さなクラブにとって、セリエBに昇格するというのは、当時としては望みうる最大のゴールでした。なにしろ、セリエCで戦っている間、私と事務局長のジャンカルロ・フィウーミのたった2人だけでクラブのフロント部門をすべてまかなっていたほどの規模だったのです。チケットの販売、遠征の手配、マスコミ対応、スポンサーの開拓、クラブの会計から、選手の登録、スカウティングや新戦力の発掘まで、すべてをふたりでまかなっていたのです。

ほんとうにてんてこ舞いでした。セリエBに昇格して、これではとても無理だというので、秘書をひとりと広報担当(チームマネジャーと兼任です)、そして渉外担当を雇いました。でも、セリエBのフロントで5人というのも、おそらく他にはない規模の小ささだと思います」

セリエAに昇格した今シーズンは、さすがにこの5人でも対応できず、2-3人のスタッフを増やす予定だという。
 
B昇格を果たしたキエーヴォは、さらに3シーズン、マレサーニ監督と共に歩み続ける。最初の2年間は13位、14位と、降格の危機に瀕しながらもこれをよく乗り越え、3年目の96-97シーズンには、シーズン終盤までA昇格の可能性を残すという健闘ぶりで、7位という好成績を確保した。この年、チームを引っ張ったのは、パルマからレンタルで移籍してきた攻撃的MF、ステーファノ・フィオーレ(現ラツィオ)だった。

このシーズンの大躍進で、セリエBで最も注目される若手監督となったマレサーニは、翌年、セリエAのフィオレンティーナからオファーを受け、ユースコーチ時代から通算すると10シーズンを送ったキエーヴォに別れを告げる。その後、パルマの監督としてUEFA カップ、コッパ・イタリア、そしてイタリア・スーパーカップを勝ち取ったのは、まだ記憶に新しいところだ。

その後の3シーズン、キエーヴォは毎年監督を替えながらも、11位、11位、13位と、セリエB中位に堅実な立場を築き上げる。その間もカンペデッリ会長とサルトーリSDは、グループとしての基盤には決して手をつけることなく、着実な補強でチームの戦力を高めてきた。ほとんどは、セリエCやBのクラブから20代前半に移籍してきて、何年かかかってレギュラーの座を掴んだ、中央では無名の選手たちである。サルトーリは語る。

「キエーヴォのように規模が小さく予算がないクラブが、セリエBの強豪と互して戦っていくためには、知恵を使い、労力を惜しまず、目先の問題に振り回されることなく、やるべきことを着実にひとつひとつ積み重ねていく以外にありません。最大のポイントは、いい選手を他のクラブよりも早く発見し、発掘することです。キエーヴォが最も重視し、人材とお金をかけているのはここです。ミスは許されませんからね。

他のクラブより早くいい素材を発見するためには、足で稼ぐ以外にはありません。現在は私の下で8人のスカウトがイタリア全土を回っています。南部と中部の担当がそれぞれ2人、残る4人は北部の担当です。彼らはそれぞれの担当区域で、セリエC、Dからユースまで、すべてのカテゴリーをカバーし、毎週1回、火曜日に詳細なレポートを送って来ます。これはという選手は私が直接見に行って評価し、判断します。

当初のやり方は、もっとずっと大雑把なものでした。それが変わってきたのは、重箱の隅をつつかなければ気が済まない完璧主義者であるマレサーニの影響が大きいですね。彼とは合計7年間、一緒に仕事をしました。小さなクラブですから、選手の発掘には彼も積極的にかかわっていました。彼は、ピッチの上の技術や戦術、フィジカルトレーニングだけではなく、フロントのデスクワークにおいても、キエーヴォに大きな財産を残してくれました」

こうして迎えたセリエB7年目の昨シーズン、サルトーリが選んだのは、セリエC2、C1の監督として過ごした8シーズンで、4度の昇格を勝ち取った経歴を持つ50歳の中堅監督、ルイジ・デル・ネーリだった。

「他のクラブよりも早くいい素材を発掘しなければならないのは監督も同じです。私は毎年、セリエCを中心に常時10人から15人の動向をチェックしています。注意して観察するのは、試合よりもむしろ毎日の練習のメソッドです。監督のフィロソフィーはそこに凝縮されているといってもいいですからね。デル・ネーリは前のシーズン、どこのクラブからも声がかからず浪人していましたが、私はセリエC2の時代から注目していましたから、躊躇はありませんでした」(サルトーリSD)

無名のデル・ネーリ監督が率いる、無名選手ばかりのキエーヴォ・ヴェローナは、開幕から順調にポイントを積み重ねて上位を占める。12月にはクラブ史上初めて、セリエBの首位に立ち、それから4月初旬まで4ヶ月に渡ってその座を守り続けた。その後5分け1敗と足踏みして、一時はA昇格ラインギリギリの4位まで順位を下げたが、終盤戦で盛り返し、閉幕まであと1試合を残して「奇跡の」セリエA昇格を決定する。開幕から一度も昇格圏内(4位以内)から落ちなかったという意味でも、十分昇格に値する戦いぶりだった。

現会長の父、ルイジ・カンペデッリが「いつかはヴェローナとセリエAでダービーを」と語った1984年、セリエAでスクデットを勝ち取り我が世の春を謳歌するヴェローナのサポーターは「ロバに羽が生えて飛ぶ時が来たら、キエーヴォもセリエAに上がれるだろう」と揶揄したという。それから17年後、キエーヴォのサポーターたちは、羽が生えたロバの絵を描いた旗を振ってセリエA昇格を祝ったのだった。
 
キエーヴォのサポーター、といっても、その数は決して多くはない。昨シーズンの年間チケット購入者数はわずか1635人。平均観客動員数は4000人前後というところだ。市民の大部分はヴェローナのサポーターであり、キエーヴォを応援しているのは、それこそ人口2000人ほどのキエーヴォ地区の住民が中心なのだから無理もない。4万5000人収容のヴェンテゴーディも、キエーヴォの試合ではほとんどいつもがらがらだった。最も観客動員が多かったのは、昇格が決まった37節サレルニターナ戦の1万6000人。

7月から広報室長に就任したばかりのマルコ・ジベッリーニ氏はこう語ってくれた。
「キエーヴォがヴェローナの“ライバル”だったことは今まで一度もありません。ヴェローナは、ユーヴェやミランやローマをライバルだと思っていますからね。一部のウルトラスを除けば、ヴェローナのサポーターもキエーヴォには好意的ですよ。試合中に、キエーヴォが勝っているという情報が電光掲示板に流れると、ウルトラスは口笛を吹きますが、スタジアムの残りの人々は拍手を送るくらいです」

キエーヴォ・サポーターは、ファミリーや普通の若者、そして年配の男性がほとんどを占めている。セリエA、Bで唯一“ウルトラス”のグループを持たないクラブなのだ。今シーズンも、年間チケット購入者が5000人を超えることはないだろう。
 
初めてセリエAの大舞台に立つ今シーズン、キエーヴォの掲げる目標はもちろん“残留”ただひとつである。しかし、ほとんどのメディアはこのチームをB降格候補の筆頭に挙げている。その大きな理由は、チームのメンバーが昨シーズンから大きく変わっていないことだ。

Bに降格したレッジーナに貸し出していたFWマラッツィーナとMFザンケッタが戻ってきた以外、レギュラー級の補強は、GKのルパテッリ(ローマ・共同保有30億リラ)、MFペロッタ(バーリ・30億リラ)だけ。サルトーリSDはその理由を次のように語る。

「今まで、チームを大きくいじったことは一度もありません。毎年、収支の帳尻を合わせるために、主力選手を1人は売らなければなりませんが、それ以上は絶対に手放しません。逆に、そうしなければならないような金の使い方もしません。つまり、価格の高い選手をあえて買うことはしないということです。その代わりに、発掘した選手を安く買って契約を交わし、最初はセリエCのクラブにレンタルして経験を積ませながら、3-4年かけて育てるのです。

今、トップチームには28人の選手がいますが、それ以外にキエーヴォが保有権を持ちレンタルに出している選手が30人います。主力の抜けた穴は、そこから呼び戻して埋めるというわけです。セリエC2の時代から、我々はそうやって少しづつ着実に、チーム力を高めてきました。セリエAに上がったからといって、このやり方を変えるつもりはありませんし、クラブの財政からいって、変えることは事実上不可能です。それに、今のチームには、残留を争うライバルと互角に戦えるだけの力がありますよ」

ヴェローナから30kmほど離れたガルダ湖畔のサン・ゼーノでキャンプ中のチームを訪ね、デル・ネーリ監督に話を聞くと、帰ってきた答えはやはり同じだった。

「去年のチームの基盤を保って、手薄なポジションを何人か補強し全体の戦力を高めるというやり方は、決して間違っていないと思います。セリエAに昇格すると、経験のあるベテランを補強したりひとりだけ突出した選手を獲ってチームの命運をそのひとりだけに託したり、ということがよくありますが、私は賛成しません。

1年かかって作り上げてきたチームとしてのバランスを崩すことなく、グループとしてのメンタリティを武器にして戦う方が、選択としてはずっといいと思っています。もちろん、残留を勝ち取ることは簡単ではないでしょう。キエーヴォのようなちいさなクラブにとっては、スクデットにも値する偉業です。

しかし、このチームには、自らの手で昇格を勝ち取り、初めてセリエAの舞台で戦うことに対する大きな喜びと意欲が満ちています。それこそが、このシーズンを戦っていく上で最大の武器になるでしょう」

開幕は8月26日。羽の生えたロバ、キエーヴォ・ヴェローナの戦いは、アウェーのフィオレンティーナ戦で幕を開ける。

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<クラブの歴史>
1929年、ヴェローナ郊外のキエーヴォ地区に住む若者が集まって結成された草サッカーチームがクラブのオリジン。本格的な活動は、第二次大戦後の48年にACキエーヴォとして再興され、サッカー協会に登録してリーグ戦を戦いはじめてから。

とはいえ、それからの20数年間は、6部リーグと7部リーグを往復する地元のアマチュアクラブに過ぎなかった。はじめてセミプロのディレッタンティ(5部リーグ)に昇格したのは75年のことである。その5年後、地元キエーヴォ出身で中堅の製菓会社パルアーニを経営するルイジ・カンペデッリがクラブの経営に乗り出し、転機が訪れた。81-82シーズンからは、クラブ名もパルアーニ・キエーヴォに変わり、85-86シーズンにはセリエC2、88-89年にはセリエC1へと順調に昇格を果たす。

90-91シーズンには、キエーヴォ・ヴェローナに名称を変更。93-94シーズンには、アルベルト・マレサーニ監督の下で、歴史的なセリエB昇格を達成する。以来7年間、多くの強豪に互してセリエBに踏みとどまってきた。監督にルイジ・デル・ネーリを迎えた昨シーズンは、12月から4ヶ月に渡って首位を走る大躍進を見せ、最終的に3位を確保。「奇跡の」セリエA昇格を果たした。
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(2001年8月3日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。