WSDで今世紀初頭に連載していた『イタリアクラブ探訪』の2回目。ウディネーゼがいかに優秀なクラブかについては、この後もいろんなところに書いてきました。この原稿を書いてから7年。

当時ゼネラルディレクターだったマリーノは、今は古巣ナポリ(マラドーナの時代に広報としてキャリアをスタートした)でGDとしてヨーロッパを目指すプロジェクトに取り組んでおり、スカウティングの責任者だったマヌエル・ジェロリンも今シーズンからシエナのスポーツディレクターに就任していますが、「発掘・抜擢・売却」というサイクルは今も安定して続いています。今シーズンもUEFAカップ出場権は間違いなし。プロヴィンチャーレの鑑のようなクラブです。

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21世紀に入った今振り返ると、セリエAの1990年代は、ある意味では対照的な2つの現象に象徴される時代だったといえる。ひとつは、ミランとユヴェントス、わずか2つのクラブによるスクデットの独占(10シーズン中8回)。そしてもうひとつが、リーグを構成するクラブの“勢力地図”の大きな変化である。

ここ数年、セリエAは「ビッグクラブ」と「プロヴィンチャーレ」という2つのカテゴリーに“二極化”してしまった感がある。しかし、それ以前、つまり1950年代から90年代前半までの基本的な勢力地図は、これとは少なからず異なるものだった。

すなわち、ユヴェントス、ミラン、インテルの「ビッグ3」を頂点として、その一段下に、時期によって多少の「浮き沈み」があるとはいえ、トリノ、サンプドリア、ボローニャ、フィオレンティーナ、ローマ、ラツィオ、ナポリといった、それなりの歴史を持ちスクデット獲得経験もある「中堅クラブ」が名を連ね、残るポストを、地方都市の弱小クラブ(プロヴィンチャーレ)が入れ替わり立ち替わり占める、という“三階建て”の構図である。

これに大きな変化が起こったのが、90年代だった。90-91シーズンから99-00シーズンまでの10年間、セリエAにとどまり続けたクラブは、ユヴェントス、インテル、ミラン、ローマ、ラツィオに、新興勢力のパルマを加えたわずか6つに過ぎない。フィオレンティーナ、ボローニャ、トリノ、ナポリ、サンプドリアといった、長い歴史と伝統を誇る「中堅クラブ」でさえも、衛星有料放送の普及によるカルチョのビジネス化や、ボスマン判決による外国人選手の自由化といった急激な変化の波に翻弄され、セリエBへの降格を経験しなければならなかった。

かつてはセリエAで最も層が厚かった「中堅クラブ」が、90年代半ば以降、成長組と没落組に二分され、その結果ビッグクラブとプロヴィンチャーレへの“二極化”が進展したというわけだ。いってみれば、“三階建て”の二階部分がつぶれてしまったのである。

だがその中で、95-96シーズン以降、6シーズンに渡ってセリエAに定着し続けているばかりか、ビッグクラブ勢を尻目に4年連続でUEFAカップに出場している注目すべきプロヴィンチャーレがある。イタリア北東のはずれ、フリウリ=ヴェネツィア・ジューリア州のウーディネ(人口約10万人)を本拠地とするウディネーゼだ。

かつて80年代にはジーコも2シーズン在籍したことのある、白と黒をシンボルカラーとするこのクラブは、ここわずか数年の間に、セリエAとBを往復するプロヴィンチャーレ勢の中から一頭地を抜いて、ビッグクラブの背後に迫る「新・中堅クラブ」とでもいうべき存在に成長しつつある。プロクラブを取り巻く経営環境が大きく変化しているこの時期に、ビッグクラブのような資金力を持たないウディネーゼが、セリエAにこれだけ安定した基盤を築いた秘密はどこにあるのか?それが今回のテーマである。

ウディネーゼは、1896年設立と、イタリアで最も長い歴史を持つクラブのひとつだが、セリエAに顔を出し始めたのは戦後になってから。50-60年代には計11年間、80年代にも8年連続でセリエAに定着するなど、プロヴィンチャーレとしては十分に安定した実績を残してきたが、90年代前半までは、セリエAに昇格しても残留以上の成果を望むことは難しかった。

ところが、いわば「プロヴィンチャーレの優等生」に過ぎなかったこのウディネーゼが、95-96シーズンからの3年間に大きな飛躍を果たす。攻撃的な4-4-2の使い手としてセリエBで売り出し中だった若手監督、アルベルト・ザッケローニ(現ミラン)を迎えてセリエAに臨んだ1年目は、昇格組としては上出来といっていい11位を確保して、余裕のA残留。

続く96-97シーズンには、3-4-3システムの導入を転機に、シーズン終盤に猛烈な追い上げを見せると、5位という望外の成績を残して、クラブ史上初めてのUEFAカップ出場権を確保した。3-4-3の攻撃サッカーがチームに定着した97-98シーズンは、前年よりもさらに順位を上げプロヴィンチャーレとしては奇跡的といっていい、ユーヴェ、インテルに次ぐ3位へと躍進する。

ビアホフ、バキーニ、ヘルヴェグ、ポッジ、ジャンニケッダ、カローリ、ベルトット、ピエリーニなど、レギュラー陣のほとんどが、ウディネーゼとともにセリエAデビューを果たした無名の選手だったことを考えれば、これがどれだけ素晴らしい偉業かがわかるだろう。ザッケローニ監督が3年間かけて作り上げたこの年のウディネーゼは、”Udinese dei miracoli”(奇跡のウディネーゼ)と呼ばれ、今も人々の記憶に残っている。機械のように精密なサッカーを見せるスペクタクルで美しいチームだった。

しかし、ウディネーゼが現在の地位を確立する上で決定的だったのは、むしろそれからの3年間の方である。この97-98シーズンを最後に、大躍進の最大の功労者であったザッケローニ監督、前年27ゴールを挙げて得点王に輝いたビアホフ、そして攻守にわたって右サイドを支えたヘルヴェグの3人が、揃ってミランへと去ってしまう。

好成績を残したプロヴィンチャーレの監督や主力選手にビッグクラブの手が伸びるのは、カルチョの世界の必然である。そして多くの場合、大黒柱を引き抜かれ、ひとつのサイクルを終えたチームは、前年の健闘が嘘のように勢いを失い、ずるずるとセリエB降格への道を歩み始めるものだ。

ところが、ウディネーゼは違った。毎シーズンのように、主力選手をビッグクラブに放出しながらも、常に安定してビッグクラブと肩を並べる成績を残し続けているのだ。

翌98-99シーズン、若手監督としてはトップレベルの評価を確立していたフランチェスコ・グイドリンをヴィチェンツァから招聘すると、安定して上位を守り続け、6位でシーズンを終える。前年のビアホフに続いて、今度はアモローゾが得点王に輝き、3年連続のUEFAカップ出場権も手に入れた。

だが、シーズン終了後、クラブに無断でサラゴサ(スペイン)と接触したグイドリン監督が、オーナーのジャンパオロ・ポッツォの怒りを買い、解任されるというアクシデントが起こる。クラブは、前年セリエBでペスカーラを望外の5位に導いた若手のルイジ・デ・カーニオを監督に迎えて99-00シーズンに臨むことになった。

アモローゾ、バキーニ、ピエリーニ、カローリと、ザッケローニ時代を担ったメンバーがごっそりとチームを去ったにもかかわらず、ウディネーゼはまたもビッグクラブに互して戦い続ける。最後までUEFAカップ出場権を争った後、「7人姉妹」に続く8位でシーズンを終えた。

デ・カーニオ体制2年目となった今シーズンも、安定した戦いぶりは変わらない。一時はクラブ史上初の単独首位(第5節終了時点)に立つ勢いを見せ、その後やや調子を落としたものの、ビッグクラブ勢と肩を並べる6位という上々の成績で、クリスマス休みを迎えた。

現在のウディネーゼには、ビアホフもアモローゾもいなければ、ロカテッリもバキーニもいない。ザッケローニ時代の「生き残り」は、GKトゥルチ、DFベルトット(キャプテン)、MFジャンニケッダの3人だけ。彼らと共にメンバー表に名を連ねているのは、即戦力として獲得されたFWムッツィ、MFフィオーレを除けば、ヨルゲンセン、ビスガールド、アルベルト、ディアス、ソーサといった、ついこの間まではまったく無名だった外国人選手たちだ。このシリーズの第1回で取り上げたアタランタは、同じ無名選手揃いでも、メンバーのほとんどが「ユース上がり」の若手イタリア人選手だったが、ウディネーゼのチーム作りの方針は、それとは180度異なっている。

しかしもちろん、アタランタが明確な信念を持って育成部門に重点投資を図ってきたように、ウディネーゼが無名の外国人選手を獲得し続けて来た背景にも、クラブを取り巻く経営環境の綿密な分析と、それに基づく確固たる戦略がある。それが一体どんなものかは、当事者の口から語ってもらうのが一番いいだろう。
 
ミラノから鉄道で東に向かって約4時間、オーストリア、スロヴェニアとの国境に近いウーディネは、歴史的につながりが深いヴェネツィア様式の建築が並ぶ静かな小都市である。ウディネーゼのクラブオフィスは、90年のイタリアW杯のために郊外に新設されたスタジアム、スタディオ・フリウリ内にある。

ワールドカップでは組織委員会のオフィスとプレスセンターだったところを、そのままクラブが使っているのだ。96年からクラブ運営の総責任者、ゼネラル・ディレクター(以下GD)を務めるジャンピエロ・マリーノのオフィスも、その一角を占めている。

「ボスマン判決の前後で、われわれプロサッカークラブを取り巻く環境は大きく変化しました。ひとことで言うと、移籍市場のグローバリゼーションが起こったのです。以前は外国人選手枠がありましたから、選手獲得の主なマーケットはイタリア国内、セリエBやCのクラブでした。ところが、ボスマン判決後は、EU圏内からなら無制限、それ以外からでも5人まで登録できることになり、マーケットは事実上世界に広がりました。外国からより安いコストでいい選手を獲得できる可能性が生まれたわけです。

この新しい可能性を積極的に生かそう、というのが、わたしたちの取った戦略でした。財政的に制約のあるウディネーゼのような中小クラブにとって、チームの戦力を高めるための方法は、結局のところ、自前で選手を育てるか、才能のある選手を他よりも早く発掘し安く獲得するか、その2つしかありません。わたしたちは、後者の道を行くことを選びました。リクルーティングの網をイタリアだけではなく世界に広げることで、より大きなアドバンテージを得ようとしたのです」

カルチョの世界に生きるというよりは、敏腕ビジネスマンを思わせる風貌と話しぶり。実際に、マリーノGDの話の中には、ビジネス用語がひんぱんに飛び出してくる。

「我々が選んだのは、長期ではなく中期の投資です。17〜23歳の、素材というよりは完成品に近い人材をリクルートし、2〜4年かけてレギュラーとして通用するレベルまで育てて、選手としての商品価値を高める。自前の育成部門に力を入れているアタランタが投資信託を買っているようなものだとすれば、我々は株式市場に直接投資しているようなものですね。リスクはやや高いが、リターンも大きい」

ウディネーゼが取ったこの戦略のユニークさは、他の多くのクラブ(特にビッグクラブ)のように、即戦力として使える外国人選手を獲得する“目先の”チーム強化には走らなかったところにある。そのかわり、若くて無名の、しかし将来性のある選手を安く獲得し、時間をかけて育てるという形で、“移籍市場のグローバリゼーション”のメリットを生かそうとしたのだ。もちろん、同じような視点を持っていたクラブは他にもあった。

しかし、ウディネーゼほど短期間のうちに徹底してこの路線を進めたクラブは他にはない。ボスマン判決後の97年以降、ウディネーゼは若くて将来有望な無名選手を毎年10数人、世界中から発掘して、契約を交わしてきたのだ。

「今、ウディネーゼが保有している選手は70人に上っています。そのうち30人は、オランダ、スロヴェニア、ベルギー、フランス、ブラジルなど国外のクラブにレンタルで貸し出しています。3〜4年かけてじっくり育てる方針なので、特に若い選手は、プレッシャーの少ないリーグで試合に出ながら経験を積ませた方がいいのです」

これだけの数の選手を発掘するのは、もちろん簡単な仕事ではない。充実したスカウト網と評価眼、そして組織力が不可欠である。
「現在、スカウトはイタリアに15名、国外に10名、計25名います。主な発掘のターゲットは、U-16からU-18までのユース年代、地域的には、東欧を含むヨーロッパ全域、南米、アフリカ、オセアニアまでをカバーしています。日本を含む極東地域はまだ弱いですね」

 海外担当のスカウトが手がかりにしているのは、世界各地で行われている試合のTV中継だ。ウディネーゼのオフィスには、12台のTVモニターと衛星デコーダー、ビデオデッキを備えたモニタールームがあり、欧州、南米各国のリーグ戦はもちろん、アフリカやオセアニアの試合すらも見ることができる。

ロッカーに収められたビデオテープのストックも膨大なもの。そのすべてには、ターゲットとなる選手のリストと評価のコメントをつけた、いわば“通信簿”のようなレポートが添えられている。評価の対象となる選手は、1年間で1000人以上に上るという。この“スクリーニング”で興味深い選手が見つかると、より詳細なリサーチが行われ、それを繰り返す中で候補が絞られていくという仕組みである。

98-99シーズン以降、ザッケローニ時代の主力が抜けたチームで、その穴を埋めて活躍したのも、こうして世界各地から発掘された(当時は)無名の選手たちだった。グイドリン監督の下で得点王を獲得し、700億リラ(540億リラ+フィオーレ)でパルマに移籍したマルシオ・アモローゾも、96年にウディネーゼが支払った移籍金は、わずか36億リラでしかない。

ヴェルディ川崎のサテライトからグアラニに戻り、一時はセレソンの10番を背負ったものの、膝の怪我で1年間のストップを強いられて表舞台から消え去っていたところを、復帰直後に安く買い叩いたのだ。これができたのは、確かな評価眼があってこそである。

今シーズンの得点王争いでシェフチェンコ(ミラン)、バティストゥータ(ローマ)に次ぐ3位を走っているアルゼンチン人FWロベルト・ソーサ、多くのビッグクラブから熱い視線を集めているデンマーク代表MFマルティン・ヨルゲンセンも、ウディネーゼが獲得した当時は、まったく無名だったのだ。

「3〜4年かけて育てた選手を、投資を上回る移籍金で売却して利益を上げ、それをまた再投資することが、基本的なサイクルです。もちろん、獲得した選手すべてが期待通りに育ってくれるわけではありません。しかし、70人抱えていれば、“保険”としては十分です。何人かの選手を売却しながらチームの戦力を維持していくことは、これからも可能だと考えています。

原則として、ひとつのポジションに最低でも3人、選手を確保しておくというのが、我々の方針です。ちょうどオリンピックの表彰台のようなものですね。金メダルの選手を売っても、次には銀メダルの選手が控えている。そうして空いたポストには、順繰りで新しい人材が補給されていくというわけです。逆に、どんなにオファーがあっても、後継者が育っていない選手は手放しません。それをやったらチームの戦力は保てなくなってしまいますから」
 
ウディネーゼのトップチームには現在、28人の選手が登録されている。そのうち外国人選手は13人にも上る。出身国も、デンマーク、オランダ、ベルギー、スペイン、ブラジル、アルゼンチン、チリ、パラグアイ、ガーナと、欧州、南米、アフリカにまたがっている。この文字通りの多国籍軍を率いるのが、監督就任2年目を迎えたルイジ・デ・カーニオ。言葉も文化も生活習慣も違う選手たちをひとつのチームとして率いていくというのは、様々な困難が伴う仕事に違いない。

「国内外から発掘した若い選手に投資するというのがクラブの方針ですから、監督である私にとっても、それが仕事に取り組む上での大前提です。これだけ色々な国から選手が集まったチームを率いるのは、もちろん私にとっても初めての経験です。

彼らの様々な文化やメンタリティを少しでも理解するためにも、観察と対話は欠かせませんし、サッカーに限らず幅広く、彼らについて学ばなければなりません。ひとりひとりの選手の力、そしてチームの力を高めていくためには、そうした努力も監督として不可欠なのです。もちろんクラブも、イタリア語のレッスンをはじめ、あらゆる面で新しい選手をサポートしますし、この数年でそのノウハウも蓄積されてきました。

それに、ウディネーゼでは、新たにチームに加わった選手に、すぐ結果を求めることはありません。イタリアの環境とサッカーに慣れるための時間を十分に与えます。選手にとっても、もちろん私にとっても、これは非常にいいやり方です」

穏やかで落ち着いた物腰をどんなときも崩さず、決して感情の起伏を表に出さないデ・カーニオのパーソナリティは、情熱的なイタリアの監督たちの中では異彩を放っている。しかし、その内側に驚くほどの芯の強さを秘めていることは、話していればすぐに気がつく。

「クラブと私との役割分担ははっきりしています。長期的な経営戦略に基づいて選手を売買し、毎年競争力のあるメンバーを揃えるのはクラブの役目。与えられた選手の能力を伸ばし、チームの力を最大限に引き出して戦うことが監督である私の仕事です。オフシーズンのチーム作りに関して、私がリクエストするのは、どのポジションを強化する必要があるか、どんなタイプの選手が必要か、ということだけです。具体的な名前は出しません。

一旦チームの顔ぶれが固まったら、そこからどの選手を起用しどんなサッカーをするかは、私が責任を持って決めることです。クラブが介入してくることはまったくありません。この環境には満足しています。これだけよく組織され、計画性を持って運営されているクラブに出会ったのは初めてですし、私はずっとそういうクラブと仕事をしたいと思っていましたから。

ウディネーゼの目標は、クラブの組織力と、若い選手たちのモティベーションの高さを通して、周囲を驚かせるような結果を挙げることです。具体的には、セリエA定着が最低限。それを苦しまずに確保した上で、ビッグクラブ勢のすぐ後に続くポジションを確保し、ヨーロッパの舞台でも毎年戦い続けることができれば理想です」

今シーズンのウディネーゼは、そのヨーロッパで戦うために、プレシーズンの7月からインタートトを戦った。真夏のトーナメントに見事勝ち残って手に入れたUEFAカップ出場権だったが、11月の2回戦でパオク・サロニコ(ギリシャ)に不覚を取り敗退。しかし、コッパ・イタリアでは、このインタビューの前日に行われた準々決勝でラツィオを破り、クラブ史上初めてのベスト4進出を決めている。
 
常にビッグクラブの背後に迫る好成績を残しながら、財政的にも堅固な基盤を築きつつあるウディネーゼ。次のステップは、10年前のパルマのように、ビッグクラブへの仲間入りを果たすことなのだろうか?マリーノGDにそれを訊ねると、帰ってきたのは次のような答えだった。

「残念ながらそれは不可能な話です。ウディネーゼの財政規模は年間650-700億リラで、地方の中小クラブの域を大きく出るものではありません。むしろ、このスケールで何ができるかを模索した結果が、今の姿なのですよ。ビッグクラブの資金力には太刀打ちできませんし、これからもするつもりはありません。でも、これだけ高いレベルでチームの成績とクラブの財政を両立させているクラブは、他にはほとんどないということは、強調しておきたいですね」■

(2001年1月21日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。