セリエAはとっくにシーズンを終え、メジャーな世界はすっかりヨーロッパ選手権モードに入っていますが、22チームで戦うセリエBはこの週末まで続いていました。昨日の最終節では、先日取り上げたキエーヴォに続き名門ボローニャがセリエA昇格を決めています。

3つある昇格枠の残りひとつは3〜6位の4チームによるプレーオフで争われることになります。レッチェとピサ、アルビノレッフェとブレシアが6月4日と8日にH&Aで戦い、その勝者が11日、15日にやはりH&Aで決勝というスケジュール。ユーロが始まってもまだ戦いは続くというわけです。

さて、今回取り上げるのは昇格を決めたボローニャ。といっても、もう7年前の話なので、クラブの状況は当時から大きく様変わりしています。チームは04-05シーズンの終わりにパルマとのプレーオフに敗れてBに降格、それと前後してクラブの経営権もアルフレード・カッツォーラ(ボローニャ見本市会場の社長)の手に渡り、スポーツディレクターをはじめとするスタッフも大きく入れ替わりました。

当時の「中期計画」は影も形もありません。こういう栄枯盛衰の激しさもまた、カルチョの世界の現実です。そういう観点から読んでいただければ、古い話もそれなりに興味深いのではないかと。

bar

90年代半ばにセリエC1、セリエBで連続優勝を果たし、96/97シーズンにセリエA昇格。それから4年間の成績が7位、8位、9位、11位。過去2シーズンはUEFAカップに連続出場。クラブの財政規模(年間売上高)は600-700億リラで、“ビッグ7”に次ぎセリエA中位…。

これがどこかの小さな地方都市のクラブのプロフィールだったら、まさに理想的といえる内容だろう。しかし、人口40万人を誇るイタリアで最も豊かな都市のひとつに本拠地を置き、過去にスクデット7回を誇る屈指の名門クラブのものであるとなれば、話はちょっと違ってくる。

ボローニャFC1909。その“歴史と伝統”から言えば、ビッグ3に次ぐ“格”を誇るクラブのひとつである。セリエAの草創期・1930年代にはユヴェントス、インテルと並んで3強と呼ばれ、戦後も常に5-6位が指定席、63/64シーズンには“グランデ・インテル”とのプレーオフを制して7度目のスクデットも獲得するなど、80年代初頭までの成績は、トリノ、フィオレンティーナ、ローマ、ナポリといった「中堅クラブ」の間でも、誇るに値するものだった。

しかし、80年の八百長スキャンダルに何人かの選手(現レッジーナ監督のコロンバもそのひとり)が巻き込まれたのに続き、82年に経験したクラブ史上初めてのセリエB降格を契機にして、ボローニャはこれら同格のクラブより一足先に“没落貴族”への道を歩み始める。B落ちの翌シーズンにはそのままセリエC1へ急降下。

その後すぐにBに復帰し、80年代の終わりに一度はセリエA復帰を果たしたものの、3シーズンでBに逆戻り。そしてセリエC1へ再度の降格が決まった93年には、クラブが破産し、裁判所の管理下で競売にかけられるという存続の危機に追い込まれた。

かつてはセリエAで最も層が厚かった「中堅クラブ」が、90年代に入って成長組と没落組に二分され、その結果ビッグクラブとプロヴィンチャーレへの“二極化”が進展したことは、前回ウディネーゼを取り上げたときにも見たとおり。しかし、没落組の中でも、セリエC1降格、そして破産という深刻な事態を経験したのは、ボローニャだけだ。

そのどん底から伝統あるクラブを救い出したのが、現在のオーナーであるジュゼッペ・ガッツォーニ・フラスカーラ会長。地元の名家の出身で、オックスフォードに留学してふたつの学位を取得したエリート実業家である。競売での「落札価格」はわずか85億リラ(当時のレートで約6億円)でしかなかったが、クラブはその何倍もの負債を抱えていた。

新オーナーの下でセリエC1からの再出発を図った93/94シーズン、セリエB昇格という大きな任務を委ねられたのは、当時、アリーゴ・サッキの影響を受けた若手監督グループの中でもとりわけ評価の高かったアルベルト・ザッケローニ(現ミラン)だった。

しかし、開幕してみれば優勝を義務づけられたはずのチームは中位に低迷し、ザッケローニは12試合で解任、エドアルド・レーヤ(現ヴィチェンツァ)と交代するが、結局この年はセリエC1グループAで5位と、昇格を果たせずに終わる。

浮上が始まったのは、翌94/95シーズンからのことだ。チーム部門の総責任者であるスポーツディレクター(以下SDと略記)にガブリエーレ・オリアーリ(現インテルSD)が就任し、監督には「昇格のエキスパート」と呼ばれていたベテランのレンツォ・ウリヴィエーリ(現パルマ)が招聘された。

現在も主力としてチームを支えるカルロ・ネルヴォ、クリスティアーノ・ドーニ(現アタランタ)などを擁していたこのボローニャは、セリエC1グループAを記録的な勢いで勝ち上がると(24勝9分1敗で81ポイントを叩き出し、2位に22ポイント差をつけてダントツの優勝)、続く95/96シーズンにも、フランチェスコ・アントニオーリ(現ローマ)、ミケーレ・パラマッティ(現ユヴェントス)、ステーファノ・トッリージ(現パルマ)などをメンバーに加え、混戦のセリエBを制して6シーズンぶりのセリエA昇格を見事に勝ち取る。

その後2シーズンの、ウリヴィエーリ率いるボローニャの健闘ぶりは、覚えている方も多いだろう。バーリからケネット・アンデション(現フェネルバーチェ)、ユーヴェからジャンカルロ・マロッキ(昨シーズン限りで引退)、インテルからダヴィデ・フォントラン(現カリアリ)など、百戦錬磨のベテランを補強して望んだA昇格1年目の96/97シーズンに、早くも7位に食い込む健闘を見せ、コッパ・イタリアでもベスト4に進出。

ミランからロベルト・バッジョ(現ブレシア)という大目玉商品を手に入れた翌97/98シーズンは、序盤戦こそ下位を低迷するものの、バッジョがチームと噛み合うと共に勢いを取り戻して8位でシーズンを終え、ヨーロッパの舞台(UEFAカップ)への登竜門、インタートト・カップの出場権を確保する。このシーズンを最後にチームを去ったウリヴィエーリ監督の置きみやげだった。

それからさらに2年半を経たいま、セリエA中位に安定した地位を築くところまで持ち直した名門・ボローニャは、しかし、国際的な人気と注目度、そして1000億リラ単位の財政規模を誇る“ビッグクラブ”の輪に加わることはできずにいる。

ボローニャのライバルといえば、伝統的には同規模の都市フィレンツェを背景に持つ宿敵フィオレンティーナの名前が挙がるのだろうが、現状ではむしろ、チームの成績からいっても、クラブの経営面から見ても、真の競争相手は前回取り上げたウディネーゼだろう。

そのウディネーゼは、時代の変化に敏感に反応し、大胆な“国際的青田買い戦略”にいち早く取り組んで、「プロヴィンチャーレ」から「新・中堅クラブ」へと成長しつつある。それに対して、旧・中堅クラブ勢の中でいまも“中堅”であり続けている唯一の存在である名門・ボローニャは、どのようなビジョンと戦略を持って21世紀に臨もうとしているのだろうか?
 
ボローニャは、イタリア半島の付け根、交通の要所に位置する人口約40万人(フィレンツェとほぼ同じ)の中都市である。世界最古の大学を誇る学問と文化の都であるだけでなく、商工業も盛んで、イタリアで最も豊かで暮らしやすい都市としても知られている。

だが、スポーツという観点から見ると、ボローニャはイタリアでは特異な存在である。この都市で最も人気の高いスポーツは、カルチョではなくバスケットボール。というのも、ボローニャは、ヨーロッパ屈指の水準を誇るプロバスケットリーグ(セリエA1)で毎年スクデットを争う最強の2チーム、キンダー・ヴィルトゥスとPAf・フォルティトゥードが本拠地を置く、イタリアNo.1の“バスケット・シティ”なのだ。

80年代から90年代前半にかけて、ボローニャFCがセリエB、Cに低迷する一方でバスケット人気が大きく高まったことで、「ボローニャを代表するスポーツはバスケット」というイメージ(と実体)が、市民の間にも定着する結果となった。ボローニャで町全体を巻き込んで盛り上がる“ダービー”といえば、ヴィルトゥス対フォルティトゥードのことなのだ。ボローニャFCは同じ都市の中に、市民の人気や注目度、そして観客動員を争う強力なライバルを抱えているというわけだ。

都市の規模としてはまったく同じながら、誰もがフィオレンティーナの動向に一喜一憂するフィレンツェとは、市民にとってのカルチョの、そしてクラブの位置づけが大きく異なっているのである。事実、2年ほど前にイタリアの大手調査会社Abacusが推計した数字によれば、ボローニャのサポーター数は、町の人口とほとんど変わらない45万人。「全国区」といっていいフィオレンティーナ(100万人)の半分にも満たない「地方区」なのである。 

さて、ボローニャFCのクラブハウスと練習場は、この都市のシンボルであるふたつの塔がそびえる街の中心部から車で15分ほど西に走った郊外、カステルデーボレ地区にある。今は、倉庫や工場などが並ぶ工業団地のはずれに位置しているが、門衛の老人によれば「かつてはただの田舎だったんだけどね」とのこと。

芝のフルコート3面に囲まれたクラブハウスは、大幅な改装の真っ最中だったが、98年7月からクラブ運営の総責任者、ゼネラル・ディレクター(以下GD)を務めるオレステ・チンクイーニのオフィスは、すでに改装が終わって真新しいデスクが備えられていた。

「ボローニャは、スクデット7回という名門クラブであるにもかかわらず、セリエAのトップグループ、いわゆるビッグクラブには加われずにいます。彼らと我々の最も大きな違いは、資金力です。

今の時代、その資金力を左右するのは、衛星有料TV局との個別契約から得る放映権料なのですが、ボローニャはこれが年間170億リラしかありません。セリエA下位のプロヴィンチャーレと変わらない額です。ミランやインテルの4分の1以下、ナポリやフィオレンティーナの3分の1以下なんですよ。

放映権料を決めるのはペイ・パー・ビューで試合を見てくれるファンの数ですが、ボローニャの場合はバスケットとの競合が大きなマイナスに働いているのです。もちろん、大都市のビッグクラブのように、大金持ちのパトロンがついているわけでもありません。残念ながら、資金力の格差はチームが揃えられる戦力の格差でもあります。

これは受け入れざるを得ない現実です。したがって、今の環境でわれわれが望めるのは、いわゆるビッグクラブのすぐ後ろ、わかりやすくいうと“順位表の左側”(上位9チーム/イタリアのTVでは通常、リーグ戦の順位表は左右9チームづつ2列に分けて表示される)を維持するところまでです。インタートト圏内、ということですね」

UEFAカップ圏内(セリエA6位以内)ではなくインタートト圏内(8位以内)というところが、ボローニャの置かれた微妙なポジションを象徴している。ヨーロッパを舞台に戦う国際的なメジャークラブと、国内リーグだけしか活躍の場がないマイナーな中小クラブを分ける線上に立っているのが、現在のボローニャなのだ。

セリエAに復帰して5シーズン目。このところ、ガッツォーニ会長の口からも、またグイドリン監督の口からも「ボローニャは中期的なプログラムに従って運営されている」という発言がよく聞かれる。これはもちろん、現在の地位を維持する基盤を固め、長期的にはさらに上を目指すためのものだろう。それでは、その基本となるクラブの経営戦略はどのようなものなのだろうか?

「TV放映権料やマーケティングから大きな収益を上げることが難しい以上、クラブの収入を高めるためには、選手をビッグクラブに売却して利益を得るしかありません。それに、ビッグクラブとの年俸の格差がこれだけ大きくなると、ビッグクラブからオファーを受けた選手を引き留めておくことは事実上不可能です。2倍、3倍の年俸を断念してボローニャに残る選手は誰もいませんからね。

トッリージ(現パルマ)、昨シーズンローマに移籍した3人(アントニオーリ、マンゴーネ、リナルディ)、K.アンデション(現フェネルバーチェ)、パラマッティ(現ユヴェントス)、みんなそうして手放さざるを得なかった選手です。ビッグクラブとの資金力格差が縮まらない限り、この状況は変わらないでしょう。

そうなると我々も、選手を育ててビッグクラブに売却することで利益を上げ、それを再投資しながら戦力を保ち続ける仕組みを構築する、という方向を目指さざるを得ません。そのためにチームの若返りを図り、若手の発掘と育成を進めて行く、というのが、我々が今取り組んでいるプログラムです」

チームの若返り/若手の発掘と育成/選手のビッグクラブへの売却。方向性としては、アタランタやウディネーゼといった“プロヴィンチャーレの優等生”が採っているそれと変わらない。しかしちょっと待ってほしい。

ボローニャといえば、セリエAに復帰してから現在まで、どちらかといえば、ビッグクラブから獲得した経験豊富なベテランを中心としたチームづくりで戦ってきたクラブではなかっただろうか?少なくともこれまでのボローニャからは、そうしたプロヴィンチャーレ的な方向性を読みとることは難しいように見えるのだが…。

「私がフィオレンティーナからボローニャに来たのは、98年7月のことです。前任者のオリアーリがパルマに去った時、ガッツォーニ会長からオファーがきたのです。その時点ですでに、若返り、若手の発掘と育成を進めるという方向性で、会長も私も合意していました。

ただ、98/99シーズンに関しては、前任者のオリアーリによってチームの顔ぶれがほとんど固まっており、マッツォーネ新監督の下でインタートト・カップがスタートしようとしていました。ですから、実際に新しい方向性に動き出したのは、その翌年、つまり昨シーズンからということになりますね」

事実、オリアーリが手がけた98/99シーズンのボローニャは、ベテランを重視するマッツォーネの思想が反映されたチームだった。補強も、ジュゼッペ・シニョーリ、ジョヴァンニ・ビーア、クラス・インゲソン(現レッチェ)といった即戦力が中心で、レギュラーの中で25歳以下の若手は、アレッサンドロ・リナルディ(ラヴェンナから獲得)とジョナサン・ビノット(開幕後にヴェローナから獲得)の2人だけ。

シーズンが開幕すると、クラブの経営事情も視野に入れてチームの世代交代を進めようとするガッツォーニ会長、チンクイーニGDと、ピッチの上での結果だけを追い求めベテランを重視して戦おうとするマッツォーネ監督との間には、すぐに摩擦が生まれた。

このシーズンを通して、ガッツォーニ会長とマッツォーネ監督の間にまったく会話がなかったというのは有名な話だ。にもかかわらず、インタートト・カップを勝ち上がりUEFAカップに進出したチームは、セリエA、コッパ・イタリアを合わせ3つのコンペティションで、予想を上回る快進撃を見せつける。

前線のK.アンデションを攻撃の基準点に、両サイドのビノット、フォントランがクロスを供給し、シニョーリがゴールを量産するというシンプルながら効果的なサッカーで、ボローニャはUEFAカップ、コッパ・イタリアともに準決勝進出を果たし、セリエAでも9位。インテルとのプレーオフも制して翌シーズンのUEFAカップ出場権(コッパ・イタリア枠)まで手に入れた。

しかし、おそらくセリエA復帰後最も実りの多かったこの98/99シーズンは、ボローニャにとっては色々な意味で“過渡期”にあたるシーズンでもあったようだ。C1からスタートしたウリヴィエーリ時代の4年間(94/95〜97/98シーズン)は、まずセリエAに復帰し定着することだけを目標に、がむしゃらに走る以外にはなかった。

しかし、セリエAで安定した基盤を築き、将来的にはクラブの“歴史と伝統”にふさわしい地位を取り戻そうとすれば、目先のことだけを考えているわけにはいかない。何よりも、セリエAまで短期間で這い上がるための先行投資(とクラブが抱えていた負債)による累積赤字が無視できない規模にまで膨らんでおり、これ以上の赤字を積み重ねることは許されなかった。

経営的にも、そしてその基盤となるチームづくりについても、明確なビジョンと戦略に基づく、中・長期的なプログラムを固めるべき時期が来ていたのだ。これまでの流れの延長上で目先の結果を追い求めながら、将来を見据えた新たなプログラムもスタートさせる。ふたつのコンセプトが、時には錯綜しながらオーバーラップした1年だったというわけだ。

「確かにマッツォーネとは、彼の求めた選手をクラブが獲得しなかったことなどで、多少の摩擦がありました。しかし彼の監督としての仕事は評価と尊敬に値するものでしたし、我々はそれに心から感謝しています。ただ次のシーズンに関しては、新しいプログラムに基づいたチーム作りに取り組むために、彼の続投は諦めざるを得ませんでした」

チンクイーニの立場からはこうしたソフトな言い方になるが、マッツォーネにとっては、このシーズンを通じてクラブから受けた扱いは我慢できないものだったようだ。シーズン最終戦となったインテルとのプレーオフを制した直後、マスコミにありったけの不満をぶつけた場面は、今も多くの人々の記憶に残っている。

いずれにせよ、クラブとしては、向かうべき方向はすでに明確になっていた。あとは、“目先の結果”と“将来への投資”のバランスをいかに取っていくか、ということだけが問題だった。

事実、昨シーズンのボローニャは、守備陣をブロック単位(GKアントニオーリ、DKリナルディ、マンゴーネ)でローマに譲り渡したこともあり、ジャンルカ・パリウカ(インテル)、ジュリオ・ファルコーネ(フィオレンティーナ)といったベテランも補強したものの、その一方でニコラ・ヴェントラ(インテル/共同保有)、ピエール・ウォメ(ローマ)を獲得するなど、控えめながらも<チームの若返り/若手の発掘と育成/選手のビッグクラブへの売却>という路線の第一歩を踏み出していた。

そして、ガッツォーニとチンクイーニが選んだ次期監督は、ウリヴィエーリの下で4年間ヘッドコーチ(兼GKコーチ)を務め、前年はプリマヴェーラ(18歳以下のユースチーム)を指揮していたセルジョ・ブーゾ。その風貌から“キートン”の愛称を持ち、誰からも尊敬される真摯な性格とサッカーに関する博識で知られる研究家肌の監督は、しかし、開幕からわずか2ヶ月で更迭されることになる。

「私は基本的に、シーズン途中で監督を替えることには反対する立場です。しかし、この時だけは他の選択肢がありませんでした。ブーゾ自身が、ボローニャの監督というポストがもたらすプレッシャーに耐えられなかったのです。その理由はひとつではないでしょう。チームが彼についていかなかったとか、試合の内容が悪かったとかいう問題でないことだけは確かです。運が良かったのは、その時にグイドリンがフリーだったことです」

94/95シーズンからの4年間で、ヴィチェンツァをセリエBからカップウィナーズ・カップの準決勝まで引き上げ、98/99シーズンにもウディネーゼを率いて7位という上々の成績を残すなど、その手腕が高い評価を受けてきたフランチェスコ・グイドリンは、そのシーズン終了後に、クラブに無断でサラゴサ(スペイン)と接触したことで、オーナーのジャンパオロ・ポッツォの怒りを買って解任されたため、TV解説者として“浪人生活”を送っていたのだった。

しかし、いくら有能なグイドリンとはいえ、歯車が狂ったチームをシーズン途中で引き受け、それを立て直すのは簡単ではない。シーズン半ばで何人かの選手(トンネット、ダル・カント、オルランドーニ)を手当てしながら戦ったものの、後半戦になって崩れ、結局インタートトにさえ手が届かない11位でシーズンを終えることになった。

マッツォーネからブーゾへチームを引き継ぐ時点でスタートしたはずだった“新しいプログラム”も、監督がグイドリンに交代したことで、少なくともチームづくりに関しては、改めて見直しをせざるを得なかった。その意味では、ガッツォーニ会長、チンクイーニGD、グイドリン監督の3人が、中期的な視点に立って構想を描き、それに基づいてチーム作りが進められた今シーズンが、ボローニャにとって真の意味でのリスタート初年度ということになる。

「私もグイドリンも、2003年6月まで契約があります。それまでの3シーズン、チームの戦力とクラブの財政のバランスをより高いレベルで取りながら、長期的な発展の基盤を築くことが我々の目的です。まず最初に取り組んだのは、チームの平均年齢を大幅に引き下げることでした。

昨シーズンは30歳を大きく越えていましたが、今年はそこから5歳下がって26歳台になっています。補強する選手を選ぶ基準も大きく見直しました。もう、ビッグクラブから選手を取ることはしません。ビッグクラブが放出する選手は、通用しなかった若手・中堅か、役目を終えたベテランかのどちらかです。こうした選手は、給料は高いけれどそれに見合うだけのモティベーションを失ってしまっている場合が大半なのです。

これからボローニャが取るのは、意欲と野心がある有望な若手選手か、ボローニャのようなクラブでプレーすることが最終目標になるようなベテランのどちらかだけです。具体的な名前を挙げれば、前者がクルスやウォメ、ある意味ではロカテッリもそうです。後者はオリーヴェ、リマ、パダリーノなど。

もちろん、財政的な視点から見れば、活躍した後ビッグクラブに売却できる若手でチームを構成できればいいのですが、チームの核になるベテラン選手はやはり必要です。これからの数年間で、さらに年齢を下げて行きたいと思っていますが…」

<チームの若返り/若手の発掘と育成/選手のビッグクラブへの売却>という路線を軌道に乗せるには、それなりの時間が必要である。セリエAで最も早くそれに取り組んだウディネーゼにしても、撒いた種が育ち、実りをもたらすようになったのはこの1〜2年のことだ。その点からみれば、ボローニャはウディネーゼに3〜4年遅れをとっているということにはならないか?そう訊ねると、チンクイーニの表情が一瞬険しくなった。

「ウディネーゼのことはあまり話したくありませんね。いち早くこの路線に取り組んだ彼らが、育てた選手を売りそこから得た利益を再投資するというサイクルに入っていることは確かです。まだ我々はそこまでは行っていません」

ボローニャのような名門がウディネーゼのような新興勢力の後を追っているというのは、カルチョの世界が変革の時代を迎えていることを象徴する事実だ。チンクイーニは続ける。

「しかし我々も、若手の発掘と育成には着実に取り組んでいるのです。育成部門からは、チプリアーニ(FW)、ガンベリーニ(DF)といった選手が育って来ましたし、アーセナルから17歳のニッコロ・ガッリ(DF・80年代にミラン、イタリア代表でGKを務めたジョヴァンニ・ガッリの息子。1年前にフィオレンティーナの育成部門からアーセナルが引き抜いた)を獲得したのもその一環です。

そして、長期的な視点に立って、フランスのオーゼール、ナント、モナコといったクラブを模範にした寄宿舎制の育成センターを整備するというプロジェクトもスタートしようとしています。16〜17歳の才能ある選手を地元はもちろん、国際的なレベルで20〜25人スカウトし、学業もケアしながら時間をかけて育てようというものです。すでに今も、プリマヴェーラではフランス人が3人、スウェーデン人、ブラジル人が各2人、シエラ・レオネ人が1人、プレーしていますが、これをもっと徹底して進めようと考えています。

そのために、この近くに育成部門専用のスポーツセンターを確保し、20〜30億リラかけて必要な施設を建設しているんですよ。これは時間がかかるプロジェクトですが、クラブの将来にとっては大きな意味を持つことになるでしょう」

セリエC1転落、破産というどん底から再出発して8年。ボローニャはやっと、セリエA中位に不安のない足場を固め、明確なヴィジョンと戦略の下で新たなステップを踏みだそうとしている。

ただし、その到達点は、ビッグクラブの仲間入りをすることではなく、あくまで、常に“順位表の左側”に位置する“二番手グループの優等生”の地位を保ち続けることだ。その意味では、ウディネーゼと同様、ボローニャもまた「新・中堅クラブ」と定義することができるかもしれない。

最後につけ加えれば、ボローニャが近い将来、ビッグクラブの仲間入りを目指す方向に路線変更する可能性がないわけではない。昨年12月、これまでクラブの株式を100%保有していたガッツォーニ会長が、ミラノ郊外に本拠を置き投資顧問、保険業などを手がけるAREAグループを率いる53歳の実業家、フェデリコ・トラッリに株式の10%を譲渡し、役員としてクラブ経営陣に迎えたのだ。

トラッリはボローニャ出身で、鉛管工から叩き上げて一代で財をなした敏腕経営者。もちろん、筋金入りのボローニャ・サポーターである。トラッリの資金力と経営手腕が、ボローニャの中・長期戦略にどんな影響を及ぼすかは、注目する必要があるだろう。ただし、カルチョの世界ほど「予定は未定」という言葉が如実に当てはまる世界は他にはない。トラッリの経営参加に期待するのは、シーズン終了後を待った方がよさそうだ。■

(2001年2月5日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。