たまには毛色を変えてサッカーとは(ほとんど)関係のない食い物話でも。2年ほど前、創刊したばかりの『STARsoccer』誌のために12ページのナポリ特集をひとりで書きました。ナポリは当時まだセリエC1に低迷していたのですが、サッカー絡みのディープな街特集を、というリクエストに応えて都市ナポリをいろいろな角度から取り上げた、ちょっとマニアックな内容でした。これはその中に個人的な趣味でねじ込んだ、「本場のナポリピッツァ食べ歩き」の原稿。

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ナポリはピッツァ発祥の地だ。
1889年にピッツァ職人エスポージト某が、当時のイタリア王妃マルゲリータに献上して云々……、という黎明期のエピソードから100余年。ナポリからの移民がアメリカに持ち込み、そこから世界中に広まったこの食べ物は「ピッツァ」から「ピザ」(またはピザパイ)へと名前を変え、あらゆる異文化との出会いとその影響による変容を経た末に、今ではハンバーガーと並び、世界で最も愛される軽食のひとつとなるに至った。NYやトーキョー、シドニーやモスクワでは、テリヤキ、マヨネーズ、パイナップル、タラコ、海苔、想像力の限りを尽くしたトッピングを乗せたピザを味わうことができる。

だがナポリではまだ、それらの変容を受ける以前の原型、いわば母なる「原ピッツァ」が、あらゆる街角に生き残り、庶民の胃袋を満たし続けている。それは、世界中のいかなる「ピザ」とも別物だ。

それを食わずしてナポリを語るなどおこがましい、というわけで早速、地元の誰に聞いても必ず名前が挙がる、ナポリ指折りのピッツェリア「ダ・ミケーレ」を目指す。1875年開店の老舗、などと聞くと、どんなに雰囲気のある名店だろうと思うかもしれないが、外見からはそんな印象はかけらも感じられない。怪しい雰囲気漂う煤けた街角にある、間口一間の古くてぼろっちい店構えだ。

メニューは、マルゲリータとマリナーラという、最もシンプルかつ正統派の2種類のみ。品書きに「もり」と「ざる」だけしかない蕎麦屋みたいなもんである。ちなみに、マルゲリータはトマトソースの上にモッツァレッラチーズを散らし、バジリコの葉を飾ったもの、マリナーラに至っては、トマトソースの上に、オレガノ、ニンニク、バジリコという“薬味”を散らしただけ。素朴を通り越してストイックなほどの潔さだ。値段はどちらも1枚3ユーロ50セント。はっきりいって馬鹿みたいに安い。

飲み物は、水、コーラ、ファンタオレンジ、ビールの4種類しかなくて、ビンのまま、白いプラスチックの使い捨てコップとともに供される。すべて1ユーロ20セント。店のお兄ちゃんは愛想がいいどころかむしろ素っ気無く、ただひたすら客をさばいていくのみ。

余計な飾りもサービスも一切なし。そんなスパルタンな殿様商売(?)にもかかわらず、ナポリ人にはとても愛されている。ここんちのピッツァじゃないといやだ、という人がたくさんいるのだ。

その証拠に、もう昼時を過ぎた午後2時半ごろだというのに、店の前には15人くらいの人が待っている。観光客は見当たらない。中に入ってすぐのところにあるキャッシャーで人数を申告し、10分ほど待って呼ばれると空いた席に容赦なく案内される。当然相席ね。

そしてやって来たピッツァは、いかにも大雑把に手でこねて伸ばしましたという不規則な楕円形だ。コルニチョーネ(額縁)と呼ばれる外周がふっくら膨らんでいるのはお約束。チーズは、トマトソースの赤い海に点在する島のようなもので、拍子抜けするほど少ない。

しかし、よく寝かせてじっくり発酵させた、ちょっと酸味を感じさせる生地、甘さすら感じさせる芳醇なトマトソースとのバランスを考えると、チーズはこのくらいの方がいい。これ以上多いと、チーズの濃厚な味が支配的になって、生地の風味が隠れてしまうような気がするからだ。腰があって噛むほどに味わいが出てくる生地。ナポリピッツァの本質はここにある。

マルゲリータの材料は、薄力粉、酵母菌、トマト、モッツァレッラ、バジリコ、ちょっぴりのオイル、この6つだけだ。あまりにもシンプルなつくりなので、素材の違いや職人の腕がそのまま味に出る。小細工が一切きかない世界なのだ。しかし、ここに挙げた材料だけならナポリだけでなく他の土地でも、日本やニューヨークでだって、手に入れることは可能だ。職人の腕も、修業によって身につけられる。でもひとつだけ、どうしてもナポリ以外では手に入らないものがある。

「ナポリから外に出ると、ピッツァもコーヒーもおいしくないのよ。この味はナポリでしか味わえない。それは水が違うからなのよね」というのが、相席になった女の子の解説だ。火山地帯で石灰岩質の山から流れてくる水は、ミネラル分が多い硬水だ。それがナポリならではの味わいを決定づけている。

近年ナポリでは、この母なるナポリピッツァの伝統を守り伝えるために、「真のナポリピッツァ協会」が設立されて、積極的な活動を行っている。この協会に加盟しているピッツェリアは、市内だけでも20以上に上る。どこに行ってもハズレはないという評判だ。この協会には日本支部もあって、すごく活発に活動しているとも聞く。

ただし、この「ダ・ミケーレ」は協会に所属していない。きっとそういうことには興味がないのだ。昔からのやり方を頑固に守りながら、実直にそしてたくさん働き、最高のものを安い値段で多くの人々に提供する。自分の目の届く以上のことはしたくないから、メニューを増やしたり店を広げたり値段を上げたりはしない。そういう頑固な職人気質がこの店の伝統なのだろう。それがナポリの庶民に愛されている理由でもある。
 
もちろん、「ダ・ミケーレ」だけがナポリのピッツェリアではない。そもそも、「もり」と「ざる」しかない蕎麦屋が特殊なように、マルゲリータとマリナーラしかないピッツェリアは、ナポリといえどもここんちくらいのものだ。協会加盟店を含めて、ほとんどすべてのピッツェリアは、様々なトッピング(テリヤキやパイナップルはないけれど)を乗せた豊富なバリエーションを擁している。

スパッカナポリと並行して走るトリブナーリ通りには、「ダ・ミケーレ」と並び称される老舗「ディ・マッテオ」をはじめ、協会加盟店が4軒も集まっているし、スタジアムの近く、カンピ・フレグレイ駅のすぐ前にも「カファッソ」という、いい感じに煤けたピッツェリアがある。ここのマルゲリータも「ダ・ミケーレ」に遜色のない味わいだった。

ピッツァ以外でナポリの名物となると、やはり港町ならではのシーフード、そしてパスタだろう。多くのピッツェリアはトラットリア(大衆食堂)も兼業しており、ピッツァだけでなく普通のイタリア料理メニューも用意している。

あまり知られていないけれど非常にナポリらしいのは「ジェノヴェーゼ」というパスタソース。タマネギ、ニンジン、セロリとハーブ類を、アメ色になるまでひたすら水で煮詰め、塩で味付けしただけのシンプルなものだ。ジェノヴェーゼというのはジェノヴァ風という意味。イタリアではジェノヴァ人はケチで通っている。肉も使わずにタマネギやニンジンだけで作ったケチくさいソースなので、そういう名前がついたのだという。

ナポリ以外のどこに行っても、ジェノヴェーゼというとバジリコのペーストを指すものだが、ナポリだけは違うので要注意。発明したのは貧乏な自分たちなのに、ケチな他人の名前をつけちゃうところがなんともナポリ的である。
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(2006年2月5日/初出:『STARsoccer』創刊号)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。