昨日のピッツァに続いて、ナポリのもうひとつの顔であるサルトリア(仕立屋)について。同じ『STARsoccer』のナポリ特集に書いた原稿です。

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「庶民のナポリ」の生活を象徴するのがピッツァでありピッツェリアだとすれば、「高貴なナポリ」を象徴する代表的なシンボルのひとつは、食ではなく衣の分野にある。すなわちサルトリア・ナポレターナ(ナポリの高級仕立て屋)。

イタリア統一のはるか以前から、南イタリアの中心都市として栄華を誇ったナポリでは、支配者としてやってきたフランスのブルボン家やスペインのハプスブルグ家など、ヨーロッパでも名だたる貴族の御用達として、独自の服飾文化が育まれてきた。その伝統と技術を今も受け継いで、ハンドメイドのスーツを専門とする「サルトリア」、すなわち仕立て屋が、この都市には数多く存在している。

折しもメンズファッションの世界では、アルマーニやゼニアをはじめとするデザイナーズブランドがスーツの流行をリードした80-90年代を経て、この数年、英国やイタリアのテーラーメイド、伝統的なスタイルへの回帰が進んでいる。その一端を担う「クラシコ・イタリア」のムーブメントで中心的な役割を果たしているのが、ナポリのサルトリアなのである。

「ラ・ヴェーラ・サルトリア・ナポレターナ」、「ルビナッチ」、「イザイア」、「ボッレッリ」など、プレタポルテの既製服を展開しているブランドは、日本でも注目され人気を集めている。

だがサルトリア・ナポレターナの世界はまだまだ奥が深い。ナポリには、プレタポルテは一切やらず、今なおフルオーダーの注文服だけを作っている老舗のサルトリアがちゃんと残っているのだ。

その筆頭ともいえるのが、創業1780年というイタリア最古のサルトリア「チレント」である。225年の歴史をちりばめたミュージアムのような店内で、8代目当主のウーゴ・チレントさんは語る。

「うちは元々服地を扱う商社でした。一部の限られた顧客のために、職人を雇って仕立てまでやるようになったのが始まりです。だから創業以来ずっと注文服だけでやってきました。生地から始まって、テイスト、カッティング、細かいディテール、すべて私自身がお客様と相談しながら詰め、仕様が決まったら型紙を起こしてハンドメイドで仕立てます」

工房に抱える腕利きの職人は8人。1ヶ月に仕上げるスーツやジャケットは、合わせて20着ほどという。顧客リストにはナポリの貴族や資産家はもちろん、イタリア、ヨーロッパの上流階級が名を連ねている。

「ナポリのサルトリアの多くは、規模を大きくして既製服も展開し、外国にも進出しています。私のところにもそういう提案や売り込みは引きも切らないのですが、すべて断っています。今後も決してやらないでしょう。顧客の顔、私の顔が見えない仕事はできません。

当主自らが情熱を注いでひとりひとりのお客様のために洋服を作る。それがチレントのやり方です。そのためにここまで来てくれる方がたくさんいる。シャツやネクタイまで含めて、チレントのタグがついた商品は、すべてこの店で私から買っていただかなければならないのです」

そこまでのこだわりを持つテーラーの注文服は、さぞかし値が張るだろうと思いきや、標準的な生地を使った場合、スーツは1着1200ユーロ(18万円弱)から、シャツは130ユーロ(2万円弱)前後で作れるという。もちろん安くはない。でも、イタリア最古のテーラーでフルオーダーで仕立てることを考えれば、決して高いとはいえない。いや、日本でクラシコ・イタリア系のプレタポルテについている値札を考えたら……。

昔からのやり方を頑固に守りながら、実直にそしてたくさん働き、最高のものを妥当な値段で提供する。自分の目の届く範囲を越えてまで事業を広げることはしない。ふと気がつくと、仕事に向かう姿勢は「ダ・ミケーレ」のそれとまったく一緒である。ピッツァと注文服、商売や社会階層が違っても、ふたつの老舗は働き者のナポリ人気質でしっかりとつながっていたのであった。■

(2006年2月5日/初出:『STARsoccer』第2号)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。