引き続きフィオレンティーナ関連の話。ドイツ・ワールドカップを前に、13年ぶりにフィレンツェで代表マッチが行われた時の話です。この時はドイツの弱さに唖然としたものでした。その4ヶ月後にあんな死闘を演じることになるのですから、わからないものです。

まったく関係ないのですが、珍しくサッカー関連以外のメディアで仕事をしました。全日空の機内誌『翼の王国』2月号、メインの第1特集に、イタリアを代表する蒸留酒グラッパの故郷であるバッサーノ・デル・グラッパを取り上げた記事を寄稿しました。

全20ページ。ネタは、227年の歴史を誇るグラッパの「本舗」ナルディーニ社、そして現在セリエC2で戦っている地元のクラブ、バッサーノ・ヴィルトゥスです。結局ネタはカルチョだったりするわけですね。ローマ在住のカメラマン高橋在さんの写真も非常に素晴らしいので、2月中に全日空にご搭乗の機会がある方は、是非ご一読を。

bar

先週の話になってしまうが、3月1日のイタリア対ドイツは、リッピ監督の「脱・カテナッチョ路線」がついに完成を見たこと、見ているこちらが心配になるほどドイツの出来が酷かったことなどを含め、注目点の多い試合だった。

ピッチ上で起こったことは起こったこととして、もうひとつ興味を引いたのは、試合開始前の式典が異様に長く続いたことだった。

この日の試合は夜9時開始ということになっていたのだが、蓋を開けてみると、9時1分前に選手が入場してから、国歌吹奏の後、フィレンツェ市長から両チームキャプテンへのEU旗贈呈、フィレンツェ大司教からの人種差別反対メッセージ朗読といったどうでもいい儀式が10分以上も続く。結局、試合開始のホイッスルが吹かれたのは、9時15分近かった。

ひどく意外だったのは、この退屈な儀式の間じゅう、スタンドを埋めた観客がブーたれたり口笛吹いたりせずに、最後まで大人しくつき合っていたこと。

この日は代表マッチだったので、普段ならコレッティーヴォ・アウトノモ・ヴィオラという強面のウルトラスが支配しているゴール裏(クルヴァ・フィエーゾレ)にも、一般市民の皆さんがたくさん入っていたはずだが、それを差し引いても、普段から皮肉屋でからかい好きのフィオレンティーニ(フィレンツェ人)にしては、ちょっとあり得ないほどのお行儀の良さである。

これはまたどうしたことか、と思ったら、クルヴァの前に張られた大きな横断幕にこんな文句が書いてあった。「歴史、芸術、文化、連帯、そしてカルチョ。これがフィレンツェだ」

フィレンツェは、日本でいえばJヴィレッジにあたる施設であるイタリアサッカー協会のテクニカルセンター、チェントロ・スポルティーヴォ・コヴェルチャーノを擁するなど、アズーリにとってはミラノ、ローマ、ナポリと肩を並べる、重要な都市のひとつである。にもかかわらず、ここアルテミオ・フランキで代表の試合が行われるのは、なんと13年ぶりのことだった。

これは、1993年に行われた代表マッチ、イタリア対メキシコの親善試合で、クルヴァ・フィエーゾレを埋めたヴィオラサポがなんとメキシコの応援に回り、サッキ監督率いるアズーリにブーイングの口笛を浴びせまくるという出来事が起こり、それ以来フィレンツェは鬼門として避けられていたからである。

当時のイタリア代表では、フィオレンティーナの宿敵ユヴェントスの選手が数多くプレーしており、その中にはヴィオラを「裏切って」ユーヴェに移籍したロベルト・バッジョがいた。可愛さ余って憎さ百倍。3年以上まえの移籍劇を根に持ち続けていたヴィオラサポは、かつてのヒーローをブーイングで迎えるという挙に出たのだった。

このエピソードには、激怒したFIGC(イタリアサッカー協会)が、あらゆる手を使ってフィオレンティーナを叩き、そのシーズンの終わりにはセリエB降格に追い込んだ、というオチまでついている。ことの真偽はもちろん不明だが、少なくともヴィオラサポが本気でそう信じ込んでいることは確かだ。それ以来、FIGCとフィレンツェの関係は冷えきったままになっていた。しかし、こんな状態をいつまでも続けているわけにはいかない。

そういう事情ゆえ、今回のドイツ戦開催に当たって、FIGCとフィレンツェ市当局はかなり綿密な「仕込み」をしたようだ。ゴール裏のウルトラスに対しては、イタリア代表を応援したくないのなら、その選択は尊重して受け入れる、ただし、わざわざブーイングの口笛を吹いたりネガティヴなコールをするつもりなら、今回はスタジアムに来ないで家にとどまっていてほしい、という根回しが行われたと伝えられる。その時の殺し文句は、あの時FIGCの顔を潰してBに落とされたのを忘れたのか、というものだったらしい。

昨シーズンも、フィオレンティーナのオーナー、ディエゴ・デッラ・ヴァッレが、ユーヴェ、ミランなど主流派が支配するレーガ・カルチョ(日本のJリーグに当たる組織)に叛旗を翻し、その後たびたび審判から不利な判定を喫してB落ちの危機に瀕した。それが記憶に新しいだけに、この脅しは効いたようだ。

でもまあ、ウルトラスの方にしてみたら、まあそこまで言うんなら今回は顔を立ててやろう、という程度の話だろう。彼らにとっては、アズーリなんかよりもヴィオラの方がよっぽど重要で真剣な問題なのだから。ゴール裏の横断幕も、今回はフィレンツェもお行儀よくしといてやるから安心しな、というメッセージのように見えた。

実際、試合前の式典は、まるでフィレンツェとFIGCの手打ちの儀式のようだった。フィオレンティーナのシンボルとして長く君臨しながら、新フィオレンティーナにはなんのポジションも用意されなかった「ヴィオラ永遠の10番」、ジャンカルロ・アントニョーニに、イタリアでは珍しい始球式をやらせてみたり、フィレンツェ市長やフィレンツェ大司教に栄えある主役の場を作ってやったりというのも、そういう文脈で読み解けば非常に納得が行く。

まだ肌寒い中(気温は5-6度だった)、入場してから15分近くも棒立ちで待たされた選手は気の毒だったが。

試合開始のホイッスルが吹かれてから6分後に、スコアがすでに2-0になっていたのは、ドイツの選手がこの長い式典の間に身体を冷やしてしまったからかもしれない。というか、もしそうじゃないとしたら、クリンスマンにとって状況はかなり深刻である。■

(2006年3月6日/初出:『エル・ゴラッソ』連載コラム「カルチョおもてうら」)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。