ミランはどうやらミハイロヴィッチ監督も1年限りということになりそう。栄光の時代はもう見る影もないという惨状ですが、それもこれもオーナーであるこの方が終わりなき迷走状態に入ってしまったことが原因です。政治家としてはほぼ息の根が止まり、ビジネスも総本山の投資会社フィニンヴェストがかなりの苦境、さらにミランの株式譲渡も見通し立たずと、帝国は完全に衰退局面に入ってきました。WSDにこのバイオグラフィを書いた2011年当時より状況はずっと深刻です。
「世界で最も多くのタイトルを勝ち取ったプレジデンテ(会長)」。
ACミランのオーナー、シルヴィオ・ベルルスコーニは、自らをこう呼んではばからない。1986年2月に、破産寸前だったミランの経営権を買い取り、87-88シーズンに初めてのタイトルであるスクデットを勝ち取って以来、手に入れたトロフィはこの10-11シーズンのスクデットで27個目。確かにこれは、レアル・マドリーの伝説的な会長サンチャゴ・ベルナベウの25個を上回る最高記録だ。
ベルルスコーニは、プロサッカーの世界に初めてビジネスの発想と手法を大胆に持ち込むことで、イタリアのみならず欧州サッカー界全体にひとつの歴史的な変化をもたらした、エポックメイキングなクラブオーナーである。スクデットとチャンピオンズリーグの両方を狙うなら2チーム分の選手を買い揃えればいいという「パンキーナ・ルンガ」(長いベンチ)の考え方や、ライバルの戦力を削ぐためならば市場価格を上回る大金を投じてでも優秀な選手をすべて買い占めてしまえばいいという発想は、それまでのサッカー界には存在しなかった。
そもそもベルルスコーニは、ビジネスマンとしても時代の寵児だった。1936年、ミラノ郊外の住宅地に一介の銀行員の息子として生まれ、大学卒業後に実業家を志して小さな建設会社を設立、ここがすべての出発点だった。
「エディルノルド」(北部建設)と名付けたこの会社を、10数年間でミラノ有数の不動産開発会社に発展させると(その過程でマフィアから資金の提供を受けたと囁かれている)、今度は小さな民放局をひとつ買い取ってマスメディアの世界に参入、その後イタリア各地の民放局買収を繰り返すと、それらをすべてつなぎ合わせ、ほんの数年で国営放送局RAIに対抗する民放ネットワーク「メディアセット」を築き上げた。さらに広告代理店、新聞社、出版社にまで買収の手を広げて、80年代半ばには一大メディアグループのオーナーとなる。
こうして実業界の風雲児となったベルルスコーニが、次に狙いを定めたのがプロサッカークラブだった。カルチョが最も大きな社会的関心事となっているイタリアでは、セリエAのクラブのオーナーとして成功を収めることが、国民的な知名度と人気を集める上で、最も効果的な手段である。国際的な大企業のオーナー社長になってもその顔は誰も知らないが、セリエAのマイナークラブのオーナーでも名前と顔なら誰でも知っている。
1986年、当時のオーナー、ジュシー・ファリーナの放漫経営で破産の危機に瀕していたミランの経営権を買い取って会長に就任したベルルスコーニが一番最初にやったのは、ヘリコプターでミラネットに乗りつけ、リードホルム監督、選手、そしてスタッフ全員と食事を共にし、彼らにカルティエの銀杯をプレゼントすることだった。「この銀杯で皆さんとともに勝利の美酒を味わう日が遠からず来ることをお約束しよう」。
それからの数年間、ベルルスコーニは従来の常識を根底から覆す大胆かつ斬新な試みを繰り返してイタリアの保守的なサッカー界を席巻し、文字通りの新時代をもたらすことになる。
当時の移籍市場の値札とは桁違いの大金を投じてトッププレーヤーを次々に買い集めると(最初の「買い物」はドナドーニとマッサーロだった)、そのチームを当時セリエBのパルマで指揮を執っていた無名の若手監督アリーゴ・サッキに委ねる。セリエAでまったく実績を持たないばかりか、プロサッカー選手としての経験すらない頭でっかちの理論家にチームを任せるというベルルスコーニの選択を、マスコミは素人扱いして批判を浴びせた。
ところが、4-4-2のプレッシングサッカーという最先端の戦術をチームに根付かせたサッキは、就任1年目にスクデット、2年目に欧州チャンピオンズカップを制すると、その勢いのまま89年12月のトヨタカップにも勝ち、わずか2年半で世界の頂点に駆け登ることになる。
そして1991年、サッキがイタリア代表監督に転身すると、それまで監督としての実績がほとんどなかったファビオ・カペッロを後任に選ぶ。これも人々を驚かせた人事だった。カペッロはミランを最後に現役を引退した後、育成部門のコーチを経て、ベルルスコーニが設立した総合スポーツクラブ『ポリスポルティーヴァ・メディオラヌム』(野球、ラグビー、バレー、バスケット、ホッケーといった種目のセミプロチームを持っていた)の総責任者を務めていた。トップチームの監督を勤めた経験は、サッキが就任する前のシーズンに前監督が解任された後を受けた、たった5試合しかなかったのだ。
だがそのカペッロは、就任1年目にセリエA無敗優勝という偉業を達成すると、その後も4シーズンで3回のスクデットを勝ち取るという、素晴らしい結果を残すことになる。サッキ、カペッロという2人の名監督を「無から」発掘し、抜擢した眼力の確かさこそ、ミランの会長としてほんの数年間でこれだけの成功を収めた、最大の要因だったといえるだろう。
ほんの数年でミランを世界最高のクラブに仕立て上げたことで、圧倒的な評価と名声を築き上げたベルルスコーニは、1994年、今度はそれを利用して政界に打って出る。『フォルツァ・イタリア』というサポーターグループもどきの政党を立ち上げると、自らのTV局をフルに活用して「新製品の市場プロモーション戦略とほとんど変わらない」と言われるほどの選挙キャンペーンでTVや新聞を埋め尽くして庶民の人気を勝ち取り、総選挙に圧勝、あっというまに首相の座に上りつめてしまった。
だが、政界への進出によって超多忙となったベルルスコーニに、ミランのために割く時間はさすがに残されていなかった。それ以降、ミランの経営は買収当時から片腕として働いてきたアドリアーノ・ガッリアーニ副会長の手に委ねられ、ベルルスコーニは政治家としての活動に専念することになる。中道右派の領袖として、94-95年、2001-05年、2008年から現在までと三度にわたってイタリア首相を努めていることは周知の通り。
しかしもちろん、政界に進出しても重要な試合にはスタジアムまで足を運び、しばしばミランの選手起用や戦術についてマスコミで発言するなど、ミランのオーナーとしての存在感と影響力を人々に誇示することだけは忘れていない。ミランの人気と成功は、今もなお政治家ベルルスコーニのイメージを支えるシンボルであり続けているからだ。
98-99シーズン、アルベルト・ザッケローニがガッリアーニが選んだ監督として初めてスクデットを勝ち取った時には「私がボバンをトップ下で使うように指示したことが、最も大きなターニングポイントだった」とうそぶいた(それを否定してオーナーの顔を潰したザックは、2年後に解任の憂き目に遭うことになる)。
2002年から2009年まで監督を務めたカルロ・アンチェロッティに対して1トップではなく2トップの布陣を要求したり、現監督のマッシミリアーノ・アッレーグリに対してもロナウジーニョ、イブラヒモヴィッチ、パト、ロビーニョの同時起用を求めるなど、この種の現場介入は今も続いている。すべては、「世界で最も多くのタイトルを勝ち取ったプレジデンテ」というイメージを保ち続けんがための振舞いだ。
そんなベルルスコーニも今や70代半ば。そろそろ政治家としてのキャリアも終幕に近づいてきた。彼が実業家として一代で築き上げたマスコミから金融・保険にまで及ぶ一大帝国「フィニンヴェスト・グループ」の実権は、娘のマリーナ、息子のピエルシルヴィオ(いずれも80年代に離婚した前夫人との間に生まれた子供)という2人の子供の手に委ねられている。
問題は、2人がいずれもカルチョに興味を持っておらず、父からミランを引き継ぐ意志を持っていないことだ。「フィニンヴェスト」はこれまで、ミランが毎年垂れ流す数千万ユーロの赤字を資本金の積み増しという形で穴埋めし続けてきた。この赤字補填は、政治家ベルルスコーニにとっては、そのイメージを保つために不可欠な“必要経費”である。しかし、マリーナとピエルシルヴィオにとって、ミランはいまや単なる“父の道楽”でしかない。
2年前の夏、「フィニンヴェスト」がミランに対する赤字補填を止めると宣言したのも、マリーナの強い意向によるものだった。ミランはその穴埋めのため、カカをレアル・マドリーに売却しなければならなかった。ミランの赤字額とカカの売却益がいずれも6800万ユーロという数字だったのは、だからまったく偶然ではない。この時には、「ベルルスコーニは、数年後にはミランを売却しようとしているのではないか」という憶測も飛び交った。
しかしベルルスコーニは昨夏、「ミランとミラニスタへの“レガーロ”(プレゼント)」として、開幕直前にイブラヒモヴィッチ、ロビーニョの獲得にGOサインを出すなど、改めてミランに積極的に関わろうという姿勢を見せている。
これは、このところスキャンダルや刑事訴追などで政治家としてのイメージダウンが著しいため、その挽回を狙っての動きだという見方が専ら。だが、理由はどうあれ、ベルルスコーニの「ミラン離れ」に歯止めがかかったことで、大部分のミラニスタはほっと胸をなで下ろしている。
この2月には、現夫人との間に生まれた娘である26歳のバルバラがミランの取締役に就任、ベルルスコーニ家が世代を超えてミランに関わって行く姿勢を改めてアピールした。少なくとも当面は「世界で最も多くのタイトルを勝ち取ったプレジデンテ」の時代は続いて行くのだろう。□
(2011年5月11日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)