イアキーニ監督をクビにしたと思ったら、後任に呼んだバッラルディーニがチームを掌握できずに2ヶ月で解任、その後釜に今度はアルゼンチンから双子のバロス・スケロット兄弟を招聘するなど、今シーズンも「監督喰らい」の名声にふさわしい暴君ぶりを発揮しているパレルモのザンパリーニ会長。でも名前が有名な割に「首切り」以外のプロフィールについてはあまり知られていないような気がします。というわけで、WSDの不定期連載「フットボール紳士録」に寄せたバイオグラフィをどうぞ。

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ヴェネツィアのオーナー会長としてカルチョの世界に身を投じた1987年以来、現在までの24シーズンで行った監督交代は延べ41回。信じられない監督解任癖でその名が知られるイタリアきっての名物会長だが、弱小ヴェネツィアをセリエC2(4部リーグ相当)からセリエAに引き上げ、2002年に「鞍替え」したパレルモ(当時セリエB)もわずか数年でCL出場権争いの常連クラブに成長するなど、その経営手腕でも一目置かれる存在だ。

マウリツィオ・ザンパリーニは1941年、イタリア北東部のフリウリ地方生まれ(69歳)。若くしてゼロから事業を始め、その腕ひとつで莫大な財産を築いたセルフメイド・マンである。

21歳で単身故郷を出て、ミラノから50kmほど北にあるロンバルディア州の小さな町ヴェルジャーテで、自動車や暖房設備の排気パイプを製造する会社を始めたのがすべてのスタート。10年後にはその会社を畳んで、家具・家電・DIYなどの量販店を集めた大型ショッピングセンター「メルカトーネ・エンメゼータ」をヴェルジャーテに設立すると、同じタイプのSCをイタリア各地に展開して事業を拡大していった。ちなみに、イタリア語でエンメはM、ゼータはZのこと。MZはマウリツィオ・ザンパリーニの頭文字である。

「エンメゼータ」はその後20年あまりで、北はフリウリから南はシチリアまで全国に19拠点を持つ一大ブランドに成長する。ザンパリーニは2000年にその株式をフランスの大型チェーン「コンフォラマ」に売却して巨万の富を築いたが、その後もそれを元手に新たなSC建設・運営事業を続けている。

パレルモの郊外に建設が進んでいる最新の施設は、地元で「ザンパセンター」と呼ばれる大型SC。しかし、今でも事業の本拠は創業の地ヴェルジャーテに置かれており、週に一度、パレルモとの間を自家用ジェット機で往復する日々を送っている。

カルチョの世界に「参入」したのは、事業が軌道に乗り大きな成功を収め始めた80年代後半のこと。10代の時には6部リーグのクラブでフォワードとしてプレーしていた経験も持つ筋金入りのサッカー狂でもあり、事業の成功で富を築くに連れて、その情熱がサッカークラブのオーナーという夢に向けられたのは、しごく自然なことだった。

実業家としての成功をもたらした大胆な発想と決断力は、カルチョの世界への参入にあたっても大きな役割を果たす。1987年にセリエC2のヴェネツィアを買収すると、そのシーズンオフには、ヴェネツィアと海を挟んで橋ひとつで隔てられている対岸の町のクラブ・メストレ(同じC2で戦っていた)の経営権も手に入れ、周囲の反対を振り切って歴史的なライバル関係にあるふたつのクラブを合併させたのだ。この強引な手法はサポーターや地域から大きな反感を買ったものの、ザンパリーニは結果によってそれを黙らせた。

合併1年目の87-88シーズンには早速セリエC1に昇格、その3年後、90-91シーズンには、現日本代表監督アルベルト・ザッケローニを擁してセリエB昇格を果たす。直情的で忍耐力を欠いた監督解任癖はこの当時からの特徴で、ザッケローニも昇格翌年のセリエBでは途中解任と再就任、続く92-93シーズンにはまたも途中解任と再就任を繰り返すという憂き目に遭っている。

会長としては、選手補強から試合の采配まですべてに渡って「金も出すが口も出す」という典型的なイタリアのワンマン会長。言ってみれば「暴君タイプ」である。

ザッケローニはB昇格1年目の91-92シーズンの途中解任劇を「前半戦が終わって上位につけており、チーム状態はすごく良かったのに、冬のメルカートで会長が私の意見を無視して新たな選手を2人補強したおかげで、チーム内部のバランスが崩れて何もかも壊れてしまった」と述懐している。頻繁な監督解任も、チームの成績や戦いぶりに納得が行かないと選手起用や采配にすぐに介入したがり、それに監督が耳を貸さないことに耐えられないためだ。

ヴェネツィアとメストレを合併させ、セリエAまで引き上げたザンパリーニには、ヴェネツィアの陸地側にあるメストレにショッピングセンターつきの新スタジアムを建設し、自らのビジネスとチームの財政強化の一挙両得を図ろうという野望があった。ところがその構想に市当局や地元財界は協力しようとせず、具体化の見込みは立たないまま。

クラブとしての市場(サポーター数)にもビジネス(スタジアム)にもこれ以上成長と発展の見込みがないことを覚ったザンパリーニは、2002年、当時セリエBで戦っていたパレルモの経営権をローマのフランコ・センシ会長(当時・故人)から買い取ると同時にヴェネツィアを売却、FWマニエーロ、ディ・ナポリ、MFサンターナ、モッローネ、マラスコなど主力選手をごっそり引き抜いて連れていくという形で、大胆かつ強引な「国替え」に踏み切った。

人口27万人のヴェネツィアが元々サッカー熱が高いとはいえない土地柄で、しかもザンパリーニの構想に非協力的なのに対し、パレルモは周辺地域も合わせれば人口100万人を超える大都市であり、しかも南部ならではのサッカー熱に満ちている。本業のSC事業でもシチリアへの進出・拡大を目論んでいるところだった。長年下部リーグに低迷するクラブを見てきたパレルモの人々が、セリエA昇格を公約して乗り込んできた新会長を熱狂的に迎え入れたことは言うまでもない。

「実業家としてどんなに成功して大金持ちになったところで、世間での知名度なんてたかが知れている。でも、セリエAのクラブの会長になれば、老若男女誰でも名前と顔を知っている本物の有名人になれる。事業にも成功した。幸せな家庭も築いた。私に足りないのは世間からの注目だけだったんだ」

そう語るザンパリーニにとって、パレルモをもう30年以上遠ざかっているセリエAに引き上げ、救世主のように礼賛されるというのは、想像するだけで堪えられない快楽だったに違いない。

そして彼は実際に、たった2年でA昇格を達成すると、その後の6シーズンで5位3回、1桁順位5回という堂々たる有力チームにパレルモを育て上げた。今やパレルモは、ナポリ、フィオレンティーナといった名門と肩を並べて欧州カップへの切符を争う中堅クラブの雄としての地位を完全に確立した感がある。

監督の首は頻繁にすげ替えるが、クラブ経営の片腕というべきスポーツディレクターに関しては、優秀な人物に目をつけて長い間仕事を任せる冷静さも併せ持つ。セリエB時代の94-95シーズンに同じBのラヴェンナから引き抜いたジュゼッペ・マロッタ(現ユヴェントスGD)は、97-98シーズンにセリエA昇格という形で結実するチームの強化に大きな役割を果たした。

ちなみにこの時監督を務め、続く98-99シーズンにもA残留を勝ち取ったワルテル・ノヴェッリーノは、ザンパリーニの下で2シーズンにわたって解任されずに職務を全うした唯一の指揮官である。

そのマロッタが2000年に去った後、パレルモへの「国替え」と共にヴェローナから迎え入れたのが、その後6年間に渡ってクラブを支えることになるリーノ・フォスキ。ヴェローナ時代にブロッキ、ディアーナ、ムトゥ、フレイ、カモラネージ、ジラルディーノ、オッド、カッセッティといったプレーヤーを見出して成長させたこの名SDは、パレルモでもトーニ、バルザーリ、ザッカルド、グロッソ、キアルといったプレーヤーを獲得して、セリエA上位に定着を果たすところまでチームを強化した。

その間、監督人事の方はフランチェスコ・グイドリンを4回雇って4回解任するというドタバタを繰り返してきたが、フォスキとの蜜月は2008年まで続くことになる。とはいえ、ザンパリーニのように、クラブ経営のすべてに口を挟み、なおかつ自分の意見が聞き入れられないことに耐えられない「暴君タイプ」を忍耐強く説得しながらつきあって行くのは、きわめて負荷の大きな仕事であることは間違いない。マロッタもそうだったが、長くて5-6年が限界なのかもしれない。

その後任に就いたのは、ラツィオのロティート会長から解雇されたばかりだったワルテル・サバティーニ。コラロフ、ムスレラ、ラドゥ、リヒトシュタイナーといった近年のラツィオの中心選手を獲得したサバティーニは、パレルモでもヘルナンデス、パストーレ、イリチッチ、バチノヴィッチなど無名のタレントを次々と発掘・獲得し、世代交代とチーム強化を両立させるという困難な仕事をやってのけた。しかしその彼も昨年11月、ザンパリーニとの確執によって2年あまりでクラブを去ることになった。

この7~8年間を通して補強や選手の年俸に費やしてきた資金力からいえば、パレルモはフィオレンティーナと肩を並べ、ラツィオ、サンプドリア、トリノを上回る水準にある。にもかかわらず、毎年のように監督の首をすげ替え、チームの選手を入れ替えているため、チームとしての中・長期的な継続性は今なお確立されたとは言えない。

外部から見ていると、積み木の家を造っては完成目前に気に喰わなくなって壊し、また一から造り直している子供のように見えることも事実である。だがザンパリーニ自身は平然とこう語る。

「ビッグクラブは金を持っているが、何でも金で解決しようとするため、閃きやファンタジアに欠けている。私はそれを持っている。セリエAの会長たちの中で、本当にサッカーを理解しているのはほんの一握りに過ぎない。私の他にはチェッリーノ(カリアリ)、ポッツォ(ウディネーゼ)、ルカ・カンペデッリ(キエーヴォ)くらいだろう。獲得する選手は必ずビデオでチェックしてからOKを出す。パストーレのビデオを見せられた時には、今すぐ飛行機に乗ってアルゼンチンに行け、こいつを獲得しないで帰ってきたらクビだ、とスカウトに言ったんだ」□

(2010年1月24日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。