前回から移籍関連つながりということで、現在の移籍市場、ひいては欧州サッカー全体の流れを規定することになった1995年のボスマン判決について、その歴史的経緯をおさらいしたテキストで復習しておきましょう。さらに興味を持たれた方は、拙著『チャンピオンズリーグの20年』がこうした側面からも時系列で欧州サッカーの流れをまとめていますので、ぜひご一読を。

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1995年12月に欧州司法裁判所が下した「ボスマン判決」は、欧州プロサッカーの歴史における最も大きなターニングポイントのひとつだ。

ベルギーリーグでプレーしていたひとりの無名選手が、自らの移籍をめぐる所属クラブとのトラブルをきっかけに、ベルギーサッカー協会とUEFAを相手取って起こした訴訟に対し、EU(欧州連合)域内におけるプロサッカー選手の移籍の自由を認めたこの判決は、欧州サッカー界に文字通りの「激震」をもたらした。

この判決によって、契約満了によるフリートランスファーが可能になっただけでなく、EU国籍選手に関する外国人枠が撤廃されたことで、移籍市場の流動化が一気に進展。選手獲得競争の過熱、ビッグクラブと中小クラブへの二極化、グローバリゼーションとビジネス化といった、90年代後半以降の欧州プロサッカーの流れを決定づけることになった。

ベルリンの壁が崩壊し東西ヨーロッパの分断が解消された1990年以降、EUは通貨、市場、労働などさまざまな領域で国境を撤廃し、「統合と自由化」を進めてきた。サッカーの移籍マーケットから国境を撤廃し、市場統合と自由化をもたらしたという意味で、ボスマン判決もまたそうした時代の流れを象徴する出来事だったと言える。

ジャン・マルク・ボスマンは1964年、ベルギーのリエージュに生まれ、地元の名門スタンダール・リエージュの育成部門で育った。ユース時代は代表にも選ばれる有望株だったが、トップチーム昇格後はなかなか出場機会が得られず、1988-89シーズンにRCリエージュに移籍。しかしここでもレギュラー定着には至らなかった。

RCリエージュとの契約は90年6月に満了を迎えたが、財政難で破産の危機に陥っていたクラブは、リーグが定める最低賃金(年俸約150万円)に大幅減俸した上での契約更新を提示。これを不満とするボスマンは、自ら動いてフランス2部のFCダンケルクと移籍の話をまとめた。

しかし当時の移籍制度では、契約が満了しても前所属クラブが同意しない限り移籍は不可能であり、また前所属クラブには移籍金を要求することも認められていた。ボスマンのやり方が気に入らなかったRCリエージュは、ダンケルクに高額の移籍金を要求してこの移籍を阻止。これに反発するボスマンもRCリエージュとの契約更新を受け入れなかったため、無所属のまま実質的な失業を強いられることになってしまった。

ボスマンは親戚の勧めもあり、RCリエージュを相手取って所有権の放棄を求める裁判を起こし、全面勝訴を勝ち取る。しかし、この裁判によって欧州サッカー界における「ペルソーナ・ノン・グラータ」(好ましからざる人物)となったボスマンと契約しようとするクラブは現れず、ボスマンは90年12月から翌年5月までフランス2部のサン・ケチンに所属した後は、インド洋にある仏領レユニオン島のアマチュアクラブ、サン・ドニでプレーするなど、選手としては不遇のまま引退することになった。

このボスマンに目をつけたのが、EU法を専門とする弁護士ジャン・ルイ・デュポンだった。彼はボスマンに、クラブに不当労働行為を許したベルギーサッカー協会、そしてその上部団体であるUEFAを相手取って、ルクセンブルクの欧州司法裁判所で新たな訴訟を起こすことを提案する。

この訴訟は、ボスマンに失業を強いることになった当時の移籍制度は「EU域内における公正な競争と労働者の移動の自由」を認めたローマ条約(EU統合の基本条約のひとつ)に反していると主張し、以下の2点を認めるよう要求するものだった。

1)クラブは、契約が満了した選手の所有権を主張して移籍金を要求することができない(契約満了後の移籍自由化)

2)域内における移動と就労を制限してはならないと定めたEUの労働規約はプロサッカー選手にも適用される(EU域内における外国人枠の撤廃=EU国籍保有者の国際移籍自由化)

これに対して、ベルギーサッカー協会とUEFAも一致団結して反論する。その主張は「選手の自由な移籍を認めない移籍制度は、クラブ間の格差拡大を防いで競争力のバランスを保つために必要」、「プロサッカー選手はローマ条約の定める一般労働者とは異なり、特殊技能を持つ芸術家などと同様の存在であるため、例外的な扱いを受けるべき」というものだった。

しかし、欧州司法裁判所は95年12月、UEFAなどの主張を退け、ボスマン側の要求を全面的に認める判決を下す。この判決が欧州サッカー界にもたらした影響は甚大だった。

契約満了によるフリートランスファーが認められたことで、契約をめぐるクラブと選手の力関係は劇的に変化した。プロ野球には今でも「任意引退」という制度があるが、当時のプロサッカーの移籍制度もそれと同じで、たとえ契約が満了しても選手にはクラブの意思に反して移籍することが許されておらず、選手をクラブに縛りつける力はきわめて強かった。

だがそれ以降、選手には、所属クラブとの契約更新を拒否して契約満了を待ち、フリートランスファーで移籍するという選択肢が生まれた。クラブの側からすれば、年俸を大幅アップして複数年契約を交わすなどの防衛策を取らない限り、選手を引き留めることは難しくなったわけだ。だが、資金力に乏しい中小規模のクラブは、それをやろうとしても限界がある。結果として起こったのは、資金力のあるビッグクラブによるスター選手の獲得合戦の過熱であり、移籍金と年俸の高騰だった。

これに拍車をかけたのが、ボスマン判決のもうひとつの「成果」である外国人枠の撤廃だった。それまではどの国のリーグにも外国人枠があり、ひとつのクラブが契約できる外国人選手は多くて4~5人に限られていた。ところが、EU国籍を持つ選手の移籍が自由化されたことで移籍市場が一気に流動化し、多くのクラブで「国際化」が進展することになった。ここでもその恩恵を最も受けたのは、資金力のあるビッグクラブだった。

ボスマン判決がもたらした影響を象徴するのは、94-95シーズンにCLで優勝を飾ったアヤックス(オランダ)がたどった運命である。クライファート、セードルフ、ダーヴィッツ、デ・ブール兄弟、ファン・デル・サールなど、欧州最高レベルを誇った育成部門生え抜きの主力選手は、その後2~3年でほぼ全員がミラン、バルセロナなどに引き抜かれてチームを去ることになった。ミランに移籍したクライファートとダーヴィッツはいずれも、契約延長を拒否してのフリートランスファーだった。

その一方で、イタリアのミラン、ユヴェントス、インテル、スペインのレアル・マドリーとバルセロナ、イングランドのマンU、アーセナル、チェルシーなどは、豊富な資金力にものを言わせてヨーロッパ中からスター選手を買い集めて、隆盛を誇るようになる。こうしたビッグクラブとそれ以外の中小クラブとの格差が拡大し、持てる者と持たざる者への二極化が大きく進展したことも、ボスマン判決がもたらした大きな変化のひとつだった。

判決から15年が過ぎた現在、イングランド、スペイン、イタリア、ドイツといった大国はもちろん、オランダ、ベルギー、ルーマニア、ギリシャ、トルコといった中堅国においても、登録選手の大半が外国人という「多国籍軍」が珍しくなくなっている。昨シーズンのCLでベスト16に勝ち上がった有力クラブで見ると、80%以上が外国人選手というインテル、アーセナルを筆頭に、登録選手の外国人比率が50%を超えるチームが過半数(10チーム)を占めている。

こうした多国籍化は、自国育成選手の出場機会の減少、それによる代表チームの競争力低下といった傾向(先の南アW杯におけるイングランドとイタリアがその典型)ももたらしており、それに危機感を持つFIFAは近年、ピッチ上に立つ11人のうち自国代表に選出可能な選手を最低6人起用することを義務づける「6+5ルール」の導入を主張しはじめている。ただしこれは、ボスマン判決の根拠となった「EU域内での労働の自由」に抵触するため、当面のところ実現の可能性はない。■

(2010年8月24日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。