冬休み読み物シリーズ、今回は昨シーズン限りで引退して、スカイ・イタリアのコメンテーターとして第二のキャリアをスタートしたアレッサンドロ・デル・ピエーロさんのバイオグラフィです。2006年に出たDVDつきマガジンに書いた長いテキスト。これからさらに10年近く現役を続けたわけで、最終的には幸福なキャリアを送ったと思います。

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ピントゥリッキオ。

本書付録DVDのオリジナルタイトルにもなっている、アレッサンドロ・デル・ピエーロのこのニックネームが、15世紀にイタリアで活躍した高名な画家の名前にちなんだものであることは、ファンの間ではよく知られている。

名付け親は、オーナーとしてユヴェントスを愛し続けたアニエッリ家の先代当主、“アヴォカート”(弁護士)こと故ジャンニ・アニエッリ。デル・ピエーロがまだ20歳の時に与えられたこのニックネームは、いい意味でも悪い意味でも、デル・ピエーロの特徴をこれ以上ないほど的確に捉え、未来を予言した、象徴的な記号となった。

ピントゥリッキオの画風である柔らかさと優美さ、色彩の華麗さは、若きデル・ピエーロの創造性溢れるプレースタイルと、ぴったり重なるものがある。だが、このニックネームには、もうすこし複雑な意味が込められてもいる。それを知るためには“アヴォカート”がどんな文脈の中でデル・ピエーロにこのあだ名を与えたのかを、思い出す必要があるだろう。

それは、デル・ピエーロがユヴェントスのトップチームに本格的なデビューを果たし、見る者の目を見張らせるようなゴールを次々と決めた、94-95シーズンのことだった。

当時のユヴェントスには、ロベルト・バッジョという偉大な10番が君臨していた。しかしバッジョは故障がちで戦列を離れることが多く、その代わりにピッチに立って頭角を現したのが、ほかでもないデル・ピエーロだったのだ。

ある時マスコミから、デル・ピエーロがこれだけ使えるのであれば、バッジョはもう要らないのではないか、と質問されたアニエッリは、向けられたマイクにこう返した。「いや、バッジョがラファエッロなら、デル・ピエーロはピントゥリッキオですよ」。

ルネッサンス時代、ラファエッロとピントゥリッキオは、同じ師匠の下で修業した兄弟弟子だった。ラファエッロは、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチと並ぶ、ルネッサンス三大巨匠のひとり。

一方ピントゥリッキオは、後世に名前こそ残したとはいえ、兄弟子ほどの傑作をものすことはなかった。画家としての格からいえば、ラファエッロは超一流、ピントゥリッキオは単なる一流という位置づけである。

つまり、ピントゥリッキオというニックネームには、その優雅な画風をデル・ピエーロのプレースタイルに例えるという愛情と賞賛の意味合いだけでなく、一流ではあっても真のワールドクラス、超一流の域には達していない、という客観的かつ冷徹な評価も込められていたということだ。

デル・ピエーロ自身、この時のことをあるインタビューで次のように振り返っている。

「アヴォカートがぼくをピントゥリッキオと呼んだのは、愛情の表れであると同時に叱咤激励の意味も込められていました。お前はまだ、偉大なラファエッロと比べたら見劣りする。これからもっと精進して、兄弟子と肩を並べるような偉大な存在になりなさい、と言いたかったのだと思います」

20歳のデル・ピエーロはまさに、いつの日かラファエッロと肩を並べる存在、すなわちミケランジェロやレオナルドになり得るだけの、無限の可能性を秘めた発展途上のプレーヤーだった。そのことは、付録DVDの大部分を占める、デビューから1998年までのプレーの数々が、何よりも饒舌に物語っている。

まだ筋肉の鎧を身にまとっていない、線が細く軽やかな肉体を持つデル・ピエーロは、ボールとの戯れを楽しむかのように、トリッキーなプレーを無邪気に連発してみせる。デル・ピエーロの名を世界に知らしめた、おそらくキャリアの中で最も美しいゴールも、このニックネームを授かったシーズン、94年12月のフィオレンティーナ戦で生まれた。

左サイドバックのオルランドが、ハーフウェイライン付近からペナルティエリアに向かって、長いロングパスを放り込む。それに反応して走り込んだデル・ピエーロは、後方から落ちてくるボールをそのまま右足アウトサイドで合わせ、ダイレクトでゴールネットを揺らしたのだ。

常識を超えたプレーを思いつく創造性、自らのテクニックに対する自信、失敗を怖れることなくそれを実行に移す勇気、ひとかけらの幸運。そのどれが欠けても、決して決まることがなかった、歴史に残るスーパーゴールだった。しかもこれは、3-2の逆転勝利をチームにもたらし、8年ぶりのスクデットに向けて大きく弾みをつける、非常に重要な決勝ゴールでもあった。

この94-95シーズンのプレーには、私たちの知る最良のデル・ピエーロの姿がほとんどすべて詰まっている。スピードに乗ったドリブルで中盤からペナルティエリア左角まで攻め上がると、DFをひとり、ふたりとかわして、GKを巻くような芸術的なシュートをファーポスト際に決める。そんな華麗なゴールを連発して、ペナルティエリア左角付近が“デル・ピエーロ・ゾーン”と呼ばれるようになったのも、このシーズンのことだ。

95年6月、“ピントゥリッキオ”デル・ピエーロの成長を認めたユヴェントスは、“ラファエッロ”バッジョの放出を決断する。この世代交代は、ユーヴェの歴史に新たな栄光の時代の幕開けを記すもとのなった。

95-96シーズンには、チャンピオンズリーグを制覇。96-97、97-98と2シーズン連続でスクデットを勝ち取り、チャンピオンズリーグでも3年連続で決勝進出を果たす。デル・ピエーロは常にその主役だった。

97-98シーズンには自己最高の21ゴールを叩き出す活躍を見せる。23歳にしてついに“ピントゥリッキオ”の枠を飛びだし、真のワールドクラスにふさわしい新たな称号を勝ち取るべき時が来たことを予感させた。シーズン終了後に待ち受けるフランス98こそがその舞台になるはずだ、と誰もが期待していた。

ところが、ワールドカップを目前に控えたシーズン最後の試合、ボルシア・ドルトムントとのチャンピオンズリーグ決勝で、デル・ピエーロは左足ハムストリングに肉離れを起こしてしまう。後から振り返れば、この小さな故障こそが、デビュー以来ひたすら上昇機運が続いてきたキャリアの、大きな分水嶺だった。

故障明けで迎えたワールドカップは、本来は控えとなるはずだったバッジョの活躍の前で、影が薄いまま幕を閉じる。そしてそれから5ヶ月、24歳の誕生日を翌日に控えた98年11月8日、その後のキャリアを決定的に縛ることになる、人生最大の災厄がデル・ピエーロを襲った。

アウェーのウディネーゼ戦の試合終了間際、敵ペナルティエリア内でルーズボールを争って敵DFザンキと交錯。左膝に、外側靭帯断裂、後十字靭帯裂傷、半月板損傷、膝窩腱損傷という大怪我を負ったのだ。

太もも(大腿骨)とすね(頚骨、腓骨)を結ぶ関節である膝の「部品」のうち、無事だったのは前十字靭帯ひとつに過ぎないといえば、どれだけ深刻な怪我だったかが伝わるだろう。

ユーヴェのシンボルとして飛ぶ鳥を落とす勢いで頂点を極めようとしていたその時に負ったこの大怪我は、その後何年もの間、デル・ピエーロを苦しめることになる。

8ヶ月に及ぶリハビリを経てピッチに復帰し、左膝が医学的に100%完治してからも、そのプレーにかつての閃きやキレは戻らなかった。相手を翻弄するはずのドリブルは簡単に阻まれ、何度シュートを打っても、枠を外すかGKに止められるかのどちらか。セットプレーではなく流れの中からゴールを決めるまでに、復帰から1年近い時間が必要だった。

復帰して何ヶ月か過ぎたあたりから、マスコミは「デル・ピエーロはまだ立ち直っていない」「ゴールを決められなくなったデル・ピエーロはもはやかつての彼ではない」といった、厳しいことを書き立てるようになる。そのプレッシャーと戦いながら、デリケートな身体感覚を取り戻し、かつての自分を再構築していくという作業は、簡単なものではなかったはずだ。

怪我から3年近くが過ぎた2001年9月、デル・ピエーロはこう語っている。

「膝の怪我から復帰して、ぼくは事実上ゼロから自分の肉体を作り直さなければならなかった。落ちた筋肉を取り戻すというだけでなく、もっと先に向けて、新たな肉体を作り上げることが必要だった。

もちろん、それまでの経験の蓄積やテクニック、プレースタイルといった、プレーヤーとしての財産がなくなったわけではない。でも、8ヶ月、9ヶ月の間それを使わずにいたから、忘れてしまったものもあった。

9ヶ月ぶりにピッチに立って、ひとつひとつ引き出しを開けながら、自分の新しい肉体に合わせて、役立つものを取り出して使うようになっていった、という感じ。そのプロセスは決して短い時間ではなかった」

復帰1年目、2年目はいずれも9ゴールどまり。本人が「本当の意味で立ち直るきっかけになった」という最愛の父の死(2001年1月)を経て、怪我の後遺症を完全に乗り越え、主役として文句のつけようがない活躍を見せたのは、16ゴールを挙げて4年ぶりのスクデット獲得に貢献した、01-02シーズンのことだった。

ユーヴェは、デル・ピエーロがデル・ピエーロらしさを失っていた間、ずっとスクデットから遠ざかっていたのだ。続く02-03シーズンにもやはり16ゴールを挙げ、ユヴェントスは2年連続優勝を果たす。

新たに作り上げられた肉体は、以前よりもずっと強靱で筋肉質になっていた。ひらりひらりとドリブルで相手をかわす軽快さは失われたが(事実、1対1の突破力は明らかに低下した、その分瞬発力や当たりの強さを獲得し、プレースタイルもよりフォワードらしい直線的なものになった。

膝の大怪我とその後の試行錯誤を経て新たなスタイルを手に入れたデル・ピエーロの姿を、ネガティブに捉える向きもないわけではない。例えば、かつてレアル・マドリードのゼネラル・ディレクターを務め、“銀河系軍団”を世界の頂点に導いたホルヘ・ヴァルダーノはこう評している。

「デル・ピエーロはサッカーの秘密を隅々まで知り尽くした創造的なプレーヤーだ。しかしアスリートとして鍛え上げられた新しい肉体は、その偉大なタレントを表現する術を彼から奪ってしまった」

だが、デル・ピエーロ自身は、こうした見方に真っ向から反論する。

「確かに、あの怪我を境に自分は変わったと思う。でもそれは、より完成されたという意味においてだ。以前、若い頃は、1試合に一度か二度の、テクニックやファンタジーアがあふれる派手なプレーをするのが楽しくて、それを見せられればそれで自分も回りも満足していた。でも、今はそれではまったく不十分だ。むしろ、それはそれで意識しながらも、常に試合の中にいて、コンスタントにチームの中で機能し、その時々で最適なプレーを選択するのが、何よりも大事だと思っている」

24歳の秋に襲った膝の大怪我が、何か大きなものを奪い去ったことは間違いない。キャリアのピークを迎えるべき20代後半の多くを、デル・ピエーロはかつての自分という幻想を追い、そしてそれを乗り越えることに費やさなければならなかった。そして彼は今も“ピントゥリッキオ”のまま、“超一流のトップスター”と“並の一流選手”との境界線のこちら側にとどまり続けている。

2年前にファビオ・カペッロが監督としてユヴェントスにやってきてからは、絶対的なレギュラーの座も失った。カペッロはより長身でパワーがあり、テクニックも兼ね備えた破天荒なタレント、イブラヒモヴィッチを好み、ここ2シーズンは、途中交代やベンチスタートがすっかり増えた。

しかしそんな状況の中でもデル・ピエーロは、チームの一員として監督の選択を受け入れ、与えられたチャンスには文句のつけようがないほどきっちりと、誰もが納得する結果を出し続けている。

昨シーズンは、決して多いとはいえない出場機会にもかかわらず14得点、今シーズンも半分以上の試合でベンチからスタートしながら、11得点(しかもその多くは試合を決める重要きわまりないゴール)を挙げて、2年連続のスクデット獲得に、量的には以前より少ないが、質的にはこれまでと変わらぬだけの貢献を果たした。

31歳という成熟の時を迎えた今、デル・ピエーロは屈託なくこう語る。

「ぼくは以前のデル・ピエーロとは違う。ずっと落ち着いているし迷いもない。結婚したことも大きいけれど、今の時代、ストライカーは常時出場できないものだと理解し納得したことが大きい。そう思えるようになって生まれ変わった」

膝の大怪我という運命の悪戯のおかげで、ミケランジェロやレオナルドにはなれなかった。しかしデル・ピエーロは、偉大なピントゥリッキオとして、そしてユヴェントスのシンボルとして、サポーターから絶対的な支持と愛情を集め、胸を張ってキャリアの終盤を生きている。

皮肉なことだが、近年最も好調なシーズンを送りながら、カペッロ監督のおかげで出場機会を制限されたことで、目前に迫ったドイツ・ワールドカップには、十分にエネルギーを残した万全のコンディションで臨むことができるだろう。これまで期待を裏切り続けてきたアズーリでの最後の大舞台で、不完全燃焼のキャリアに最後の落とし前をつけてくれることを期待しよう。■

(2006年3月14日/初出:『サッカーベストシーン:デル・ピエーロ』コスミック出版)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。