WSD不定期連載「悪童列伝」に書いたテキストがもうひとつ残っていたのでこれも蔵出しします。ちなみに人選はWSD編集部なので、イタリア関係が4人続けてインテル絡みなのは単なる偶然以上ではないかと。これを書いた時点で自伝の日本語版は出ていなかったのですが、その後沖山ナオミさんのすばらしい翻訳で出版されてサッカー本としてはかなりの売れ行きを記録したので、読んだ方にとっては目新しい話はないかもしれません。

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「少年をゲットーから出すことはできる。しかしその心からゲットーを消し去ることはできない」

これは2011年に出版され、スウェーデン本国で50万部、イタリアでも20万部を売るベストセラーとなった自伝『俺がズラタンだ Jag är Zlatan』の中で最も印象的なフレーズのひとつである。

バルカン半島からスウェーデンに移民した両親(父はボスニア人、母はクロアチア人)の下に生まれ、複雑な家庭環境と貧困の中、都市郊外のゲットー(貧困地区)で少年時代を送ったというその生い立ちは、ズラタン・イブラヒモヴィッチというフットボーラーのキャリアとプレースタイルに、決定的な刻印をしるしている。

生まれ育ったのは、スウェーデン第3の都市マルメの郊外にあるローゼンガルド地区。トルコ、旧ユーゴ、北アフリカなどからの移民が人口の大部分を占めるゲットーである。

両親はズラタンが2歳にもならない時に離婚、5人の子供を1人で抱えた母ユルカは、薄給の掃除婦として1日15時間も働き、やっと家族を養えるかどうかという窮状に陥っていた。ゲットーの中で放任状態だった子供たちが道を外れるのはある意味で必然だった。

毎日日が暮れるまでストリートで過ごしていたズラタンも、仲間たちとストリートサッカーに興じるだけでは飽き足らず、万引きや自転車泥棒を繰り返すいっぱしの不良少年、文字通りのバッドボーイに育っていく。

父親違いで年の離れた上の姉2人は、麻薬に手を出すなどして母親との関係が悪化、勘当同然で家を飛び出して今なお没交渉のまま。9歳の時には、母が盗品を預かって窃盗団に協力したとして警察に逮捕されたため、家庭裁判所が親権者として不適格だと判断、ズラタンは父親の下で暮らすようになった。その父はアルコール依存症で、ズラタンが空腹を抱えて家に帰っても、冷蔵庫の中には大量の缶ビール以外に何も入っていないことがしばしばだった。

初めてサッカーチームに入ったのは5歳の時だが、それから13歳でマルメ(地元のトップクラブであると同時にスウェーデン屈指の名門)の育成部門に引き抜かれるまでいくつものチームを転々としたのは、誰の言うことも聞かず好き放題にプレーしては、チームメイトやコーチに悪態をついてばかりいたからだ。

ピッチに立っても、フェイントとトリッキーなボール捌きで目の前の相手を抜き去り、回りの連中に驚きの声をあげさせることだけが歓びであり、それ以外には何の興味もなかった。当時のアイドルはブラジル代表のロナウド。「自分たち移民の子供には関係のない金髪野郎ばかりの」スウェーデン代表は、自分とはまったく無関係の存在だった。

マルメでトップチームにデビューしたのが17歳の時。その2年後に19歳でアヤックスに引き抜かれて国際舞台でもその名が知られるようになったイブラヒモヴィッチは、その後ユヴェントス、インテル、バルセロナ、ミラン、そしてパリ・サンジェルマンと、ヨーロッパのメガクラブを渡り歩いてきた。

アヤックス最後のシーズンとなった03-04からミラン1年目の10-11まで、8シーズン連続で所属チームにリーグ優勝をもたらしてきたという驚愕の事実が示す通り、どのチームでも絶対的な存在として君臨し、誰にも文句のつけようがない結果を残してきた。

にもかかわらず、ひとつのクラブに所属した期間は最長でも3年。どのクラブに根を下ろすこともなく、新たな刺激とより高い年俸を求めて次の舞台に移ることの方を選んできたのも、そうしたアウトロー的なメンタリティゆえだろう。チームの一員として勝利を勝ち取ることよりも、自らが満足できるパフォーマンスを見せる充実感と高揚感の方が、ズラタンにとってはずっと重要なのだ。

それが象徴的に表れているのが、結果的にキャリアで最も不本意なシーズンを過ごし、たった1年で去ることになったバルセロナでのエピソードだ。

インテルで3シーズンに渡って絶対的なエースとして君臨し、3年目には25ゴールを挙げセリエA得点王に輝いたにもかかわらず、強引なやり方でバルセロナに移籍したのは、「インテルではチャンピオンズリーグに勝てないかもしれないと思った」から、そして「世界ナンバーワンのクラブでプレーしてみたかった」からだった。

しかし、「どこに行っても俺のスタイルで通す。誰にも文句は言わせない」というズラタンのやり方は、バルセロナという環境ではあまりにも異質だった。移籍して間もなく、グアルディオラ監督に「ここでは誰もが地に足をつけていなければならない。フェラーリやポルシェで練習場に来ることは許されないんだよ」と、クラブから支給されるアウディでの「通勤」を強要された時には、首を傾げながらもそれに従った。だが時間と共にズラタンは違和感ばかりを募らせるようになっていく。

「バルセロナは何と言うか、寄宿学校のような場所だった。メッシ、シャビ、イニエスタといった世界最高の選手たちが、先生の言うことを素直に聞く優等生のように振る舞っている。とんだお笑い草だ。

イタリアでは、監督が『ジャンプしろ』と言ったら、カンピオーネたちは『どうしてジャンプしなきゃならないんですか、ミステル』と訊ねるのが普通だ。しかしここでは誰もがしつけられた犬のように黙って言うことを聞く。俺には信じられない世界だったね。

俺はマルメ時代から、優等生ぶった奴らの中にいるのは耐えられなかった。俺は赤信号でも堂々と渡るような連中が好きなんだ。自分もそうだからな。俺がいいプレーをするためには怒りが必要だ。怒鳴り散らして暴れなきゃダメなんだ。バルセロナでも開幕からゴールを決め続けていたけれど、俺は完全に自分らしさを失ったような気持ちだった」(自伝より)

バルセロナは、育成年代からひとつの哲学と価値観を共有してきた生え抜きのタレントたち、敢えて言えば「純粋培養」された選手たちによってチームが構成されているという「同質性」こそを最大の強みとする、プロサッカークラブとしてはある意味できわめて特殊なチームだ。自身もその申し子というべき存在であるグアルディオラは、シーズンが進むにつれてイブラヒモヴィッチの異質性を持て余すようになった。

メッシを中央でプレーさせるためにシステムを4-3-3から4-2-3-1に切り替えるという指揮官の選択を「おかげで俺は最前線で孤立するようになった。メッシのために犠牲にされた」と受け取ったズラタンは、その説明を求めるためグアルディオラに直談判を申し入れる。

自伝によれば、指揮官はそれ以来、ズラタンを避けるようになり何ヶ月もの間声をかけることすらしなかったという。最終的に16ゴールを挙げリーグ優勝に一定の貢献を果たしたとはいえ、本来の姿とはほど遠い1年だった。

こうしてたった1シーズンでバルセロナから去らなければならなかったのは、彼のプレースタイルがバルセロナのサッカーに合わなかったことが理由ではない。それ以前にまず、ローゼンガルドのストリートからはい上がるためにズラタンが身につけてきた価値観や哲学が、バルセロナという「優等生ばかりの寄宿学校」のそれとあまりにも異なっており、相容れる余地がなかった。

その意味で、翌シーズン移籍したミランは、ズラタンが最も自然体でいられる場所だった。絶対的な違いを作り出す「カンピオーネ」(偉大なプレーヤー)、「フオーリクラッセ」(超一流)を特別扱いすることを躊躇せず、むしろそうすることで持てる力を存分に発揮させようとするのが、イタリアサッカーの伝統だ。中でもミランはそうしたスター至上主義的なカルチャーを最も強く持つクラブである。

真のバッドボーイは、バッドボーイらしくあることによってのみ輝く。ミランで完全な自由を与えられ、文字通り王様のようにチームに君臨したイブラは、移籍1年目の10-11に7年ぶりのスクデットをもたらし、続く11-12には28ゴールを叩き出して2度目の得点王を勝ち取ることになる。

31歳を迎えた今シーズン、イブラヒモヴィッチはそのミランを離れ、自身にとって7つめのクラブとなるパリ・サンジェルマンに移籍した。アラブの大富豪がカネの力にあかせてかき集めた「傭兵部隊」とも言うべきPSGは、キャリアの最後を飾る上では申し分のない舞台のように見える。そのキャリアに欠けているのは、チャンピオンズリーグのタイトル、そしてバロンドールの称号だけだ。偉大なる傭兵隊長としてそのバッドボーイぶりを遺憾なく発揮し、PSGをヨーロッパの頂点に導くことができれば、最高のエンディングになるのだろうが。□
 
(2012年10月14日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。