冬休み読み物シリーズ第2弾は、好評だったカッサーノに続いてもうひとりイタリアの「悪童」をご紹介。現在はインドスーパーリーグのチェンナイインFCで監督を務め、つい半月前には2015シーズンのプレーオフを制してリーグ優勝を果たしたばかり。イタリアで監督する姿も見てみたいかも。

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2006年のドイツワールドカップ決勝で「ジダンの頭突き」の主役となったほか、様々な「蛮行」で物議をかもし続けた、2000年代のイタリアを代表する「バッドボーイ」のひとり。彼に匹敵する存在は、少なくともこの10年に関してはアントニオ・カッサーノとマリオ・バロテッリくらいだろう。

父は1980年代から2000年代まで足かけ30年近くにわたってイタリアはもちろんポルトガル、ギリシャ、中国のクラブで指揮を執ったプロ監督ジュゼッペ・マテラッツィ。その父が現役選手(MF)としてプレーしていたレッチェで1973年に生を受ける。

15歳で最愛の母を失うという悲劇に直面するも、それを乗り越えてプロサッカー選手への道を志した。17歳の時に父が監督を務めていたメッシーナのプリマヴェーラに入るが、頭角を現すこともなく、父の退任と共に少年時代の多くを過ごしたローマに戻って、アマチュアレベルでは名の知られたトール・ディ・クイントという5部リーグのクラブで20歳までプレーする。

始めて契約したプロクラブは、シチリア島の西の果てにあるセリエC2(4部リーグ)のマルサラ。翌94-95シーズンには同じシチリアのトラーパニ(セリエC1)に移籍し、そこでのプレーが注目されて当時セリエBで戦っていたペルージャに引き抜かれた。当時ペルージャの育成部門ではジェンナーロ・ガットゥーゾがプレーしており、同じ寄宿舎の住人として親交を深めることになる。

プレーヤーとして頭角を現したのは、イングランドのエヴァートンで1年間「武者修業」をした後ペルージャに戻り、セリエAではじめてレギュラー定着を果たした99-00シーズン。続く00-01シーズンには、セルセ・コズミ監督の下で3バックの一角を占めただけでなく、FK、PKのキッカーも務め、ほぼセットプレーだけでDFとしての最高得点記録となる12ゴールを挙げる活躍を見せ、イタリア代表にも招集を受ける。この時すでに27歳という遅咲きの開花だった。

そしてこのシーズンオフ、長身のセンターバックを求めていた新任のヘクトル・クーペル監督によってインテルに引き抜かれ、ついにビッグクラブの一員となる。

193cm、90kgという大型センターバックで、左足のキックは強力かつ正確だが、ディフェンダーとしてはスピードとアジリティに欠けており、体格を利した空中戦の強さ、強引さとマリーシアに満ちたタイトなマークを武器とする、典型的な「武闘派CB」。

アンフェアな言動で相手を挑発するなどダーティな振る舞いで知られる一方、相手に同じような挑発を受けても反発せず、ピッチ上の出来事はピッチとロッカールームの外には持ち出さないなど、古き良き倫理観の持ち主でもあった。

ラフプレーの多い暴力的な選手だという評価は当時から確立されており、インテルに移籍してからのキャリアはそのレッテルとの戦いだったとも言える。一度TVの討論番組で彼のラフプレーが槍玉に上がった時には、TV局に電話をかけて生出演で討論に参加、こんな言葉で自らの弁護に立った。

「俺は図体がデカいから、小さくて機敏な選手と比べればどうしても動作が鈍い。成り行き上、タックルが遅れてしまってファウルになることもある。でも、最初から相手を削ろうと思って、悪意を持ってプレーしたことは一度もない。相手が怪我をするようなタックルで病院送りにしたことだって、一度もないんだ」

「俺はカンナヴァーロやネスタのような才能は持っていない。しかしそんな俺でも、全力を振り絞ってプレーすればまともなディフェンダーとしてなんとかやって行ける。それを誇りに思っている」

確かにその言葉は嘘ではない。あらゆる手段を用いて相手を止めようと、闘争心をむき出しにして常に全力で、持てる能力をすべて出し切ってプレーするその姿勢は敵味方を問わず誰からも認められており、それゆえにペルージャでもインテルでも、サポーターにとっては絶対的なアイドルであり続けてきた。

とはいうものの、やや軽率で調子に乗りやすい性格もあって、相手に対するアンフェアな挑発や侮辱に起因するピッチ内外でのトラブルは日常茶飯事。試合後のスタジアム通路やロッカールームで乱闘騒ぎに発展することもしばしばだった。

それが最も大きな問題に発展したのは、03-04シーズンのインテル対シエナで起こった、シエナの左SBブルーノ・チリッロとの一件だった。

この試合、累積警告による出場停止のため、ピッチサイドに私服で座って観戦していたマテラッツィは、試合の間じゅう、ライン際でプレーしていたチリッロを挑発し侮辱し続けた。これに耐えかねたチリッロは、試合後ロッカールームに戻る通路でマテラッツィに食ってかかる。

しかし、そこで起こった掴み合いでマテラッツィに返り討ちにされ唇を切ったチリッロは、その顔でミックスゾーンに現れてこう言ってのけた。

「こんな顔でTVカメラの前に出てきたのは、マテラッツィがどんな男かみんなに知らせたかったから」

この事件でマテラッツィは約2ヶ月にわたる出場停止処分を受け、自らのイメージを著しく損なうとともに、キャリアに大きな汚点を残すことになった。

こうして貼り付けられた「ダーティなプレーヤー」「トラブルメーカー」というレッテルは、2006年ワールドカップ決勝での「ジダンの頭突き」事件で完全に定着することになる。キャリアにおける最も重要な試合、しかも1-1の同点で延長に突入して神経は昂ぶっているが身体は疲労困憊という特殊な状況の中で起こったとはいえ、ピッチ上で相手に頭突きをかますという振る舞いを正当化することは不可能だ。にもかかわらず、世界中の世論はジダンに同情的であり、マテラッツィには批判的だった。

しかし、マテラッツィはその一方で、敵の選手やサポーターから最も酷い挑発や侮辱を受けてきたプレーヤーでもある。もちろんそれは100%自業自得である。しかしそれでも、アウェーのスタジアムに立つたびにありとあらゆる罵詈雑言を受けながらプレーしなければならないというのは、決して簡単な状況ではない。

01-02シーズンから10-11シーズンまでの通算10年間、マテラッツィはそのような状況の中でプレーを続け、37歳でプレーヤーとしてのキャリアを閉じた。最後の3シーズンはほとんど出場機会がなかったが、それに文句ひとつ言うことなくグループのまとめ役としてロッカールームの中で存在感を発揮し、チームに貢献を果たした。

プレーヤーとしてのマテラッツィを最も象徴的に表わしているのは、04-05シーズンのパレルモ対インテルで起こった一場面だろう。

パレルモのFWルカ・トーニとハイボールを競り合ったマテラッツィは、顔面に相手の肘打ちをもろに受けてピッチに倒れ込む。顔は血だらけだったが、応急措置の後、何事もなかったように立ち上がるとトーニに握手の手を差し出し、そのまま最後までプレーを続けた。試合後の診断は、頬骨の陥没骨折。全治1ヶ月の重傷だった。□

(2013年1月13日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。