冬休み読み物特集第3弾は、1982年のワールドカップ・スペイン大会で得点王となりイタリアの優勝に貢献したパオロ・ロッシのストーリー。

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「ぼくは2年間も試合に出ていなかった。ワールドカップなんて夢のまた夢。出場して優勝と得点王を勝ち取ることになるって預言者に言われたとしても、絶対に信じなかっただろうね」

パオロ・ロッシは引退後、あるインタビューで率直にこう語っている。

44年ぶりのワールドカップをイタリアにもたらし、82年のバロン・ドールを勝ち取った、おそらく今も世界中のサッカーファンでその名を知らぬ者はいないであろうストライカー。その彼が、スペイン・ワールドカップのメンバーに名を連ねることになったのは、多くの偶然が積み重なった結果だった。

1980年3月に発覚した大規模な闇サッカー賭博スキャンダルに関係したとして、当時ペルージャでプレーしていたロッシが、他の19人の選手とともに長期の出場停止処分を受けたというのは、よく知られている事実である。

この79-80シーズン、ロッシは3月までの22試合で13ゴールを挙げ、2度目の得点王に向かって邁進していた。そこに降って湧いたように襲ったこの事件。3年間の出場停止という厳しい処分は、24歳ですでにイタリア代表のエースストライカーとして評価と名声を集めていたロッシにとって、天国から地獄に突き落とされるにも等しいような出来事だった。

では、ロッシはいったい何をしたのだろうか。

事が起こったのは、1979年12月30日に行われたペルージャ対アヴェッリーノ戦の前夜。ロッシは、合宿先のホテルのロビーで、チームメイトのマウロ・デッラ・マルティーナに、1人の怪しげな男を紹介される。「マウロも知ってることだが、アヴェッリーノの選手とは、明日は引き分けということで話がついている」。ロッシはただ黙ってそれを聞いていた。

翌日のアヴェッリーノ戦は、2-2の引き分けに終わった。ロッシは、開始直後の1-0、そして76’の2-2と、2つのゴールを決めている。この事実が示すように、決して八百長に応じたわけではなかった。もちろん、金をもらったわけでもない。だが、ロッシを「有罪」に陥れるためには、その男と会っている姿を目撃したという証言だけで十分だった。

出場停止となったロッシは、15歳からのユース時代を過ごしたユヴェントスに買い戻され、イタリア代表の主力6人が顔を揃えるチームの一員として毎日の練習に励んだ。しかし、週末の試合でプレーすることはできない。できるのは、ただ黙々と練習に取り組み、待つことだけだった。

思いもよらなかった「恩赦」が下されたのは、ワールドカップまであと2ヶ月足らずとなった82年4月末のことだった。3年間の出場停止は2年間に短縮され、ロッシは出場資格を取り戻す。

この「恩赦」の背景に、当時イタリア代表が抱えていたストライカー不足という問題があったことは間違いない。大黒柱になるはずだったベッテガは、冬に膝の靭帯を痛めて出場は絶望。その後釜に座ったグラツィアーニ、アルトベッリも、説得力のあるプレーを見せられずにいた。このシーズンの得点王だったローマのプルッツォは、ベアルツォット監督と反りが合わない。指揮官にとっては、4年前のアルゼンチン大会でスタメンに抜擢したとたんに3ゴールを決め、地元の人々から「パブリート」(小さなパブロ)と呼ばれて愛された、頼りないほどに華奢だがゴールの匂いを嗅ぎつける天性だけは誰にも負けないストライカーこそが、唯一残された頼みの綱だった。果たして、発表された22人のメンバーには、彼の名前があった。

しかし、2年もの間実戦から遠ざかっていたプレーヤーが、コンディションと試合勘を取り戻すのは簡単なことではない。大会前の親善試合、そしてポーランド、ペルー、カメルーンと戦った一次リーグ(3試合とも引き分け)を通じて、ロッシはそこにいないも同じだった。にもかかわらず、ロッシをひたすらピッチに送り続けるベアルツォットに、マスコミは残酷なまでの集中砲火を浴びせる。

二次リーグの相手は、若きマラドーナを擁する前回優勝国アルゼンチンと、「黄金の中盤」で世界最強と目されるブラジルである。誰もが、惨敗を喫して帰国する以外の未来は、アズーリには残されていないと信じていた。

バルセロナで行われたアルゼンチン戦の前半3分、タルデッリが絶妙のクロスをゴール前に送り込む。フリーでこれを受けたロッシは、しかしPKも同然のシュートをぶざまに蹴り損ねてしまう。イタリア中の誰もが、この役立たずの八百長野郎とそれをピッチに送り続けるわからずやの監督に、腹の底から呪いの言葉を吐きかけた。

しかし、時計が進むにつれて、ロッシは少しずつ本来の自分を思い出していく。試合は、ジェンティーレがマラドーナを封殺し、タルデッリとカブリーニがゴールを決めて2-1でイタリアの勝利。この90分こそが、墜落寸前のアズーリ号が奇跡的に上昇気流を掴んで機首を上げ、世界の頂点に向かって飛翔を始める、その転換点だった。

そこから先の物語は、誰もが知る通りだ。ブラジル戦で伝説的なハットトリックを決めたロッシは、準決勝で再び当たったポーランド戦で2ゴール、そして西ドイツとの決勝でも先制ゴールをねじ込み、イタリアに歓喜をもたらすことになる。

ロッシにとっては、2年間の暗闇の後に訪れたこのまばゆいほどの輝きこそが、キャリアの頂点だった。地獄から天国へ。このたった3試合で、「パオロロッシ」という名前は、フットボールの歴史に、そして世界中の人々の記憶に、永遠に刻まれたのである。■

(2007年9月17日/初出:『サッカーベストシーン WORLD GOALS』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。