40歳を迎えた今もなお現役としてインドスーパーリーグでプレーするアレッサンドロ・デル・ピエーロ。ユヴェントス時代の2001年から2003年にかけて、計3回長いインタビューをする機会がありました。これはその2回目。ピッチ上のプレーだけでなくパーソナルな部分にも焦点を当てたものにしたいと思って話を聞きました。

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——昨シーズンは、最後の最後でスクデットを勝ち取るという劇的なフィナーレを迎えました。あなた自身も絶好調だった。しかしその後のワールドカップでは、大きな失望を味わうことになってしまった。あまりに対照的な出来事でした。
「スクデットは本当に嬉しかった。ユヴェントスが1年間積み重ねてきた戦いが、最高の形で報われたわけですから。ぼくたちは、残された小さな可能性を信じて、歯を食いしばってインテルについて行った。あそこで諦めないのは簡単じゃないですよ。そして最後の最後で追いつき、栄冠を勝ち取った。心の底から喜びが湧き上がって来ましたね。
ワールドカップは……。残ったのは、すごく大きな失望と落胆だけです。ぼくはほんの少ししかプレーできなかったし、それ以上にチームがあんなところで敗退してしまって…。日本という国に関してはいい思い出ばかりなんだけど、またそれは別の話ですからね」

——今回のワールドカップには、心に期するものがあったと思います。その落胆から立ち直って新しいモティベーションを見出すのは難しかったですか?
「全然そんなことはない。むしろ逆ですよ。ワールドカップがあんな結果に終わったこと自体、ぼくにとっては新しいシーズンに臨むための大きな刺激でしたから」

——バカンスが終わってプレシーズンのキャンプに集合した時には、坊主頭でしたよね。あれには何か特別な意味があったのでしょうか?
「日本の人たちにとってあれがどういう意味を持っているのかは知ってますよ(笑)。でもぼくにとっては別に特別な意味は何もありません。一体自分がどんな顔になるか、一度くらい実際にやってみたかっただけです」

——やってみてどうでした?
「まあ、今はまた髪を伸ばしているわけで…。でも、あれはあれで良かったですよ。バカンス中ずっと坊主で、すごく楽ちんだったし」

本人にそのつもりはなかったにせよ、われわれ日本人の目には文字通り「頭を丸めて出直した」ように見えた短髪バージョンのデル・ピエーロは、開幕から、ここ何年も見られなかったほどの絶好調を保っている。毎試合のように得点を重ねてセリエAの得点王争いに絡み、チャンピオンズ・リーグでも、貴重なゴールとアシストでチームを一次リーグ突破に導いた。
 
「一番の理由は、さっき言ったワールドカップの失望ですよ。あんな結果に終わってしまっただけに、新しいシーズンには何としても活躍したい、いいプレーを見せたいという気持ちがすごく強い。それがいい方向に働いているんだと思います。チャンピオンズ・リーグでは一次リーグ突破が決まったし、セリエAでも首位にしっかりついて行っている。今のところ十分満足できる結果です。中には、あまりいいプレーができなかった日もあるけれど、まあ3日に1試合というペースが続いていることを考えると、全体的にはよくやっていると思いますよ」

——もうすぐ28歳の誕生日(11月9日。インタビューは10月31日に行われた)を迎えますよね。選手としてはそろそろ成熟期に入って来ているわけですが、自分のプレイスタイルは完成されてきたと思いますか?
「毎年毎年、たくさんの試合でプレーして経験を重ねるうちに、いろいろなことが身に付いて行くものだと思うし、その点からいえば、このくらいの年齢になるとプレイスタイルもある程度固まってくるものだと思います。いずれにしてもぼくは、常に経験から学び、自分をもっと高めたいと思って毎日を送っていますよ」

——頭の中に、理想のデル・ピエーロ像みたいなものはありますか?
「そうだな、何かしらのイメージはありますね。でも、普段考えているのは、具体的なイメージというよりも、もっとうまくなりたい、今までよりもさらにいいプレーをしたい、ということだけですね。そういう気持ちを持ち続けること自体が、一番大事なことだと思います。できるだけたくさんの試合に出て、チームのためにいい活躍をして、たくさんの勝利とタイトルをつかみたい。そういう気持ちは昔も今も変わりません。結局はサッカーが好きだということに尽きるのかもしれない」

こういう話をする時の語り口は、前日、故郷のサン・ベンデンミアーノを訪ねた時に会った9歳年上の兄・ステーファノ氏のそれとそっくりだ。サンプドリアの育成部門でプレーしていた兄は、幼いアレッサンドロにとって目標でありヒーローでもあった。その後も今に至るまで、最も信頼できる相談相手であり、尊敬すべきアドバイザーであり続けている。

ご自身の経験から、弟さんにどんなアドバイスをしたのでしょう?と訪ねると、ステーファノ氏はこう答えてくれたものだ。
「ぼくがアレによく言ったのは、これでたどり着いたと思うな、決して自分に満足してはいけない、ということです。常に自分を高め続けないとこの世界で戦って行くことはできない、気を抜かず毎日努力を積み重ねて行くことが何よりも大事だ、いつもそう話してきました。もちろんアレは、ぼくに言われるまでもなくそれをわかっていたし、ずっと実践してきた。だからこそ今の彼があるんです」

——代表の話をしましょう。この間のワールドカップ以来、アズーリではずっと背番号7をつけてますよね。何か理由があるんでしょうか?自分の番号は7番と決めたということですか?
「ええ。そう決めたんです。昔から好きな番号だし、地元のチームでサッカーを始めた時から、長いこと7番を背負ってプレーしていたんです。ユーヴェではずっと10番だし、代表でも長い間10番をつけてきた。だからそろそろ違う番号を背負うのもいいんじゃないかと思って、7番にしたんです。ぼくにいわせると“10番”というのは、背番号そのものというよりも、ある種の個性を持った選手、持てるタレントを生かしチームの中で決定的な役割を果たす選手を指す言葉です。実際の背番号は何番だろうと関係ない。7番でもね」

——でも、あなたがアズーリの10番を諦めた、トッティに取られたという印象を受けた人も少なくないと思うんですが。
「いや。取られたわけじゃない。ワールドカップの前に、トッティはぼくに10番をもらってもいいか?って訊いたんですよ。それでぼくは、いいよ、どっちにしろ7番を取るつもりだったから、と答えた。それだけのことです」
——“アズーリの10番”を背負うことには特別な意味合いが込められているとは思いませんか?
「確かにイタリアは偉大な10番を生み出してきました。でも結局、背番号が持つ意味というのは、それを背負った選手がどんな活躍をするかで決まる。10番を背負うことにこだわったって、それ自体には何の意味もないと思います。ぼくたちイタリア人にとって、一番愛着のあるアズーリの番号は20番でしょうね。何といってもイタリアが優勝した82年にパオロ・ロッシが背負っていた番号ですから」

しかし、ワールドカップで“デル・ピエーロの7番”が、イタリア国民の、そして私たちの記憶に刻みつけられることはなかった。トラパットーニ監督が大会直前になって、それまでの3-4-1-2から4-4-2にシステムを変更し、それまでトップ下だったトッティを2トップの一角に上げたために、デル・ピエーロはベンチに追いやられてしまったのだ。

「ぼくに言わせると、あのシステム変更はチームに問題をもたらした。それまで2年間ずっと、ひとつのやり方でチームを作ってきたのに、それを直前で変えたわけですから。ぼくたち選手の間に戸惑いがあったとしても不思議じゃない」

——あなたもあまりプレーできなかった。
「いや。ほんのちょっとしかプレーしなかった」

——確かにそっちの方が正しい言い方ですね。いずれにせよ、失望は大きかったと思います。
「もちろんですよ。すごく悔しかったし、腹も立ちました。というよりも、目の前で起こっていることが信じられなかった。でも、とにかくこの現実を受け入れようと努力しましたよ。せめてピッチに立った時には持てる力をすべて出し切ろうとね。結局短い時間に終わってしまったけれど…」

——そんな中でも、メキシコ戦では貴重な同点ゴールを決めました。
「ええ。今回のワールドカップの中では、あれがぼくにとって一番素晴らしい瞬間でしたね。ゴールを決めたというだけでなく、あのときぼくたちが置かれていた追いつめられた状況を、一気に引っ繰り返すことができたという意味でも、すごく重要だった。もしかすると、あのまま敗退してしまうかもしれなかったわけだし。それだけに喜びも大きかった」

——ボールがゴールに飛び込んだ直後、おそらく無意識のうちに、天のお父さんにゴールを捧げましたよね。
「ええ。あの瞬間、頭に浮かんだのは父のことでした。反射的に天を指さしていたんです。いずれにしても、あれが今回のワールドカップで一番の、というか唯一の喜びだった。その後は……。まあ、もう終わったことですよ」

——じゃあ話題を変えましょうか。18歳でユーヴェに移籍してきて以来、一人暮らしが長かったわけですが、今は彼女と一緒に住んでいますよね。パートナーを得たことで、あなたの中で何か変わったことはありますか?プレーヤーとしてだけでなく人間として。
「この時を境にはっきりと何かが変わった、という瞬間があったわけじゃありません。人間というのは、年齢と経験を重ねて行く中で、知らず知らずのうちに段々と成熟して行くものだと思うし——成熟という言い方じゃなく単に変化といってもいいですが——、それはぼくも同じです。ぼくは13歳の時からパドヴァで寄宿舎暮らしをしたし、トリノでは一人暮らしが長かったけど、今は彼女と暮らしている。仲間と暮らす、一人で暮らす、彼女と暮らす、経験の種類はいろいろだけど、それぞれから得ることや学ぶことはあるし、そうやって成長し変化して行く。その連続なんだと思います。あの時にああいうことがあったから自分はこう変わったとか、そういう風に考えることはあまりないですね」

——ある意味で自然な流れだと。
「そうですね。カルチャトーレとしての自分にとって大きな契機になった出来事ならひとつあります。父の死です。その話は以前しましたよね。父の死をきっかけに、膝を怪我して以来それまで取り戻せずにいた自分のプレーが戻ってきた。あれはぼくのキャリアにとって非常に意味深い、重要な出来事でした」

——空の上のお父さんが今もあなたを守ってくれているという感覚がある?
「もちろんです。父はいつも、生きていた頃とは違う形でだけど、ぼくの側にいてくれる。理屈ではなく実感としてそう思います」

——あなたはクリスチャンですよね。神を信じていますか?
「ええ」

——例えばサッカーの勝敗とか、そういうものにも神の意志はかかわっていると思う?
「これは一言二言で済ませられる話じゃないですね。難しい質問だ。ぼくたちは自分の未来を自分で作ることができる。これは間違いありませんよね。ほとんど全ての、いや全ての選択を下すのはぼくたち自身なんだし。でも人生には偶然や予想外の出来事によって左右される部分もあります。どんな国に生まれるか、どんな環境で育つか、そういうことは自分では決められない。それを運と呼ぶか神の意志と呼ぶかは、人それぞれですけどね。
その点から言えばぼくは、イタリアに生まれた自分は幸運だと思います。文明が発達していて、文化的で、サッカーが一番人気のあるスポーツで。おかげでぼくは自分を存分に表現し、豊かな満足した人生を送ることができる。いずれにしても、神は存在すると思います。ほとんどの場合は正しいことをするけれど、時にはぼくに言わせると間違ったことをすることもある。受け止め方は人によって違うと思うけれど」

——サッカーの世界に生きているあなたたちには、すごく運命論者的なところがあるし、ゲンを担ぐ人もたくさんいる。そういう傾向があるのはなぜなんでしょう?
「少しでも強く自分に自信を持つためですよ。ぼくたちはあらゆる面から準備を重ねて試合に臨みます。毎日トレーニングを積み、栄養を考えた食事を摂り、体調を整え…。すべてはもっと強い勝利への自信を持つためです。ゲンを担いでいつも同じことをしたり、何か特別な儀式みたいなことをしたり、祈ったりするのも、みんなそのひとつですよ。人それぞれ、自信を強く持つための何かを持っているということだと思います」

——勝敗を分ける小さな差は、偶然とか運とか、あるいは神の意志とか、そういうものから生まれると考えられているのでしょうか?
「ちょっと違うと思います。ゲンを担いだりするのはむしろ、できることはすべてやり尽くし、最高の準備をして戦いの場に臨みたい、という気持ちがあるからです。勝敗が偶然や運によって決まると考えているからゲンをかついでいるわけではなく、逆にそうじゃない部分をより増やしたい、もっと強く自信を持ちたいと思うからそうしている。もちろん、試合のどんな場面でも多少の運や偶然は働いていますよ。でも、試合に向けてより集中し、よりいい準備をして臨んだ者が、そうでない者よりも勝利に近い。ぼくたちはそう信じています。それがゲンを担ぐことであっても、偶然や運に頼るのとは別のことなんです」

——例えばギリギリのところで戦って負けた時に、運や偶然を持ち出さずにその事実を受け入れるというのは、決して簡単なことではないですよね。
「いや、どんな敗北だって、それを受け入れ消化するのは難しいものですよ。どんな状況だろうと、相手が誰であろうとね。この世界を支えているのは強い競争心です。サッカーを楽しむためにプレーするのも事実だけれど、それ以上に勝つためにプレーしている。誰もが勝つために多くの犠牲を払って試合に臨んでいるこの世界で、敗北を素直に受け入れるのは簡単じゃないですよ」

——じゃあ、ワールドカップでのあの韓国戦の敗北。あなたはあれをどう受け入れたのでしょう?
「あの試合は、心の中に一生残るでしょうね。悔しさはまだ消えないけれど、結果は結果として受け入れるしかないことはよくわかっています。サッカーというのは勝利と敗北によって成り立っているものだし、勝利だけでキャリアを終えることなど不可能なんですから。決定的な戦いの場を経験すればするほど、心に残る勝利も敗北も、それぞれたくさん増えて行く。そういうものですよ」

——で、あの韓国戦は?
「いずれにしても、あの敗北を呑み込むのは簡単なことじゃない。ぼくたちが誤りを犯したことも確かです。ぼくに言わせれば、間違いなくもっとましな戦い方ができたと思う。でも同時に、イタリアにとって奇妙なワールドカップだったことも確かです。オフサイドの判定やゴールの取り消しなど、こちらに不利な判定があまりにもたくさんありましたからね。あの敗北は納得できないけれど、今となってはどうしようもないことです。結果は変えられないんだし…」

再起を期して9月にスタートした欧州選手権予選に臨んだイタリア代表だが、まだ“ワールドカップ後遺症”から抜け出すことができずにいる。初戦のアゼルバイジャン戦こそ順当に勝ったものの、ユーゴスラヴィアに引き分け、ウェールズに敗れるという不甲斐なさで、予選突破に黄信号が灯った。その中でデル・ピエーロは唯一、3試合連続でゴールを決めるなど、孤軍奮闘を続けている。

「確かに状況は厳しいですね。この2試合、結果はもちろんですが内容的にも、いいサッカーを見せることができなかった。残り試合を本当に気をつけて戦って行かないと、取り返しのつかないことになる可能性もある」

——代表でのこれからの目標は?
「もちろんタイトルを勝ち取ることです。次のヨーロッパ選手権に勝てれば素晴らしいでしょうね。そして2006年のワールドカップ。ライバルは多いし、簡単な戦いではありません。今のイタリアの状況は決していいものではないし…」

——ところで、昨日あなたの故郷サン・ベンデンミアーノに行ってきたんです。子供の頃のホームグラウンドだった、家の裏の原っぱを見てきましたよ。お母さんは、「いつもいつも、日が暮れるまでどころか、日が暮れてもここでボールを蹴ってましたよ」と懐かしそうにおっしゃってました。
「とにかく、少しでも長くあそこにとどまっていたかったんです。でも、試合に勝つことも同じくらい大事だった。当然ですが、子供だって勝つためにサッカーをするものですからね。競争心、勝ちたいという気持ちは、どんなゲームにもつきものです。楽しければ負けてもいいとは誰も思わない。だから毎日、家に帰らなければならなくなった時には、勝って満足な奴と負けて悔しい奴に分かれていた。でも、勝つこともあれば負けることもある。それがサッカーというものだし、人生というものですよ」

——あの家で育つ中で、ご両親からいろいろなことを教えられ、学んだと思います。その中でも自分の中で一番大切にしているものは何でしょう?
「すごくたくさんあります。両親から学んだことはぼくにとって人生の基盤ですからね。他人に敬意を払うこと、謙虚であること、決めたことは最後まで脇目も振らずやり通すこと…。もちろん、ここまで生きてきた中で、そこにいろいろなものが加わってきてもいます。ぼくは13歳の時から家を離れて寄宿舎で暮らしていたわけだし、早い時期から、同世代や年上の連中に揉まれて生きてきた。そういう経験もぼくの中では大きな財産になっています」

——具体的には?
「ひとりで何とかやっていく術を身につけた、ということかな。ひとりで出歩くことから、自分の人生設計を考えることまで。独立心、といってもいいかもしれない」

——あなたを見ていると、あなたの故郷であるヴェネト地方の人々に共通のメンタリティを感じるんですが、自分のヴェネト人らしさみたいなことを意識することがありますか?
「確かに、自分の性格や生き方にはヴェネト人のそれが強く出ていると思います。ぼくたちヴェネト人は、頑固で辛抱強い。よく物分かりが悪いとも言われますが、それはひとつのことに脇目も振らずに取り組む、てこでも動かない強情さがあるからです。一度決めたら苦労や疲れも厭わずにそれに向かう。ぼくも、自分をより高めるために厳しいトレーニングに取り組むことが、嫌だとか辛いとか思ったことはありません。そういうヴェネト人らしい部分は、自分の最大の長所だと思っているし、これからもそうあり続けたいと思いますよ」

——そういう性格は生来のものなんですね。
「もちろんですよ。自分が育った場所だし、今でも母と兄はヴェネトで暮らしています。ぼくは今でもあの土地にすごく愛着を持っていますよ」□

(2002年11月13日/初出:『Number PLUS:イタリアを極める』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。