名将ロバノフスキー率いるディナモ・キエフでデビューし、ミランで2004年のバロンドールを勝ち取るなど全盛期を過ごしたアンドリー・シェフチェンコ。2006年に29歳でチェルシーに移籍して以降、そのキャリアは下降線をたどることになりました。退団の2ヶ月後に書いた、ミランでの7年間のストーリーを。

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2006年5月15日、ミラン対ローマ。セリエA最終節となるこの試合、アンドリー・シェフチェンコの姿は、サン・シーロのピッチ上ではなく、ミランサポーターが陣取るクルヴァ・スッド(南ゴール裏)の2階席にあった。

前節のパルマ戦で膝の靭帯を伸ばし、全治20-25日という診断を受けたため、彼の05-06シーズンは、事実上すでに終了していた。とはいえ、試合に出場しない選手はメインスタンドのVIP席で観戦するのが普通である。わざわざゴール裏に足を運び、サポーターの中に混じって試合を観るというのは、異例のことだった。翌日の新聞各紙には、ゴール裏2階席最前列の手すりから手を振るシェフチェンコの写真が掲載される。その姿はあたかも、7シーズンにわたってプレーした文字通りの「ホーム」、サン・シーロとそのスタンドを埋めるミラニスタたちに、最後の別れを告げているかのようだった。

というよりも、そこにいた誰もがおそらく、それが本当に「別れの儀式」になることを、心の底で知っていた。シェフチェンコがミランのクラブオフィスで、アドリアーノ・ガッリアーニ副会長とともに記者会見を開き、ミランを去りイングランドでプレーしたいという意志を表明したのは、それからわずか11日後、5月26日のことだ。

通算7シーズン、公式戦296試合に出場し173ゴール、スクデット、チャンピオンズリーグ、ヨーロッパ・スーパーカップ、イタリア・スーパーカップ、コッパ・イタリアをチームとともに勝ち取り、自らも2004年のバロン・ドールに輝いたミランでのキャリアは、こうして幕を閉じることになった。

セリエAデビュー1年目で得点王に

シェフチェンコがミラノにやってきたのは、1999年7月のことだった。直前の98-99シーズンに、ザッケローニ監督の下4年ぶりのスクデットを勝ち取ったミランにとっては、新シーズンの目玉商品といってもいい補強だった。ベルルスコーニがディナモ・キエフに支払った移籍金は540億ユーロ(約40億円)。

17歳でディナモ・キエフのトップチームにデビューして以来、5シーズンで117試合・60ゴール、チャンピオンズリーグでは何と28試合・26ゴールという驚異的な成績を残して、ヨーロッパの若手ストライカーの中で最大の成長株と目されていただけに、獲得競争は激しかった。ミランの他にも、マンチェスター・ユナイテッド、レアル・マドリード、バルセロナ(前年のチャンピオンズリーグ、カンプ・ノウでバルサに叩き込んだハットトリックはすでに伝説となっていた)といった欧州屈指のビッグクラブが、こぞってキエフ詣でを重ねていた。その中からミランを選んだのは、シェフチェンコにとってサン・シーロでプレーすることが、少年時代からの憧れだったからだ。

まだウクライナ独立前、旧ソ連時代の1990年、ディナモ・キエフのユースチームの一員としてイタリアで行われたトーナメントに参加したアンドリー少年は、つい数カ月前にワールドカップの舞台となったばかりのサン・シーロでミランの試合を観戦する。そしてその日から、いつかは自分もロッソネーロのユニフォームを着てここでプレーしたいという夢を育んでいたのだった。

鳴り物入りでミランに移籍したシェフチェンコだったが、本当に期待通りの活躍ができるのかどうか、疑問視する声も当初は決して少なくなかった。その最も大きな理由は、それまで旧ソ連出身の選手は誰ひとりとして、イタリアで成功していないというもの。80年代末から90年代にかけて、アレクサンドル・ザヴァロフ(ユヴェントス)、アレクセイ・ミハイリチェンコ(サンプドリア)、セルゲイ・アレイニコフ(ユヴェントス、レッチェ)といった旧ソ連出身のトッププレーヤーがセリエAでプレーしたものの、誰も主役として活躍するには至らなかった。その大きな原因として指摘されたのが、言語や文化の違いである。同じヨーロッパとはいっても、イタリアと旧ソ連の文化的距離感は、西欧諸国と比較するとずっと大きい。どの選手も、言葉の壁に悩まされ、イタリアの生活文化にも馴染めないまま、1年、2年で去って行くことになった。

しかし、シェフチェンコは彼らとは違っていた。入団発表の記者会見では「ボンジョルノ」「ピアチェーレ」といった挨拶くらいしかイタリア語ができなかったものが、プレシーズンキャンプのハードなトレーニングの合間に個人教師について猛勉強に取り組む。そして数ヶ月後には、たどたどしいながらも明確なイタリア語で、通訳もつけることなくインタビューに答えるようになっていた。イタリアという環境に少しでも早く溶け込もうとするシェフチェンコの、朴訥ながら真摯さにあふれる姿勢は、ファンやマスコミからも好意を持って受け入れられた。

そして始まった99-00シーズン、シェフチェンコはピッチの上でも、それまでの旧ソ連出身選手たちとは器が違うことを早速見せつけることになる。レッチェでの開幕戦から2試合連続でゴールを決めると、第4節ラツィオ戦ではハットトリック。さらに初めてのミラノダービーでもゴールネットを揺らすなど、予想を上回る活躍であっと言う間にサポーターのアイドルとなったのだ。

アルベルト・ザッケローニ監督は当初、シェフチェンコを、ビアホフ、ウェアとの3トップという攻撃的な布陣の中で起用する構想を抱いていた。しかし、シェフチェンコを右のサイドアタッカーに置き、ゴールから遠ざけることの無意味さに気付いて、すぐにシステムを変更。開幕1ヶ月後には、ビアホフとの2トップをボバン(またはレオナルド)が1.5列目から支える3-4-1-2にシステムを固定し、この若きストライカーの得点力を最大限に生かす布陣を敷いた。

その効果はてきめんだった。このシーズンのミランは、故障者の多さもあってメンバーが固定できず、チャンピオンズリーグでは一次リーグ敗退、シーズン半ば過ぎにはセリエAの優勝争いからも脱落するという、苦しいシーズンを送ることになる。しかしその中でシェフチェンコだけは好調を保ってゴールを量産し、揺らぎかけたチームの屋台骨を支え続けたのだ。セリエAでは、チーム最多の32試合に出場して24得点。イタリア1年目からいきなり得点王に輝くという素晴らしい快挙を成し遂げる。チャンピオンズリーグとコッパ・イタリアを含めた年間成績は、42試合29得点。「ミランはシェフチェンコ依存症」と言われるほどに、チームの中で重い存在になっていた。

そして続く00-01シーズンも、シェフチェンコは開幕からゴールを量産する。最初の10試合で10ゴール。2年連続得点王間違いなしというハイペースだった。しかし、エースの好調は裏腹に、チームは不調に苦しむ。シーズンが終盤戦に入った3月には、ザッケローニ監督が解任され、チェーザレ・マルディーニが後任を務めるといいう出来事もあった。セリエAでの最終成績は、チャンピオンズリーグ出場権にすら手が届かぬ6位。シェフチェンコ自身は、1年目と同じ24ゴールを挙げて、クレスポ(26ゴール)に次ぐ凖得点王となったが、チームの成績が成績だけに、満足とはほど遠いシーズンに終わった。

シェフチェンコが移籍してきた当時のミランは、マルディーニ、コスタクルタ、アルベルティーニといった、90年代前半の栄光を知る「古参組」から、シェフチェンコ、ガットゥーゾ、アンブロジーニといった若い世代への橋渡しを模索する、いわば過渡期にあったといえるだろう。しかしその世代交代構想は、ザッケローニ解任によって暗礁に乗り上げることになってしまった。

そして続く01-02シーズンのミランは、監督に前年フィオレンティーナでダイナミックな攻撃サッカーを見せたトルコ人監督ファティフ・テリムを招聘、フィリッポ・インザーギ、マヌエル・ルイ・コスタというワールドクラスを補強し、新たな勝利のサイクルを築こうと目論んだ。しかし皮肉なことにこのプロジェクトは、わずか10試合、2ヶ月あまりで頓挫を強いられる。後任としてやってきたカルロ・アンチェロッティは、残るシーズンを、新戦力が多くメンバーが固まらないチームの土台作りに費やさなければならなかった。シェフチェンコも、守備的なチーム作りの煽りを受ける形で、シーズン後半には12試合連続無得点という不調に陥り、結局14ゴール止まりと、ミラン移籍後初めての挫折を味わうことになる。

イタリアに来てから3シーズンで62ゴールという個人成績は、それだけ見ればまったく申し分のない数字である。事実、25歳になったシェフチェンコはすでに、世界でも指折りのストライカーとしての評価と名声を確立していた。天性のスピードと正確なボールコントロール、左右両足から繰りだす強力なシュートに加え、経験を積むにつれて、チームのメカニズムの中で機能する戦術的インテリジェンスも身に付けつつあった。

しかし、そうした個人的な満足とは裏腹に、ミランはこの3年間で何ひとつタイトルを獲得できず、監督交代を繰り返す不安定な状態を続けていた。「チームが勝てない時には自分の責任だと思ってしまう。自分の成功とチームの成功を切り離して考えることができないんだ」というシェフチェンコにとって、これは大きな重荷だった。

バロンドール

そして続く02-03シーズン。シェフチェンコは膝の故障に悩まされ、キャリアの中で最も困難な1年を送ることになる。皮肉なことに、アンチェロッティ政権2年目を迎えたミランは、ピルロを中盤の底に据えた4-3-2-1システムによって、それまでのイタリアにはなかった、ボールポゼッション志向の攻撃サッカーを展開し、チャンピオンズリーグの舞台でヨーロッパを驚かせていた。

シェフチェンコはセリエAで24試合に出場したものの、途中出場や交代も多く、得点はわずかに5。しかし、シーズンの最後の最後に、その苦悩をすべて帳消しにする、歓喜の瞬間がやって来る。マンチェスターのオールド・トラフォードで行われたユヴェントスとのチャンピオンズ・リーグ決勝、緊迫した戦いの末PK戦にもつれ込んだこの試合で、ミランの勝利を決定づける最後のシュートを決めたのだ。GKブッフォンのタイミングを外して、右インサイドで冷静に右のポスト際にボールを流し込む。その次の瞬間、両手をたかだかと上げて歓喜を爆発させ、傍らで見守るGKディダに抱きついたくしゃくしゃの笑顔は、10年ぶりに欧州王者のタイトルを勝ち取ったミランを象徴する映像になった。ひとりのプレーヤーとしては最も苦しんだシーズンに、ヨーロッパの頂点を極める歓びを経験する。何と不思議な巡り合わせだろう。

イタリア5年目となった03-04シーズンは、これまで噛み合わなかった個人成績とチームの成績が初めて噛み合い、ミランにとってもシェフチェンコ自身にとっても「飛翔」という言葉が最もふさわしい1年になった。チャンピオンズリーグでこそ、準々決勝でスペインのデポルティーヴォ・ラ・コルーニャにまさかの敗退(第1レグ4-1、第2レグ0-4)を喫したが、セリエAでは、1年目、2年目と同じ24ゴールを挙げて、4シーズンぶり2度目の得点王に輝き、その活躍でミランに待望のスクデットをもたらす。

私生活でも、2年前にジョルジョ・アルマーニのパーティで知り合ったアメリカ人モデル(当時はベルルスコーニ会長の息子ピエルシルヴィオのガールフレンドだった)、クリステン・パツィクさんとシーズン終了後に結婚する。5年前にウクライナからやってきた生真面目で野暮ったい金髪の若者は、今やアルマーニを着こなしミラノの一等地に一流モデルと愛の巣を育む、イタリアサッカー界きってのセレブリティとなっていた。

しかしもちろん、サッカーに対する愛と真摯な姿勢は、以前と何ひとつ変わることがない。
「サッカーは僕のDNAに刻み込まれている。僕がサッカーを選んだわけじゃなく、サッカーが僕を選んだんだ。真のフットボーラーにとって、サッカーとは人生そのもの。僕がプレーするのは、金のためでも、人々のためでも、有名になるためでもない。それが僕の人生だからなんだ。ゴールを決めるたびに、心の中で信じられない感情が爆発するのを感じる。僕はこの炎をいつだって感じていたいんだ。だから、いつも、いつも、いつもゴールを決めたい」

2004年は、そんなシェフチェンコにとって記念すべき年になった。スクデットと二度目の得点王、クリステン夫人との結婚、11月には待望の長男ジョーダンくんが誕生する。そして12月には、フットボーラーとして最高の栄冠であるバロンドール、欧州最優秀選手のタイトルを勝ち取ったのだ。28歳、輝かしいキャリアの最初のピークといってもいい瞬間だった。

この04-05シーズン、年が明けた2月半ばに、空中戦の競り合いで頬骨陥没骨折という怪我を負い、2ヶ月近い戦線離脱を強いられたが、セリエAではチーム最多の17ゴールを記録する。チームとして熟成の頂点に達しつつあったミランは、シーズンの第1目標だったチャンピオンズリーグにターゲットを絞り、マンチェスター・ユナイテッド、インテル、PSVアイントホーフェンを下して、イスタンブールでの決勝(対リヴァプール)に堂々と駒を進めた。

ところが、前半で3-0と圧倒的なリードを手に入れ、もはや優勝間違いなしと思われたこの試合、ミランは後半開始直後に6分間で3失点という信じられないドラマを演じ、延長の末にもつれ込んだPK戦で敗れ去ってしまう。5人目のキッカーとしてペナルティスポットに立ち、魔物に魂を吸い取られたかのように力ないシュートをGKの腕の中に送り込んだのは、誰あろうシェフチェンコだった。02-03シーズンのチャンピオンズリーグ制覇から始まったミランの勝利のサイクルが、ピークを過ぎて終焉へと向かいつつあることを、誰もが感じ始めたのがこの時だった。

そして迎えた05-06シーズン、ミランはスクデットを獲得した3年前とほとんど変わらぬ顔ぶれでシーズンを戦い、セリエA2位、チャンピオンズリーグでもベスト4(準決勝出バルセロナに敗退)と、安定したパフォーマンスを見せる。シェフチェンコ自身も、セリエA19ゴール、チャンピオンズリーグ9ゴール(得点王)と、数字の上では充実したシーズンを送った。

しかし、30歳の大台を目前に控え、フットボーラーとして成熟の境地に達したシェフチェンコは、大きな決断の時を迎えていた。このままミランでバンディエーラ(クラブの旗印、象徴)としてキャリアを終えるか、それとも新天地でキャリアの総仕上げとなる新たなチャレンジに飛び込むか。そしてその決断を左右したのは、ひとりの人間、ひとりの父親として迎えつつあった、人生の新たな局面だった。

5月26日の記者会見で、シェフチェンコはこう語っている。
「イタリアを去るという決断を下したのは、チームメイトや監督との関係が理由でもなければ、もちろん金銭的な理由でもない。ただ家族の幸せのためだった。わかってもらいたいのは、妻と息子のためじゃなかったら、ミランを去ろうなどとは思わなかったということ。クリステンはウクライナ語をひと言も喋れないし、僕は英語を喋れない。今僕たち夫婦は、イタリア語という、どちらにとっても母国語じゃない言葉を使って暮らしている。でも、息子に僕たちの愛情を伝える言葉はひとつであってほしい。それは英語以外にはあり得ないんだ」

そう言われてしまえば、ミランも、そしてサポーターも、唇を噛みしめてこの決断を受け入れ、笑顔で送りだす以外にはない。しかし、いずれにしても確かなのは、シェフチェンコの退団は、ミランが築き上げてきた勝利のサイクルにひとつのピリオドを記すトピックになるだろうということだ。世界で3本の指に入るストライカーの後釜など、そう簡単に見つかるはずがない。

それでも、アンドリー・シェフチェンコの名前は、クラブの歴史に、そしてサポーターの記憶に深く刻み込まれて、決して消えることがないだろう。■

(2006年7月16日/初出:『サッカーベストシーン5 シェフチェンコ』)

※この時は「ひとつのピリオド」と書いたんですが、ミランはこの翌シーズン(06-07)、プレーオフからスタートしてCL優勝を勝ち取るという偉業を成し遂げることになります。シェフチェンコの穴を埋めたのは、足かけ2年を棒に振った足首の故障から復活して、重要な試合でゴールを決めまくったフィリッポ・インザーギでした。

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。