※インタビューは2003年2月21日、ブレシアが練習場として使用しているオスピタレット(ブレシア近郊の小さな町)の市営競技場のトレーニングジムで行われました。
――8ヶ月ぶりにブレシアに戻ってきたわけですが、今回はどんな印象ですか?
去年初めて来た時に感じたのと同じ、いい感触を持っています。最初の時は、これから自分に何が起こるのか、まったく知らずに来たわけだけど、今回は、どんなクラブでどんなチームで、監督はどんな人で、街はどんな風なのか、すでに大体わかっていたから、その点では楽でした。去年と同じようにいいプレーができると思います。
――チームに溶け込む上では、全然問題は感じませんでしたか?
普通、問題を抱えるのは、自分ができないことを要求されたり、持てる力を発揮できない状況に置かれたときです。その点からいうと、今求められていることは、自分にできる、得意なことだから、まったく問題はありません。いい感じで馴染むことができたと思う。
――今のブレシアの状況をどう見ていますか?
今チームは、9試合連続で負けなしという記録を更新中です(2月21日時点)。これは好調な証拠ですよね。でも、状況としてはまだ、ちょっと危険なところにいるともいえる。ここからの3、4、5試合できっちりポイントを稼ぐことができれば、今年の大きな目標である残留に向けて、大きく前進できるでしょう。
でもそこでポイントを取れないと、厳しいことになる。シーズンの終盤5~6試合はすごくハードですからね。ユーヴェ、ラツィオ、ミラン、インテル、ペルージャ……。だから、それらの試合に残留を賭けることになるようだと、今よりもずっと苦しくなるでしょう。ですから、ここからの一ヶ月がチームにとってすごく重要です。
――ブレシアに戻ってくるという決断を下したのはなぜですか?他にオファーはなかった?
ここに戻ってきたのは、ローマではまったく試合に出られなかったからです。ぼくの歳、32歳になって試合に出られない、プレーする機会を与えられないのであれば、そこにいる意味はないし、チームを去ってプレーする環境を求めるべきだと思います。
でも、残り数ヶ月のために、まったく知らない環境に飛び込むのは、ちょっとリスクが大きい。すでにクラブやチームのことをわかっているここに戻ってくることは、その点でも決断しやすかった。
――ちょっと遡りますが、あなたが一番大きな決断、バルセロナを去るという決断を下したのは2年前でした。非常に勇気ある選択だったと思うのですが……。
勇気ある選択かどうかはわからないな。ぼくがバルセロナに入ったのは13歳の時です。それから通算18年間もあそこで、“ぼくのチーム”でプレーし続けてきた。それが自分自身だと感じられるほどに親しい、心から愛するチームでね。
でも……、そこで30歳を迎えて、もうこれ以上このままではやっていけないと強く感じた。精神的に、もっと違う別の何かが、どうしても必要になったんです。いつも同じ人たちと一緒にいて、同じリーグで戦うんじゃなく、外国の新しい環境でプレーして、新しいことを学ばなければならないと思ったんです。
結果として、ぼくをここに運んできたのは運命のなせる業だと思うけれど、ともかく、バルサを去ると決心した理由はそれですよ。もし、あのままあそこにとどまろうと思っていたら、今でもバルサでプレーしていたことは間違いない。でも、精神的にもう耐えられなかった。新しい環境で自分を試したかったんです。
――バルサで続けて行くためには何が足りなかったのでしょう?
刺激です。精神的な刺激。きちんと運営されているクラブを見てみたいという気持ち。
時間の経過とともに、自分を取り巻く環境すべてに慣れ切ってしまうと、周囲の誰からも尊敬され、自分もそれに安住し、ということになってくる。そうなったら、自分に何か新しい刺激を与えるべき時、自分の心に火(!)をつけるべき時が来たということなんです。さらに前に進んで行くためにね。
――その時点ですでに、具体的な構想みたいなものは持っていたんでしょうか?イタリアに行きたいとかイングランドがいいとか……。
いや、バルセロナから去ると発表する記者会見を開いた時には、具体的な考えもオファーもまったくありませんでした。その後、メルカートが始まって、イタリアやイングランドのいくつかのクラブから話があったけど、そこから先の交渉に関しては、ぼくだけが知っているいろいろな事情があって……。
でも、イングランドで一度プレーしたいという気持ちは、今も少し心に抱いていますよ。あのサッカーに触れ、あの応援の下でプレーしたいというね。アングロサクソンのサッカー文化は、ラテンの国、スペインやぼくの国カタルーニャ、あるいはイタリアのそれとは大きく違う。その意味では興味があるけれど、まあ、どうなるかは未来が教えてくれるでしょう。
でも……、この2年間でぼくは、人というのは自分ではなく、運命が望むところに運ばれて行くものだということを学びましたからね。だから、もしぼくの運命がここでプレーを続けることを望むならそうするし、去るべきだというなら去るし、引退すべきだというなら引退する。ぼくの頭とハートが語る言葉に従いますよ。
――でも、新しいチームが決まるまでこんなに時間がかかるなんて、誰も思わなかった。
ええ、何というか……、すごく長くて、不思議な道のりだった。
ぼくはずっとバルセロナ一筋で来たから、移籍交渉というのがどういうものなのか知らなかった。サッカーの世界の内側にはいろんな人たちがいていろんな利害があることを、あのとき初めて知ったというわけです。マネジャー、代理人、クラブの会長、スポーツディレクター……。そして、彼らを信頼して身を委ねると大変なことになるということもね……。
そういう状況で、幸運なことにブレシアが獲得の名乗りを上げてくれた。まあ、いままで知らなかった世界を知るいい機会だったということですよ。
――じゃあ、代理人やら何やらが跋扈する世界というのも、その時に初めて知ったと……。
いや、バルセロナ時代にも代理人はいたけれど、チームとの交渉というのは予め決まっていることが多いから。何というか……、サッカーの世界でそれなりの経験を積んで30歳になって、まさかまだ思っても見なかったようなしきたりがあったり、有名なクラブが信じられない振る舞いをしたり、そういうことがあるとは思っていなかった。
その結果、チームが決まらないという状況になって。でも人間的なレベルでいえば、すごく貴重な経験でしたよ。最終的には、ここでプレーする可能性が開けたというのもあるし。去年はすごく難しい年だったけれど、ブレシアとの出会いは大きかった。
――かくしてブレシアに来たわけですが、最初の年はほとんど呪われたというか、とにかく困難な年だった。
ものすごくね。ずっと消えずに今もまだ心の中に重く残っている出来事が起こった。サッカー選手としてだけでなく、ひとりの人間としてすごく嫌な、辛い経験をしなければなりませんでした。辛い思いをするのはサッカー選手ではなく、人間ですからね。
――ドーピング問題の話ですね。
ええ。あれは本当に酷い話だった。どんな結末になるのか、見守っていますよ。
でもそれはそれとしても、本当に困難な1年だったことは確かです。シーズン最後から2試合目に膝をケガして、ワールドカップにも参加することができなかったし……。
でもそれらすべてにもかかわらず、ぼくはここで、家族や周囲の仲間と一緒にいて、幸福を味わうことができました。
結局のところ、人はそういう小さな幸せな時間を求めているものでしょう?サッカーの試合でいいプレーができたかできなかったかとか、マスコミに称賛されたとか、そういうこととは全く関係なく、自分自身が充実していること、愛する人々、家族やチームメイトやサポーターと共にいる幸せを感じられること、中でも一番大切なのはもちろん家族ですが、ともかく最終的には、そういうものがあるからこそぼくたちは前に進んで行けるんです。
――ということは、バルセロナを去るという決断にも、サッカー選手としてだけではなく、そういうひとりの人間としての選択が大きくかかわっていたわけですね。
当然ですよ。少なくともぼくにとっては、バルセロナ以上に美しく、偉大で、魅力にあふれた素晴らしいチームは、この世に存在しません。存在することはあり得ない。それだけを考えていたら、バルサを去ることは決してなかったでしょう。絶対になかった。だからあの選択はサッカー選手としてというよりもひとりの人間としての選択だった。
もちろんぼくはサッカーをするためにここに来たんであって、ツーリストとして来たわけじゃないですよ。でもあの決断はぼくにとって、人生の選択だったということです。
――ブレシアはあなたにとって、バルセロナ以外で初めての場所、初めてのサッカー環境だったわけですよね。ここブレシアの環境は、あちらとはまったく違うものだったと思います。この新しい現実をどういう風に受け入れ、向き合ったのでしょうか?
一番の違いはサッカーをどう考えるかという文化です。それぞれの国がそれぞれの文化を持っている。ぼくはそれに適応しなければならない。例えば、ぼくはここブレシアでは新しい環境に馴染むのに、何の苦労もしなかった。最初からすぐに自分の場所だと思えました。
でもローマでは……そうはならなかった。それは単純に、ぼくに求められたものが違っていたからです。ローマにはぼくが力を発揮できる環境がなかった。自分に適していないプレーを求められてもそれに応えるのは……。
でもここブレシアで求められているのは、ぼくのサッカー選手としての蓄積をさらに発展させることですから。だから、(適応できるかは)置かれた状況に左右される部分が大きい。ここでは大きな問題は何もありませんでしたよ。
――でも、1シーズンここでプレーした後、あなたはローマに移籍することを選んだ。この選択の背景には何があったのでしょう?
チャンピオンズ・リーグでプレーする、キャリアの最後にヨーロッパの舞台でプレーすること。そしてたくさんのタイトルを勝ち取ったカペッロ監督を身近で知ること。ジャーナリズムを通じてではなくチームの中から直接ね。
他人から聞かされる話というのは、もう知られていたり、偏見が入っていたりするものですから。彼がどんな風にチームをまとめて行くのか、どんな練習をするのか、勝った時に、あるいは負けた時にチームをどう修正するのかなどを、チームの一員として体験し理解する絶好の機会だった。
ぼくはローマから誘われるという幸運に恵まれて、それを生かしたというわけです。あの素晴らしい街で暮らし、チャンピオンズ・リーグでちょっとだけプレーし……。試合にいつも出てプレーする以外、すべての経験をしたってことですよ。知りたかったことはすべて知った。試合には出なかったけどね。
6ヶ月間、観光をして帰ってきた、と。
――でも、カペッロがどんな監督か、ローマがどんなチームかは、すでにわかっていたと思います。あのチームの中に自分の場所があると思っていましたか?
もちろん。そう思わなかったら、ここに残ってましたよ。あそこに行くことを選んだのは、自分の力を信じていたから、大きいか小さいかはともかく、その力を生かして、あのチームがよりいいサッカーをするために貢献できると思っていたからですよ。
それは思い違いだったのかもしれないし、直面する状況を予想していた面もあったけれど、でも、今でも自分では、あのチームのために役立つことができるという思いは変わりませんよ。とはいえ、すべては監督の選択次第だし、監督の選択は最初からはっきりしていた。ぼくよりも他の選手の方を評価していました。
――さっきあなたは、求められたことは自分ができること、得意なことと違ったと言ってましたよね。具体的にはどのように違ったんでしょう?
ぼくがサッカーをするためには、ボールが必要なんです。ぼくはサッカーというゲームを理解しているし、すべてのファクターが重要だということも知っている。医学、食事、毎日の過ごし方、トレーニング。そべて、いいチームを作ること、選手がいいコンディションを保つことに欠かせないものです。
でも、すべては、ぼくにいわせれば、一個のボールから始まる。残るすべては、その後からついてくる。それに、ぼくはボールがないところでは苦労する。神様は、他の多くの選手たちと同じようなフィジカル能力をぼくに与えてくれませんでしたからね。
ぼくは、ボールがあるところではいいプレーができる。もちろんボールがないところでもプレーすることはできるけれど、ずっと苦労が大きい。ぼくがローマで直面した困難はそこにあった。それだけ。他には何もありません。
――と言うことは、ローマではとりわけ、ボールのないところでプレーすることが要求されたということですか?守備のために?
いや、守備のためだけじゃありません。ぼくのサッカーの考え方に立つと、一番のディフェンスは、こちらがボールを持つことです。ボールをより長く支配すれば、それだけ守備の時間は少なくなる。より攻撃して、ボールを支配することが大事。
だから、チームがそれとはちょっと違う方向に向かうと……。何というか、プレッシング、カウンターアタック、当たりの激しさ、闘志といったコンセプト、もちろんこれらも、サッカーにおいてはすごく大事なことですよ。
でもぼくにいわせれば、すべてはボールから始まるべき、そこに根差していなければならない。その点で、プレッシングとか当たりの激しさとか、そういう考え方を受け入れ、適応するのに苦労したということです。
――要は、サッカー観、哲学の違いということですよね。
その通り。結局はそこですよ。ドイツに行けばドイツのサッカーがあるし、アルゼンチンにはアルゼンチンのサッカーがある。ブラジルに行けばまた別のサッカーがある。
ぼくは自分では、どんな国、どんな場所でもいいプレーができると思っていますよ。サッカー選手ならだれでもそう思っているようにね。
単に、決めるのは監督の仕事だということです。この場合はミステル・カペッロが決めるということ。彼が求めていることに関しては、ぼくよりも能力の高い選手が他にいたということです。そのことはぼく自身が一番最初に認めますよ。
フィジカル的にもっと強い選手、彼の考え方に合った選手がいた。ぼくは彼のメンタリティを変えたいと思ったことはありません。それは彼のものなのだし。
ただぼくは実際に見て知りたかった。そして知ることができた。でもそうやって6ヶ月過ごして、あの状況でそのまま続けることにはもう意味がなかった。
ぼくの頭にあるのは、もっと楽しめるサッカー、プレーの質、テクニックに根差したサッカーです。
ぼくはまだ、ボールよりも速く走る選手や監督に出会ったことはありません。ここ(頭)よりも速いもの、蹴り出されたボールよりも速い選手は存在しない。
もしかしたら間違っているのかもしれないけれど、ぼくは13歳の時から、こういうサッカー観の下で育ってきた。その影響はとてもとても大きくて強いから、この歳になって新しいことを付け足すのは簡単なことじゃありません。カペッロのコンセプトは理解できるけれど、何よりも大事なのはボールだというぼく自身の考えは変わりません。
――でも、ローマでの経験にもポジティブな側面はあったんじゃないかと思います。
いや、ローマでの経験はネガティブな面よりポジティブな面の方がずっと大きかった。
イタリアのビッグクラブを知ることができたし、カペッロのような監督、すばらしいチームメイトとも知り合った。ローマという美しい街で暮らすこともできた。ただ、試合でプレーしなかった。それだけのことです。自分を責めるようなことは何もありませんよ。
――ここまでの話はさておくとして、いずれにしても今シーズンのローマは不調をかこっています。その理由はどこにあると思いますか?
ぼくはずっと、いいサッカーをした方が勝つ、それができなければ最終的に勝つことはできない、と考えてきました。リーグ戦でも、あるいはカップ戦の準々決勝でも、あるひとつの試合に偶然勝つというだけならあり得るけど、最終的には、重要な選手を故障で欠いた難しい状況だったとか、もしかすると審判がいくつかの状況で不利な判定を下したとか、そういうことを超えたところで、ぼくはいいサッカーをした者が勝つと信じてきました。
ここイタリアはそれとはちょっと違います。ぼくは、いいサッカーをした者が勝つと教わってきたけれど、ここでは勝った者がいいサッカーをしたと言われる。
でもぼくは今でもまだ……、あっちのカルチャーの持ち主ですからね。最後にはいつも、言いサッカーをした方が勝利の3ポイントを持ち帰ると信じてる。
だから、いまさっき言ったようなことがあったにせよ、ローマがいまこういう状況にいるとすれば、それはそういうサッカーしかできなかったということですよ。
――ということは、単純にローマはいいサッカーをしていないからだと。
そう。いいサッカーをしていない。順位表は嘘をつきません。わかりますか?絶対に嘘をつかない。この順位にいるとすれば、それには確かな理由がある。チームに起こったいろいろなこと、故障だとか不運だとかそういうすべてを超えたところにね。
ミランがトップで、ユーヴェがその次にいて、ラツィオがいる。それは、他のチームよりもいいサッカーをしているからです。ブレシアが今こういう状況にいるのも、いくつか出来の悪い試合があったから。
シーズンを通した順位表は絶対に嘘をつきません。ぼくはバルサで6回優勝している。6回です。その6回とも、ぼくたちは他のどのチームよりもいいサッカーをした。そうじゃない年には優勝できなかった。なぜなら、サッカーとはそういうものだからです。いろいろな事情があろうとなかろうと、最後にはいいサッカーをした者が勝つ。
ぼくはいなかったけれど、ローマがこの2年、1位、2位だったのも、彼らのサッカーが他のチームよりも優れていたからでしょう。だから今シーズンこういう状況にいるとすれば、そこには理由がある。
重要なのは、クラブや監督がそれを知ることです。来年同じことが起きないようにするためにもね。ぼくがローマを批判しているとか、そういうことじゃありません。ぼくだってあのチームの一員として責任の一端を担っていたわけだし。
言いたいのは単に、ああいう状況にいるとすれば、そこには確かな理由があるということ。そして決定権のある人たちは、その理由を知らなければならないということです。
――ここでもう少し、スペインとイタリアの間にある文化の違いについての議論を深めたいんですが。ふたつのサッカー文化、サッカー観の一番大きな違いはどこにあると思いますか?
スペインでは、ふたつのチームが両方とも、自分たちの試合をするためにピッチに立ちます。ここでは、今シーズンは昨年に比べると少し変わったけれど、でも去年思ったのは、誰もがまず、自分自身がどうするかよりも先に、まず相手のことを考えるということです。
スペインでは、どんな小さいチームでも、戦う時にはまず、自分たちの持てる武器を総動員して勝つために攻撃することを考える。でもここでは、まず相手がどうするかを見て、それで自分がどうするかを考える。でも今年は少し変わって来ています。
ミランがそのいい例ですよ。より楽しめるサッカーを見せようという意志がある。ミランのサポーターは何年もの間、自分たちのチームが今年のようにいいサッカーをするのを見ることができなかったと思います。
ラツィオもそうだし、キエーヴォも、そしてぼくたちブレシアもそうです。ボールを軸にしたサッカーをしようとしている。小さいチームの中でも、エンポリとかモデナとか、どこもいきいきと楽しそうに、何も怖れずに戦っていますよね。
もしこの前進が続くのなら、イタリアはどの重要な大会でも勝ち進むことができると思います。なぜなら、イタリアには、スペインにはない要素があるからです。競争心の強さ、アグレッシヴさ、そういう、サッカーにとってすごく大事なメンタリティを文化として持っている。
――ということは、サッカーを“プレーする”というメンタリティはスペインの方が強いけれど、闘争心の激しさみたいなものはイタリアの方が強い、と言ってもいいでしょうか?
ぼくは、闘争心というのは、どんなサッカーをするかということの結果だと思います。闘争的なサッカーというのが存在するとは思わない。敵の頭を殴るようなサッカーはあり得ませんから。
闘争的なサッカーがあるとすれば、それはピッチの上でボールをめぐって繰り広げられるプレーの結果でしかない。サッカーはひとつしかありません。11人対11人で、決まったピッチの上で行われる。
ここではよく、いやイタリアのサッカーはスペースが少ない、とか言われるけど、スペースが少ない?そんなことあるわけないですよ。イタリアだけ14人対14人でやってるわけじゃないし、ピッチが狭いわけでもないでしょう?ピッチの大きさは同じ、人数も11対11です。イタリアの方が狭い地域に固まってプレーしてるかもしれない。でもサッカーはサッカーです。何も違わない。
だからぼくは、大事なのはいいサッカーをすること、プレーを楽しむこと、プレーの「質」を高めることだと思う。「量」も大事ですけどね。でも、毎日ちゃんとトレーニングしている20代前半の選手が、いいフィジカルコンディションにあるのは当然ですから。
――あなたのポジション、セントラルMFのあり方もずいぶん違います。スペインではあなたはメディオセントロであり、あるいはピヴォーテ(注:いずれも中盤の底で攻撃の起点となる仕事を主とするMFの呼称)ですが、イタリアではメディアーノ、インコントリスタ(注:いずれも中盤の底で走り回りボールを奪う仕事を主とするMFの呼称)ということになる。この解釈の違いは……。
サッカーの違いを示していますよ。その点では、アンチェロッティのミランは大きな進歩を示したと思います。その前にすでにマッツォーネが、ピルロをあのポジションで使ったこともあったそうですが。
でも他のチームはどこも、あのポジションにフィジカルがすごくすごく強い選手を置こうとしている。それは……、中盤の守備を固めてカウンターを食らわないため、より堅固で安定したチームにするためです。
でも……、攻撃は後ろから組み立てるものだということを忘れています。後ろから「きれいな」ボールが出てくれば、前線にも「きれいな」いいボールを送ることができる。後ろから出てくるボールが「汚い」と、前線にも「汚い」ボールしか届けられない。
だからスペインサッカーでは、ディフェンダーにとって重要なのは守ることだけじゃありません。もちろん一番大事なのはそれだけど、ボール扱いも上手くなければならない。ボールを持って前を向き、どこに数的優位があるか、右か左か中央か、どこから攻撃を組み立てるか……。その点から見ると、確かに違いがありますね。
――実際バルサでは、あなたの後ろにクーマンとかデ・ブールとか、それができるディフェンダーが必ずいました。
その通り。テクニックのある選手がね。イエロやエルゲラだって、最初はミッドフィールダーでしたよ。後ろに下がったのは後からの話です。
ふたりともテクニックがあって、ボールを動かすことを知っている。それが我々のカルチャーだからです。いつもショートパス、いつもロングパスではなく、その時々ではっきりしたアイディアを持ってプレーしなければならない。後ろからきちんといい組み立てをしなければならないというのが、スペインサッカーの考え方なんです。
――あなたは今、スペイン時代と同じようにプレーしようとしていますか?それとも多少はこっちのやり方に合わせようとしている?
もちろん多少の適応は必要だし、そうしましたよ。でも監督がぼくに主に求めているのは、ボールを受けてコントロールし、その時の自分の直感に従って攻撃を組み立てること、そしてできる限り速くプレーすることですからね。
ぼくは、すべてのボールをダイレクトでプレーできれば世界最高のプレーヤー、いつもツータッチなら並のプレーヤー、いつも3タッチ以上する奴は世界最低のプレーヤーだといわれながら育ちました。だからぼくはいつもここ(頭)を使って、できる限り速くプレーするよう心がけているんです。
――多少の適応というのは、具体的にどんなことを?
まあ、あまり上がらず後ろに残って、前で何が起こっているかを見るようにしています。監督の言うことを聞いてね。
例えば、スペインではいつもグラウンダーのパスだけど、ここでは時にはもっとダイレクトなサッカーをしなければならない、とか。
――頭の上をボールが飛んで行くでしょう?
まあね。でも大事なのは、いいサッカーをできる条件がここに揃っていて、すべてはボールから始まるというコンセプトがあるということです。
――あなたはクライフやファン・ハールをはじめ、攻撃的なサッカーを掲げる監督の下でプレーしてきました。あなた自身も攻撃指向のサッカー文化を持っている。そういう立場から、ディフェンス第一主義のイタリア的サッカー文化をどう見ているのでしょう?
まあ……、これはひとつの歴史ですからね。歴史は変えることができる。イタリアは3回ワールドカップに勝っています。常にカテナッチョでね。
まあ、イタリアサッカーは常にカテナッチョという言葉で語られてきたわけで……。これが例えばドイツとなると、全員身長が1m90cmで、70mも80mもがんがん走る連中、という話になる。要するに、それが文化だということです。そして文化を変えるというのはすごく難しい。
だからぼくたちイタリアに来た外国人選手は、ここのサッカーに合わせなければならないというわけです。
――人々のサッカーとの接し方は、イタリアとスペインでは違うんでしょうか?
いや、大きな違いはありませんよ。ここでは、イタリアはプレッシャーがすごいとか言うけれど、その前に向こうにも一度見に行くべきですね。
――そうなんですか。
向こうで一番重要なふたつのチームはレアル・マドリーとバルセロナだけど、毎日それぞれのチームについて10ページ、12ページを費やす新聞が2つもあるんです。
ここイタリアではそれはない。ガゼッタ・デッロ・スポルトはミランについて2ページしか書きません。向こうは10ページですからね。だから、イタリアではサッカーについてたくさん報道されているというのは、本当の話ですが、それはスペインでも同じですよ。
それにスペインにはそれに加えてラジオもある。イタリアではローマでだけ起こっていることだけど、スペインのラジオはずっとサッカーのことばかり喋っている。
――ローマと同じなんですか?それとももっと?(注:ローマのローカルラジオ局には一日中カルチョのことを喋っているところがいくつもある)
スペインではもっとそうですね。
――話題を変えましょう。2000年12月28日。この日付で何か思い出すことは?
娘が生まれた日ですよ。
――あなたにとってはすごく重要な出来事だと思います。
どんな父親にとってだってそうだと思いますよ。
――娘さんが生まれて、あなたの人生のどこが、どんな風に変わりましたか?
すべてですね。怖れが大きくなった。
死について考えるようになった。
より人を愛するようになった。
すべてが変わるんです。いい方向にも悪い方向にもね。娘と一緒にいればすごく幸せだし、一緒にいられないとすごく悲しい。子供以上に素晴らしいものはこの世にはありません。彼女の中にはぼくの血が流れている。
純粋な愛情ですよ。何も期待せずただ与えることが喜びなんです。子供に命を与えたのは自分なんです。子供のためなら、他の誰のためにもやらないことを喜んでやれる。それ以上に素晴らしいものは存在しません。
サッカーにおいて一番大切なのはボールだ、とさっき言いましたが、人生において一番大切なのは、子供が生まれれば、その子供ですよ。
――毎日の生活ももちろん変わった、と。
もちろん。前はゴルフに行けたけど、今はもう行けませんよ。
――いつも家で娘さんと一緒に……
それが当たり前ですよ。父親になるのは、父親という仕事を楽しむためでもあるわけですから。子供が育ち、毎日どんな風に変わって行くかを見ながらね。
チームと遠征している時には、毎日子供の顔を見ることができない。そういう仕事である以上、子供と一緒にいられる時はできる限り一緒にいるようにするのが当然ですよ。
――子供ができたことは、あなたのサッカーにも何か影響を与えましたか?
よりリラックスするようになった。たぶんね。
プレーを始めた頃は、サッカーが人生のすべてでした。すべて。それ以外にはなにも存在しなかった。そのうちに、ひとりの女性と知り合って、一緒に暮らすようになって、ふたりの間に子供ができて……。人生の優先順位も変わってくるものですよ。
――2週間前には息子さんが生まれたばかりですよね。もう顔は見ましたか?
ええ。偉大な右サイドバックになりますよ。足がこんなに太いから。
――あなたが一緒にプレーした偉大な選手たちについて、少し聞かせてください。ストイチコフ、ラウドルップ、ロマーリオ、ロナウド……。たくさんいますよね。
たくさんね。
――その中で一番強く印象に残っているのは誰ですか?
全員ですね。みんなぼくの中に何かを残してくれました。何人かは、プレーの素晴らしさだけでなく、それを超えたところで大きな何かを与えてくれた。
――例えば?
例えばラウドルップ。例えばロナルド・クーマン。偉大な人物であり、偉大なサッカー選手でした。
――ここでもまた、バッジョのように本当に偉大なプレーヤーと知り合う幸運に恵まれたし。
ええ、たくさんのカンピオーネと一緒にプレーすることができて本当に幸運だった。たくさんのことを学びましたよ。彼らと一緒にプレーすることを通じて、ぼくは自分自身が実際にそうである以上にいいプレーヤーになれた。それは絶対に間違いありません。
偉大なプレーヤーと一緒にプレーすれば、より上手くなれるものです。同じレベルの選手と一緒にやっていても、それ以上は伸びない。その点で、バルセロナというチームがぼくの成長の大きな助けになったことは間違いありません。
――ブレシアに来るという選択には、バッジョの存在もかかわっていましたか?
もちろん。もちろんですよ。それまで直接は知りませんでしたからね。でも実際に身近で見るまでは、これほどまでにすごい選手だとは思っていませんでしたよ。
これも運命の嬉しいいたずらですね。
――監督のマッツォーネも、あなたのこれまでの監督とは全然違うタイプだと思いますが。
ぼくにとっては父親のような存在でした。去年のようにすごく困難な時期には、そういう存在が必要だった。
最初からぼくに何を求めるのかすごく、すごく明確だったし。キャリアの最後を迎えた僕のような選手には、それはすごく大事なことです。
言うべきことはいつも言ってくれること。態度が明確ではっきりしていること。ぼくにとってはいい環境だし、彼がやろうとしているサッカーもぼくが好きなサッカーです。あとはその信頼にぼくが応えるだけですよ。