――キエーヴォを率いて今年で3シーズン目になりますね。まずは、セリエBから始まったこの“冒険”を振り返っていただければと思います。
キエーヴォの監督に就任したのは、1年半にわたる“浪人”生活の後でした。就任時の目標はどんなものだったのでしょう?

「カルチョの世界に戻って、評価される仕事をしたいということ。セリエB、セリエAで実績を残せば知名度は高まるからね。

具体的には、クラブと歩調を合わせて充実したシーズンを送ること。なるべく早い時期にセリエB残留を決め、何人かの選手を、もっと上のカテゴリーでも通用するレベルまで育てる。まあ、3年前まではそれが、セリエBで戦っていたキエーヴォの基本戦略だったわけだ」

――ところが、1年目ですぐにセリエA昇格を勝ち取ってしまった。

「そう。戦って行くうちに目標が変わって行った。チームもクラブも、もっと高いところまで行けるという自信を獲得していったんだね。ひとつずつ目標を上方修正していった結果、最後にはセリエA昇格という結果にたどり着くことができた。シーズンを通してセリエBの主役を務めるという、昇格にふさわしい内容でね。

大きな危機には一度も陥らなかったし、選手たちのパフォーマンスも非常に高かった。みんな、自分に合った環境をキエーヴォに見出し、情熱を持って戦ったからね。ヴェローナ郊外の小さな地区をセリエAの舞台に送り込むというのは、それだけで十分な偉業だったといえるんじゃないかな」

――あのシーズンは、ずっとトップを走っていながら、春先にかけてやや足踏みしましたよね。あの危機をどうやって乗り越えたのでしょう?

「まあ、危機というほどのものでもなかったよ。5位に8~9ポイントの差をつけて昇格が濃厚になったところで、ちょっと緊張が緩んでしまった。だから、とにかく戦い方を変えることなく、今までと同じサッカーを続けて行くことだけを目指した。

変えるということは、ひとつの確かさを失うということだったからね。自分たちの戦い方、自分たちのサッカーという確かさを手放さず、逆にそれをレベルアップしていくことが重要だった。

それによって、それまでチームを支えてきたポジティブな心理状態を保ち続けることができた。つまり、鍵は自分たちのやり方を守り続けたところにあったということだね」

――そしてキエーヴォは、セリエAに昇格した後も、その戦い方、自分たちのサッカーを変えることなく戦った、と。

「その通り。一番の課題は、我々のサッカーが上のカテゴリーでもそのまま通用するかどうかを見極めることにあった。

まず考えたのは、ラインを高く保って、積極的にオフサイドトラップをかけるディフェンスで大丈夫か、我々の純粋なゾーンディフェンスが、1対1に強いセリエAの選手を相手にしても通用するか、ということだった。

でも、フィレンツェでの開幕戦以降、これで行けるという見通しが立って、あとは小さな修正を加えながら最後まで戦い抜くことができた。結果としては……」

――スーパーなシーズンでした。

「ああ。驚異的なシーズンだったと思う。キエーヴォのように小さなクラブにしてみればね」

――実際、順位はもちろんですが、内容もセンセーショナルなものだった。サッキ・スタイルの4-4-2、高いラインとオフサイドトラップ、両ウイングを使ったサイド攻撃……。
昨シーズンのキエーヴォはこれらを通じて、イタリアサッカーに新しいメンタリティを持ち込んだといえるのではないでしょうか?

「まあ、みんなそう言うね。私たちは、自分の考え方に基づいて自分の仕事を評価するだけだから、他人の言うことが正しいかどうかはわからないけれど、おそらくいえるのは、我々が中小クラブのメンタリティを変えたということじゃないかな。

相手のサッカーを受け止めるのではなく、まず自分たちのサッカーをすることを考える。サッキ流の4-4-2とかそういう戦術的な部分はさておき、メンタリティの部分でキエーヴォが変化をもたらしたというのはあるだろうね。

基本のコンセプトはこうだ。小さな人間、小さなチームが、大きな秩序や大きなチームに対する時にも、相手に合わせるのではなく、自分の持っている力を発揮するという気持ちを保ち、進んで行くということ。

もし、小さなクラブがビッグクラブと戦う時に、相手のサッカーに合わせて守ることだけを考えたら、敗北を免れることは決してないと思う。それ以外の結果は起こりえない」

――でも、結果から見ると、今シーズンになって戦い方を変えたのは、中小チームというよりもむしろビッグクラブの方でしたが。

「ビッグクラブは投資額が違うからね。例えばミランにしても、莫大な投資であれだけの選手を揃えたからこそ、攻撃的なチーム、攻撃的なサッカーを目指すことが可能になったわけで。

でも我々はセリエAの世界に、これまでとは違うサッカー観、つまりいいサッカーをして勝つことが可能だという考え方を示した。私は、いいサッカーを目指したら勝てないとは思わない。いいサッカーをして勝つほうが、いいサッカーをしないで勝つよりも簡単だからね。

でもイタリアでは、ちょっと前までは違う考え方が支配的だった。とにかく何が何でも勝つことだけが重要で、ピッチの上でどんなサッカーをするかということは二の次だったんだ。

私は、チームとしてのバランスを保ち、いいサッカーをすることを目指すことを通して勝利を重ねること、重要なリーグを制覇することは可能だと思っているんだよ」

――セリエA初めてのシーズンは、すべてがうまくいった、と言っていいのでしょうか。それとも困難に陥った時期もあった?

「普通に過ぎた1年だったよ。セリエAで戦うのは初めてだったし、それに対応した戦術コンセプトに関して、十分に練れていなかった部分はあったかもしれないけれど。

チームが心理的に困難に陥った時期はあったかもしれない。テレビや新聞に否定的なことを書き立てられて、チームが心理的に追い込まれるというのはよくあることでしょう?水が真ん中まで入ったコップのことを表現するのに、半分満ちていると表現するか、半分空だと表現するか、それだけで天と地の違いだからね。

周りから半分空だと言われ続けてチームが落ち込んだ時期も、私にとっては半分満ちていると言った方がずっと正しかった。キエーヴォが不調だと言われた時期を振り返ると、10試合無敗で、3勝7分という成績だったんだから。

キエーヴォのように残留を目標にしているチームに対して、それがネガティブな成績だと責めるのは、私にはちょっと厳しすぎるような気がするけどね」

――ということは、常にコップは半分満ちていた、と。

「その通り。いや、常に一杯だったと言うべきだね。半分、なんてことはそもそもなかった」

――昨シーズンは、セリエAで初めてのヴェローナ・ダービーもありました。2試合ともいい内容で、スペクタクルだった。

「1年で終わってしまったのが本当に残念だ。というのもヴェローナという町は、セリエAに2チーム持つにふさわしい都市だと思うから。この規模の地方都市がそれを実現したのは初めてのことだったからね。

しかし、ヴェローナのB降格で、それも終わりを告げてしまった。私はこれからもずっと2つのチームがセリエAで戦い続け、ヴェローナのダービーも大都市のそれと同じように重要なものになっていくと信じていたんだけれど。

おそらくこの先、他の地方都市がセリエAに2つのチームを送り込んでダービーを行うというのは、すごく困難、というよりも起こりえないことだと思う」

――そして迎えた今シーズンは、昨シーズンがフロックでないことを示すべき年だと思います。チームのモティベーションを維持し、継続性を保って行くために一番重要だったのはどんなことでしょう?

「まず大事だったのは、キエーヴォの降格は確実、というマスコミの声を否定することだった。もちろん我々も、他の同じレベルにあるチームと同様、残留のために戦い続けなければならない立場にはある。でもだからといって、もう降格間違いなし、というのはどう考えても言い過ぎでしょう。

これもさっき話したのと同じ、マスコミの心理的プレッシャーなんだけれど、まるでキエーヴォが夏休みのたった1ヶ月半かそこらの間に、自分たちのサッカーをすべて忘れてしまったと言わんばかり。カルチョの世界に生きる私の感覚からすると、あまりに見下した言い方だと思ったよ。

実際我々は、トップレベルでの経験を持っていない新戦力を加えたチームでも、同じようにいい仕事をして、結果を残せることを示した。若い選手を何人かデビューさせたし、前半戦の結果は素晴らしいと言い切れるものだった。

先週は、残留をめぐる直接の競争相手であるペルージャに敗れたけれど、0-0で終わってもおかしくなかったとはいえ、内容から見れば順当といっていい結果だった。

要するに、チームはさっき言った心理的プレッシャーに負けることなく戦った。その中で明らかになったのは、我々がユヴェントスやミランと対等に戦える、と考えるのは間違いだということだね。ユーヴェやミランには負けても不思議ではない。でもそれ以外のチームとならば対等かそれ以上に戦える。

いま我々はそういう確信を持っている。違う見方をする人たちもいるけれどね。キエーヴォに対する警戒を緩める相手もいるかもしれないけれど、そう多くはないはずだ」

――今シーズン、チームやクラブを取り巻く環境で、何か変化したことはありますか?

「別にないね。チームの中は変わらぬ意欲に満ちているし。さっき言ったように、何人かメンバーが変わったけれど、でもチームが表現しようとしているのはずっと同じコンセプトだ。残した結果も大きくは変わらない。前半戦で26-27ゴールというのはいい数字だと思うし。序盤戦に抱えた小さな問題を考えればなおさらね。

失点も去年より少なくなった。ユーヴェ戦で4点取られて平均はちょっと上がってしまったけれど、まあそれは許容範囲のうちだし。前半戦で17失点ということは、このペースで後半戦も行ければ30失点強でシーズンを終えることになる。これは昨シーズンよりも20点以上少ない数字だ。そうやって向上して行くことが必要、ということだね」

――今シーズンに向けてのチーム作りで、移籍を巡るラツィオとのトラブルもあって、クラブは狙い通りの補強ができませんでした。あなたも序盤戦は、戦術的に間に合わせの対応を強いられた面がありましたが。

「まあね。でもそうともいえない面もあるよ。メンタリティは変わっていないからね。私にとって大切なのはメンタリティだよ。戦術に関しては、もう誰もが知っているし、誰でも導入することができる。私は、どのシステムが一番進んでいるか、という議論は意味がないと思っているんだ。

進んでいるかどうかは、それをどういう風に解釈し実行するか、それを決める監督の考え方によって決まるものだからね。確かに序盤はちょっとした困難に直面したけれど、その時にもサイドハーフのポジションにフォワードのプレーヤーを入れて対応した。

つまり、失点の危険を冒してでも得点を取りに行くという点では変わらなかった。両ウイングの替わりに、ディフェンシブハーフを2人サイドに置いたわけじゃない。フォワードをふたり入れたんだ。このこと自体、キエーヴォがどんなメンタリティで試合に臨んだかを示している。これは十分建設的なアプローチだと思うけどね。

そう考えると、キエーヴォはメンタリティの点で向上したということもできる。ふたりのウイングを起用して攻撃的に戦うことができなかったから、ふたりのフォワードをサイドに起用して攻撃的に戦ったというわけだ。
これが、現在のキエーヴォを示す事実だよ」

――でも、デッラ・モルテやフランチェスキーニはフォワードじゃないですよね。

「彼らはウイングだよ。でも序盤戦でサイドに起用したコッサートやペリシエルはフォワードだ。フォワードだけれど、ウイングとしてもプレーすることができる。サッカーの未来はこの方向にあると思うよ」

――そういう戦術的柔軟性ですか?

「いや、ウイングの重要性だよ。将来、ディフェンシブなMFがウイングのポジションに入ることはなくなるだろうね。ウイングは常に攻撃的で、1対1に強く敵を抜き去ることができて、スピードがあり、ゴールを決める能力もある。そういう選手だけがプレーするポジションになる。

いつになるかはわからない。私がもういなくなってから、例えば10年後かもしれないけれど、よりスペクタクルなサッカーを見せる方向に進化した時にそうなるはずだ。サッカーにおける最高のスペクタクルはゴールだからね」

――この2年足らずの間に、キエーヴォは5人の選手を代表に送り込みました。あなたにとっても大きな喜びだったと思います。

「ああ。でも、代表を勝ち取ったのは選手たち自身だよ。彼らはそれだけの素質と才能を持っていて、それを十分に発揮した結果だから。同時にクラブにとっても大きな喜びだった。これまでの仕事が報われたわけだからね。

マラッツィーナ、レグロッタリエ、ランナ、ペロッタといった選手が代表でプレーするのを見るのは、我々みんな、誰にとっても大きな満足だったということだよ。マンフレディーニもそうだし。う~ん。他に誰か代表に行った選手はいたっけ?」

――コリーニです。

「そうそう。エウジェニオ・コリーニもそうだ。まだ試合にこそ出ていないけれどね。でも今度の招集ではたぶんチャンスがあるんじゃないかな。

いずれにせよ、このことは、私たちがいい仕事をしていること、いいグループであること、選手たちが才能を持っておりそれを表現できる環境があるということを意味しているわけだ。これが私がキエーヴォで過ごした3年間に得た、たくさんの喜びと満足のひとつであることは間違いないよ」

◆ ◆ ◆

――ちょっと話題を変えましょう。あなたはフリーウリの出身ですよね。アクイレアという町で生まれ育った。どんな子供時代を送ったんでしょう?

「まあ、あの時代、地方の村に生まれた子供なら誰でも経験したような生い立ちだよ。地方の農家、家父長制の大家族に生まれ育った。15~20人が一緒に暮らし、畑に出て働くようなね。

昔はそうやって農業で食べていたけれど、戦後になって工業化が進むにつれて、段々と工場で働く人が増えて行った。フィアットの工場(トリノにある)で働くために村を出て行く人が増えたりもした。そうやって生活水準は上がって行った。

そんな中で私は素朴で純真な少年時代を送ったよ。家族からは人生で大切にすべき価値観を教わった。それは今になってもずっと、忘れることなく私の中に生きている。

私が幸運だったのは、まず何よりも、そういう家族に生まれたこと、そしてそこで教えられた価値観と共にここまでやって来れたことだと思っているよ」

――ご両親から受け継いだその価値観を、サッカーの世界で仕事をする上でも活かしてきたわけですね。

「もちろんだよ。まず一番大切なのは、他人に対する敬意と尊重の気持ちだ。それは、私自身が築いた家族の中にも、そしてサッカーという仕事の中にも生きている。

というのも、ひとりの人間として大切なのは、何よりもまず、価値を守ることだと思うからね。その中でも最初に来るのが、他人に対する敬意と尊重の気持ちであり、他人を気づかう気持ちであり、他人を傷を与えないこと、そして人々に助けの手を差し延べること。

これらは、サッカーの世界でも同じように尊重すべき価値だと思う。この世界は結果がすべてと考えられがちだけれど、それはひとつのゲームとして考えた場合にそうなだけで、人生の価値はまた別なところにあるものだからね」

――サッカーの世界に入るきっかけは?

「小さい頃からサッカーが好きだったからね。私に人生の価値を人生の価値を教えてくれた師は、一番最初の監督でね」

――チーゾ・パドヴァン氏ですね。

「そう。彼はもう80歳になるけれど、私は今でも、月曜の朝には彼のところに行って、コーヒーを飲みながら話をするんだ。

私は友人はそんなに多くない。3~4人、でもそれぞれみんな、私の人生にとって大きな意味を持つ人間ばかりだよ。中でも彼(パドヴァン)との絆はすごく強いね。彼と一緒にサッカーを初めて、プロにあこがれる田舎の子供たちなら誰でもたどるような道を、一緒にたどってきた。

ユヴェントスのファンでね。当時はシヴォリやチャールズがいた。そして16歳でスパール(フェラーラにあるプロクラブ)に引き抜かれてユースチームに入り、そこから、まあまあのレベルのプロ選手として、セリエA、セリエBでプレーするというキャリアが始まったというわけだ」

――どんなタイプのプレーヤーだったのでしょう?

「今の時代の例を出して説明するのは難しいね。フィジカル的には大したことはなかったな。足は遅いほうだったし、痩せ型でもなかった。でも、プレーの展開を読むスピードはすごく速かった。

当時セリエAでプレーしていたプレーヤーと比べても、展開を読み取ってプレーに移すまでの時間がすごく短かったんだ。だから他の選手よりも一歩早いタイミングで動き、プレーすることができた。もしこの能力がなかったら、プロとしては通用していなかったと思う。フィジカル能力は大したことがなかったからね」

――現在プレーしている誰かにたとえると?

「う~ん。現代サッカーでは消えつつあるタイプだからね。キエーヴォにはコリーニがいて、私の好きなタイプのプレーヤーだけど、私の時代には、あえて例を挙げれば、たとえばリヴェーラ、コルソ、スアレスといった選手がいた」

――レジスタ(中盤のゲームメーカー)というよりもメトディスタ(中盤の底で攻撃の起点となるディフェンシブハーフ)だった?

「いや逆だね。私は中盤やや上がり目のレジスタで、メトディスタのようにディフェンスのすぐ前でプレーしていたわけじゃないから。攻撃の選手だったんだよ」

――じゃあ背番号は8番ですか?

「8番か10番。その時のチームに応じてね」

――75-76シーズンには、チェーザレ・マルディーニ監督の下でプレーしたそうですね。テルナーナでしたか?

「いや、フォッジャだよ。セリエBでね。当時はまだ若かったよ。チェーザレも」

――でも彼は途中で解任されてしまった。

「そう。解任されてしまった。とても残念だったよ。彼とはとてもいい関係にあったからね。時代に合ったサッカー観を持った優秀な監督だった。

その時のことで今でも思い出すのは、チッコレッラというレストランで最後の挨拶を交わした時に、トリエステ弁で私に言ったことだよ。”va’ la’, va’ la’, buona”(上に行くよ。大丈夫、上に行く)と言ったんだけど、このbuonaというのはトリエステで良く使う言い方なんだ。

“te vedara’ che te vecera’ il campionato lo stesso”(いずれにせよお前たちは優勝するから。見ていなさい)、つまりセリエAに行ける、お前たちにはそれだけの力があるんだから、と言ってくれたんだ。実際そうなったよ。セリエBを勝ってね。それはもちろん、彼の指導と能力の結果でもあったんだ」

――あなたはとても太りやすい体質で、練習中にはいつもナイロンのスーツを着ていた、という話を読んだんですが。

「ああ、ありとあらゆるものを着たよ。ナイロンからウールのセーターまで、痩せるためなら何でもね。ベスト体重のリミットを保つのにはいつも苦労していた。食事にもいつも気をつけなければならなかったよ。体重を一定に保って、体形を維持するためには、食べ過ぎは許されなかったから。

一時はそれにそうとう苦労したんだけど、でもその後、私の体質に合った練習をする監督と出会って、バランスが取れるようになって、それからは体重を保つのにそれほど大きな苦労をしなくても済むようになった」

――選手としてプレーしている当時から、いずれは監督になろうと思っていましたか?

「いいや」

――そうじゃないんですか?じゃあどんな経緯で?

「私の妻だよ。私の妻」

――というと?

「選手としてのキャリアの終わりには、いままでのことを振り返って、これからどうしようと考えるものだ。例えば4年契約を結んだ時に、それが切れたところで一旦総括して、次にどうするか決めるみたいなことだね。

そんな感じで、サッカー選手という仕事が終わりに近づいて、じゃあ次にどうしようか、という話を妻としていた。私たちはすごく若い時に一緒になったんだ。私が21歳で彼女が19歳の時で、それからずっと一緒に暮らしてきた。だから私の現役生活をずっと見てきたわけだ。

そんな彼女が、あなたのプレーは頭脳的で理にかなっているから、監督に向いていると思う、と言うんだね。それがすべての発端。そのインプットから、じゃあ監督として通用するかどうかトライしてみよう、ということになったんだ。だから今の私、キエーヴォの監督としてここにこうしている私を作ったのは、私の妻というわけなんだよ」

――この選択をしたことに満足していますか?

「もちろんだよ。とはいえ、最初は簡単じゃなかったけどね。イタリア中を回ったよ。監督としてトップレベルにたどり着くというのは、いずれにしても簡単なことじゃない」

――確かに、C1、C2で長い下積み時代を経験していますね。

「そうだね。C2ではすべてのグループで昇格を果たして、C1でも勝った。
その前にはインテルレジョナーレ(セミプロの5部リーグ)も3~4年経験しているよ。ゴリツィアに始まり、パルティニカウダーチェという、パレルモの近くのクラブなどでね。

それからテーラモ、ラヴェンナ、ノヴァーラとC2のクラブを渡り歩いた。でもこの経験はすごく私の役に立っているよ」

――どんな面でですか?

「社会的な面、人間を知るという上でね。というのも、いろいろな地方の選手たちと接しなければならなかったから。キエーヴォの選手だって、ヴェローナの出身だけじゃない。パレルモ、カターニア、レッジョ・カラーブリアからアオスタまで、いろんな地方の出身だ。

それぞれの地方の社会、リアリティを肌で知っていれば、ひとりひとりの選手への接し方、話し方も、彼らの考え方に合わせて変えることができる。

パレルモ(南イタリア・シチリアの州都)で育った選手とボルツァーノ(北イタリア・オーストリアとの国境に近いドイツ語圏の都市)出身の選手に、同じ接し方をして同じ結果が得られるわけじゃないからね。

それぞれ生まれ育った社会的背景が違うわけだから、それぞれ人との接し方、人の言葉の受け止め方も違う。だから私もそれに合わせて接し方を変えなければ。

この経験を通じて私は、選手と対話し、相手を理解する時に、社会的な背景までを視野に収めることができるようになった。これは監督という仕事にとって非常に重要なことだと思う」

――優秀な心理学者でなければならない、と。

「その通り。イタリア中を回ったことはその点ですごく役立っているよ」

――下積み時代に、テーラモでエンリコ・キエーザと出会っていますよね。当時はどんな選手でしたか?

「今と同じ。まったく変わらないね。まだ痩せっぽちだったけれど、大きな才能があることは当時から明らかだった。そしてもっと成長しなければならなかった。

エンリコのことはいい思い出だよ。まだ若かったけれど、サッカーへの情熱に溢れていたし、未来に向けて大きな可能性を秘めていた。実際、彼はいいキャリアを送ったと思う。人間としても成長し、いいプレーヤーになった。

自分が指導した選手がその後成長して大きな結果を勝ち取ることは、とても嬉しいことだね。それはもちろん、私が指導したせいで成長したわけではなく、彼ら自身が才能と頭脳と人間性を備えていたせいであって、それが開花したということだよ。だから私には、いい選手に出会ったというだけでなく、素晴らしい人間に出会えたという満足感が残るんだ」

――キエーザ以外で、心に残る選手はいますか?

「たくさんいるよ。セリエB、Cなら、アンコーナでプレーしているボルゴベッロやシルヴェストロ。セリエAならコモのステッリーニ。彼と出会ったのは、まだノヴァーラ(当時C2)のユースでプレーしている頃だった。

私がノヴァーラの監督をしていた間、1年はユースに席を置きながらトップチームと一緒に練習して、翌年は私がデビューさせて1年間C2でプレーした。そこからキャリアが始まって、今はセリエAでプレーしている。その後、すごく成長したというわけだ。彼は今でも時々私に電話をくれるんだ。嬉しいことだよ。いい仕事ができたということだからね」

◆ ◆ ◆

――じゃあ、またちょっと話題を変えましょう。戦術の話、あなたの4-4-2についてお聞きしたいのですが。90年代後半、4-4-2はもう古い、システムとして通用しなくなった、とよくいわれました。でもあなたは常にこのシステムにこだわってきた。セリエAで指揮を取るチャンスを断念してまで。

(注:デル・ネーリは98-99シーズンに、当時セリエA2シーズン目を迎えていたエンポリの監督を引き受けたが、クラブ首脳に、前年のスパレッティ監督と同じ3-4-3システムで戦うよう要求されて、1ヶ月で辞任した)

「そうそう。あれはそうするしかなかった。もし自分が納得していい仕事をしようと思ったらね。あれは不幸な結婚だった」

――エンポリとのことですか?

「そう。私はもう若手じゃなかった。もちろんセリエAで指揮を執りたいと思っていたよ。どんな監督にとっても最大の目標だからね。でも、あの選択はお互い性急すぎた。

私がセリエCから来た監督だったから、自分の考えに強い確信を持っていないだろうと思われたんだろうね。結局彼ら(エンポリの首脳)は、自分たちのやりたいサッカーのために私とは違うタイプの監督を選んだ。

実際、就任して3、4日した時点で、私はもう辞めたいという気持ちになっていたよ。それでも1ヶ月頑張ったのは、自分が仕事ができる環境を得られる可能性があるか見極めたかったから。

すでに、エンポリにとってもあの選択は誤りだったという批判が、いろいろなところから出始めていた。デル・ネーリはこの環境にはなじまないとか、強面すぎるとか、自分の考えにこだわって柔軟性がないとか……。

でも私は、一旦誰かを選んだら、きちんと対話し、意見を交わすべきだと考えている。もし納得すればそのまま進めばいいけれど、納得できなかったらノーというべきだよ。それが大事なんだ」

――エンポリがあなたを切ったのは間違いだったんじゃないでしょうか。おかげで立ち直るまでに2~3年費やすことになった。

(注:後任にマウロ・サンドレアーニ監督を選んだエンポリは、この年最下位でBに降格。今シーズン昇格するまでBで3シーズンを過ごしている)

「いやそんなことはない。私はむしろ、彼らは正しい選択をしたと思っているよ。なぜなら私は、それぞれの環境にはそれに合う人間と合わない人間がいると思うから。たぶん私はエンポリには合わなかったのだし、もし私を残したとしても、彼らは望んだ結果を得られなかっただろうと思う。だから彼らの選択は正しかった。私の選択もまた正しかったと思うよ。

ただ、私がその後にやったこと、つまりテルニに戻ったことは大きな誤りだった。というのも結果的に1年半も浪人することになったからね。一度仕事をした場所に戻るべきではなかった。環境も、選手も、すべてが変わっているから。たとえ少ししか時間が経っていなくてもね。

(注:デル・ネーリはその前の2シーズン、テルナーナを率いてC2からBに、2年連続の昇格を果たしている。しかし、エンポリを辞任した後、シーズン半ばにテルナーナに復帰した時には、9試合で1勝もできないまま解任された)

でも、その後1年半の浪人生活を経て、キエーヴォと出会うことができた。もしエンポリの監督を続けていたら、今ここにはいなかっただろうし、このストーリーを生きることもなかっただろうね。すべてはちょっとした運命の綾だよ」

――話を4-4-2に戻しますが、他のシステムを導入したいと思ったことは一度もなかったのでしょうか?例えばザッケローニ流の3バックとか。

「なかったね。というのも私は、いろいろなことに手を出すと結局はいい仕事ができないと思っているから。私はひとつの仕事をきちんとこなす。できる限りきちんとね。そしてその仕事に持てる全てを注ぎ込む。その過程で私も大きく変わったよ。より向上したという意味でね。テーラモにいた時から今と同じサッカーをしていたわけじゃないからね。

当時はディフェンスで“ディアゴナーレ”(ダイアゴナル=斜めのポジショニング←説明すると長くなるので省略)を用いていたけれど、今はもう使われていない。

今使っているのは“コペルトゥーラ”(カバーリング)だ。これは似ているけれど異なる概念だよ。“ディアゴナーレ”を使うと、相手のFWに縦のスペースを多く与えてしまうことになる。ディフェンスの考え方としては大間違いだったんだ」

――“コペルトゥーラ”は常に1列だと。

「そう、ライン。ラインとして動き、カバーリングを行う。その方がFWが使える奥行きが少なくなるからね。敵とラインとゴールの間の距離の問題だよ。

要するに、私の戦術も変わってきた、改善してきたということ。4-4-2は常に改善の余地があるシステムだよ。大事なのはこのシステム自体を深く知ること。それを改善して行くためにね。

じゃあどのように改善するか?大きくいじるわけじゃないんだ。小さなことだよ。キエーヴォがどうやって世間をこれだけ騒がせたか?オフサイドトラップと2人のウイング。それだけだよ。そんなことあり得ないと思うかもしれないけどね(笑)」

――あなたは、高いディフェンスラインとオフサイドトラップをイタリアサッカーにもう一度持ち込んだわけですよね。

「うん」

――でも今年は、ディフェンスラインは以前ほど高くなくなって、去年とはちょっと変わりましたよね。どこが変わったんでしょう?

「いやそんなことはない。去年と同じだよ。相手が裏に出てこなくなっただけ。シュートを打たれなくなった。つまりキエーヴォの被シュート数が少なくなったということだよ。
それは、裏に抜けられる回数が減ったから。裏に抜けられる回数が減れば被シュート数も減る。当然のことだよ。

もちろん時にはミスをすることもある。日曜日、(ペルージャ戦で)テデスコがゴール前でフリーになってシュートを打ったけど外した。まあそういうこともある。でもペルージャは90分を通じて1本しかゴールの枠にシュートを打たなかった。しかもコーナーキックから。でもそれで1点取って勝った。そういうこともあるさ。

でも私にとって大事なのは、相手のFWが何回DFラインの裏に抜けるかということの方だ。もし裏を狙えば、オフサイドトラップにかかる危険がある。でも裏に抜けなければシュートは打てない。キエーヴォのディフェンスラインの動きの基本になるコンセプトはずっとこれ。何も変わっていない。

多少変わったのは相手の方だよ。時にはラインズマンが旗を上げないこともあるけれど、それはこっちがもうボールを奪い返している場合がほとんどだ」

――じゃあ、オフサイドトラップの仕組みやタイミングは、キエーヴォの中ではまったく変わっていない、と。

「変わっていない」

――でも今年は、ディフェンスラインが下がって行く場面をより多く見かけるような気がするんですが。

「いや、半分だけだよ。ディフェンスライン全体が下がるわけじゃない。ラインの一部が当たりに行って、残りの一部が下がる。全体が下がるのとは違う。

相手のプレーが同じでも、4人全員がラインを上げるか、それとも一部が当たりに行って残りは下がるかは、ボールの位置、ゴールからの距離によって対応が変わってくる。

というのも、ゴールから遠い位置からのロングパス、スローなボールは、相手の攻撃に奥行きを与える可能性が高いから。この場合には、ラインを上げずに一部が下がって対応する。このやり方を採用して、ディフェンスがより安定した。

ディフェンスの高さが増したことも大きいね。ディフェンスに関して、フィジカル的なパワーが高まった。昨シーズンはセットプレーから32ゴール、流れの中で21ゴールを喫した。でも今年はそこ(セットプレー)が改善された。ビアホフ、コッサート、レグロッタリエ、長身の選手が増えたからね」

――攻撃におけるキエーヴォの戦術の鍵は、2人のウイングですよね。

「ふむ。キエーヴォの鍵はディフェンスであって、ウイングは単にウイングだというだけだけどね」

――はあ。今シーズンは、ウイングに去年とプレースタイルがちょっと違う選手が入りましたが、戦術的な修正は何かあったのでしょうか?

「いいや。去年も今年も、サイドから攻めてたくさんゴールを決めているよ。クロスからね。ラゼティッチのクロスからフランチェスキーニのゴール。フランチェスキーニのクロスからデッラ・モルテのゴール。大きく変わったことは何もない。コッサートのクロスをGKが弾いてそれをゴールとかね。

いいサッカーを見せるためには、サイドからの攻撃を磨かなければならないと私は思っている。サイドハーフに攻撃的な選手を配してその資質を発揮させるためには、高い位置にいなければならない。そうじゃないと、カバーすべきピッチの縦幅が長くなってしまう。その状態で攻撃と守備を一人で受け持つのは不可能だからね」

――キエーヴォの攻撃では、少ないパスでシュートまで持って行こうとしますよね。

「もちろん」

――3~4本がいいところ。ボールポゼッションに関してはどんな考え方をお持ちでしょうか?

「それ自体を目的としたボールポゼッションには意味がない。ボールポゼッションというのは、プレーのスピードを遅らせることを意味しているからね。私はスローなサッカーは好きではない。スピードに乗った展開が好きなんだ。

サッカーで一番大事なのはスピードだと思う。サッカーにおけるスピードとは、ボールの動くスピードだ。ボールが速く動けば、よりスピードに乗ったサッカーができる。そのためには、それにボールを持たない選手のプレーも追いついて行かなければならない。

ボールのスピード、選手のスピードが速くなれば、シュートゾーンにたどり着くまでのスピードも速くなる。でもそのためには、ボールをコントロールできなければならないし、正しいポジションにいること、予め決められた組織的な動きをすることなどが大事になる。

ボールポゼッションというコンセプトは、相手のプレッシャーから逃れるときに重要になる。でもキエーヴォは、展開のスピードを落とすためにボールポゼッションを使うことは一切しない」

――しかし、このスピードとリズムを90分間、そして1シーズンを通して維持するためには、フィジカル・コンディショニングが非常に重要になってきますよね。

「もちろんそうだよ。私のスタッフには、優秀なフィジカルコーチ、GKコーチ、そしてアシスタントコーチがいる。みんな私と全面的な協調関係の中で組織的に動き、いい仕事をしてくれている。

フィジカルコーチとは10年以上一緒に仕事をして来て、フィジカル・トレーニングの内容も、年とともに改善し、変化してきた。すごく向上していると思う。今のチームにもその成果が表れているよ。キエーヴォは基本的に、1年を通して良好なフィジカル・コンディションを保っている。

私は、チームの調子というのは、フィジカルが落ちるからではなく、メンタル・コンディション、心理的な問題に負う部分がずっと大きいと思っている。1日2時間のトレーニング程度で、フィジカル・コンディションが大きく落ちるということはあり得ないというのが私の考えだ。もしそうならば、毎日10時間、工事現場で肉体労働している人たちは、一体どうなるか。

そのかわり、メンタルなコンディションによって変わる部分は大きいと思う。全てが順調に運んでいると、そのうちに緊張感がなくなってテンションが下がってくる。空腹感、つまり意欲が下がってくるんだ。でも、心理的に問題がなければ、選手は肉体的な負荷にも問題なく対応できるものだよ」

――キエーヴォのサッカーにファンタジスタは必要ですか?不要ですか?

「もしキエーヴォにファンタジスタがいればね。もちろんディフェンスには不要だよ。ファンタジーアが必要なのは攻撃だから。今のサッカーはファンタジーアに依存している部分も少なくない。勝つためにはトップレベルの選手、ファンタジーアが必要だからね。

でもこれから先、今進歩しつつあって、例えば2010年に主流になるサッカーでは、トップレベルでプレーするためにはまずアスリートでなければならないと思う。ボール扱いが上手いだけではもう通用しない。ボール扱いが上手く、動作が素早く、そしてアスリートでなければならない」

――じゃあ、古典的な10番にはもう活躍の場はありませんね。

「いやそんなことはない。場所はあるよ。チームが自分に合わせることを求めるのではなく、自分がチームに合わせようとするならばね。
もしそうならば、古典的な10番にも活躍の場はある。でもそうでなければ、試合の結果を左右するような存在にはなれないと思う」

◆ ◆ ◆

――未来の話をしましょう。この先のキャリアにどんな目標を持っていますか?

「セリエAを指揮する18人のひとりに入っているだけで、すでに大きな成功であることは間違いない。それだけでなく、周囲からいい監督だという評価を受けていることも、重要なことだと思う。ビッグクラブを目指す資格があると考えられているということがね。でも、実際にこれからどうなるかは誰にもわからない。

私はずっと、チームを選ぶ時に重要なのは決して名前ではない、と考えてきた。大事なのはどんなプロジェクトか、どんな目標を双方、つまりクラブと監督が持っているのかということ。

だから、もしローマやインテルやミランやユヴェントスに呼ばれたとしても、無条件で受けることはあり得ない。大事なのはクラブからの信頼、お互いが共通の考え方に立っていること。それがないのなら、私はキエーヴォに残るよ。それで何の問題もない」

――今シーズンに向けて、パルマからオファーがあり、サッキと話し合いましたよね。

「ああ」

――パルマのプロジェクトに説得力がなかったということですか?

「まだ2月だったんだ。まだ早過ぎた。あまりに早過ぎたんだ。向こうはすぐに話を決めたかった。でも私は……」

――行く準備がなかった?

「タイミングが合わなかったんだ。いや、準備はあったよ。でもキエーヴォとの間でそういう話をするタイミングじゃなかったし、話を進めるための時間もなかった。お互いの立場を尊重すると、あそこでパルマにOKというわけには行かなかった。

でもキエーヴォに残ったことには満足しているよ。今この時点では、他のどんなチームとも取り換えたいとは思わないね」

――デル・ネーリを代表監督に、という声もありました。

「まあさっきも言ったんだけど、もちろん嬉しいことだし刺激にもなるよ。私をいい監督だと評価してくれているのだから。監督としての手腕だけでなく人間性も評価されていることを祈りたいね。そうじゃないとしたらちょっとがっかりだ。このふたつの側面は同じように重要だと思うから。

たとえば、人間としての真摯さ、真面目さというのも、監督を選ぶ上では重要な要素だと思う。もしそれを評価してもらっているならば嬉しいことだよね。いい仕事をして、人間としても愛されているということを意味するわけだから。それはすごく重要な評価だと思う。

でも、私が代表監督になるのか、ミランやユヴェントスやインテルに行くのか、ずっとキエーヴォに残るのか、それはまだわからない。チャンスがあればキエーヴォを離れたいというわけではないからね。もし離れるならそれにふさわしい、自分が向上できる環境が必要だ。

次の目標のために動くことになるんだろうね。キエーヴォがスクデットやチャンピオンズ・リーグを勝ち取る可能性はまずないだろうから。そういう目標のためならば、もちろん他の条件が揃っていればだけれど、動くことはあると思う。

そうじゃなければ一生キエーヴォにとどまってもいいと思っているよ。そうさせてくれればの話だけどね」

――キエーヴォでもいつかある時、スクデットを勝ち取れるかもしれないし。

「いや、それはすごく難しいことだと思うよ。このクラブがそれだけの力を持つことは……、う~ん、やはりあり得ないね。20年前よりもそれはずっと難しくなっているから。

もちろん今のように戦い続けて行くことはできるし、それを維持して行くことならば可能だと思うけど。でも現状でもすばらしい成功であることには変わりないからね」

――最後に、セリエAでプレーする日本人選手について話しましょうか。中田と中村という2人がいます。

「ふたりは良く似ているよ。良く似ている。どちらもテクニックがある。イタリアのサッカーというのは、非常にフィジカルの要素が強いけれど、彼らはテクニックがとても優れている。

でもフィジカル的にはおそらく、平均以上のパワー、強さは持っていないだろう。でもとても興味深い選手だと思う。中村はレッジョでよくやっている。テクニック、フリーキック、スピードがあって、1対1も強い。レッジーナが残留争いから抜け出すために大きな武器になると思うよ。

中田はもう何年もイタリアにいる。最高のシーズンはペルージャでプレーした年だったと思う。あの年はすごくよかった。だから2人とも非常に良くやっていると思う。

日本の選手というのは、少なくとも一般的にいって、フィジカルというよりはテクニカルなプレーヤーであることが特徴だと思う。だから日本人を選ぶということは、フィジカルではなくテクニック、量よりも質の選手だということが、予めわかっているはずだ。

日本は質の高い選手を生み出してきたと思う。稲本も日本人だよね。彼は2年前に我々も獲得しようとしたけれど、とてもいいMFだと思う。アーセナルも狙っていて、彼の要求額が大き過ぎたおかげで我々は獲れなかったんだけれど、個人的にはとても気に入っていたんだよ。あのスピード、前線への走り込みの鋭さ。結局逃げられてしまったけれど、欲しい選手だった」

――今はどうですか?

「今はノーだね。2年前、いや去年だよ。BからAに昇格を決めた最初の年だ」

――今もマスコミはキエーヴォが日本の選手に興味を持っていると報じていますが……。

「さあね。私が知っているのは、うちのスカウトが世界中を回って選手をチェックしていることだけだよ。日本もその中に入っていて、よく観に行っているはずだ。

でも同じことは、ブラジル、スウェーデン、デンマーク、イングランド、どこにでも言えるからね。
何というか、可能性はあると思うけど。でもまずその選手がキエーヴォのサッカーに合っているか、獲得できる価格かどうかが問題だね」

――これで終わりです。長時間ありがとうございました。

(2003年1月29日・ヴェロネッロにて)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。