セリエAもいつのまにか終盤戦。昨シーズン同様、あと11試合を残したこの時点でも、スクデットの行方はまったくわからないという混戦状態である。

トップのユヴェントスから5ポイント差以内の「射程距離」にある2チーム(ラツィオ、ミラン)はもちろん、その下のインテル、ローマにも、僅かではあるが可能性は残されているといっていい。手に汗握る白熱の優勝争いはまだまだ続くことだろう。

今週からは欧州カップも再開した。こちらも、チャンピオンズ・リーグに2チーム(ラツィオ、フィオレンティーナ)、UEFAカップに4チーム(ユヴェントス、ローマ、パルマ、ウディネーゼ)が参加しており、興味は尽きない。

これから2ヶ月近くの間、セリエAと欧州カップを合わせればほとんど毎日のように(正確には月、金を除く週5日間)、シーズンの行方を左右する重要な試合が続くことになる。

もちろんこれはイタリアだけの話ではなく、スペイン、イングランド、ドイツなどどこでも同様。まさに「欧州戦線クライマックス」という感じで、ヨーロッパサッカーファンにとってはこたえられない季節がやってきた。
 
…はずなのだが、ここイタリアで日々、カルチョの「空気」に触れていると、どうもそうわくわくした気分にはなれない。ピッチの上での戦いはともかくとして、それを取り巻くカルチョの世界で起こっている出来事が、あまりにも見るに耐えないものだからだ。
 
最も目に余るのは、審判の判定を巡って毎週毎週飽きることなく繰り返される終わりのない論争。イタリアのマスコミがスローモーションを駆使して審判の誤審をあげつらい、叩くのは今に始まった話ではないのだが、最近はこれにクラブ首脳や監督までが便乗。

大事な試合でポイントを落とすたびに、「存在しないオフサイド」を取ったり「笛を吹いて当然のPK」を与えなかった審判を槍玉に挙げ、抗議と泣き言を連ねている。

「ロスタイムに入って、ありもしないPKで大事な2ポイントを落とすなどという馬鹿げたことは絶対に受け入れられない」(マルチェッロ・リッピ/インテル監督:2月6日、パルマ1-1インテルの直後)

「あの審判はトッティの正当な抗議を子供扱いして、逆に挑発した。彼が退場に追い込んだようなものだ」(ファビオ・カペッロ/ローマ監督:2月13日、ペルージャ2-2ローマの直後)

「割を食うのいつもラツィオだ。毎試合毎試合、明らかに不利な判定が下されるのを黙ってみているわけにはいかない」(セルジョ・クラニョッティ/ラツィオ会長:2月14日、ラツィオ0-0パルマの直後)

「ラツィオは、相手の選手11人だけでなく審判も入れた12人と戦わなければならない」(スヴェン・ゴラン・エリクソン/ラツィオ監督:2月18日、ミラン戦を控えて)

こうした発言の裏に、あわよくば次の機会にはこちらに不利な笛を吹くのを一瞬躊躇してくれるかもしれない―という計算が働いていることはいわずもがな。いってみれば「ゴネ得」の発想である。というか、間接的に審判を強請っているようなものだ。

セリエAの監督の中でも異例に潔癖で正義感の強い(別の言い方をすれば「青い」)パルマのアルベルト・マレサーニ監督は、上に引用したリッピの発言に応えて「ああやって文句を言うのは正しい。

それが得になるのを知ってやっているのだから。でもその手のゴネ得はもういい加減にやめようと言いたい」と正論をかざして挑んだが、リッピはもちろん、この発言の中で引き合いに出したミランのガッリアーニ副会長やユーヴェのモッジGMからも集中砲火を浴びて沈黙。その後も彼らの抗議や泣き言が止む気配はない。
 
ま、「ゴネ得狙い」に限れば、この国の場合、カルチョの世界に限った話ではまったくなかったりもするので、ある意味では仕方がないと見過ごすこともできなくはない。しかし、少なくとも数年前までは、これほど見るに耐えない事態は起こらなかったことも事実。

では何が変わったのだろうか、と考えると、思い当たるのはやはり「カルチョのビッグ・ビジネス化」である。

ラツィオのクラニョッティ会長は、昨シーズンのスクデットを失う直接の要因となったフィオレンティーナ戦(33節)で、サラスへのPKを審判が見逃したことに触れて「これだけの投資が、審判のミスひとつで無駄になっていいはずがない」と語った。

かれら経営者にとって、プロサッカークラブの経営は、サッカーへの「情熱」の問題ではなく、純粋に「ビジネス」の問題であることを、これほど端的に象徴する発言はないだろう。

クラニョッティに限らず、何人かのビッグクラブ首脳の発言を聞いていると、ビジネスである以上、投資に見合った利益が回収できないのはおかしい、とさえ思っているように見えてくる。

今やビッグクラブの経営規模は、数年前とは一桁違う100億円単位にまで膨れ上がっている。ひとつの試合、ひとつの判定が左右する「マネー」が大きくなった分、それに対してより神経質になるのは、「経営者」の立場からすればある意味では当然ということもできなくはない。

しかし、たとえどんなにビジネス化が進もうとも、サッカーというゲームはひとつの「スポーツ」であり、またそうであることがビジネスの前提でもあるはずだ。「スポーツ」である以上当然の「前提」として受け入れるべき、審判の判定の「誤差」をめぐる抗議と泣き言を繰り返すクラブの首脳や監督たち、そしてそれをことさらに大きく取り上げて囃し立てるマスコミには、いい加減うんざりさせられるというのが正直なところである。

この手の出口のない議論が、ピッチの上での出来事を脇役に追いやってしまうというのは、どう考えても尋常ではないのだが、実際、毎日の新聞もTVのスポーツニュースも、このところ本当にそればっかりなのだ。先週、この連載をお休みしてしまったのもそのせい、というわけでは決してないのだが…。(この項続く)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。