今週のヨーロッパは欧州選手権予選ウィーク。大詰めを迎えつつある各国のチャンピオンシップはお休みで、3/27(土)と3/31(水)には多数の予選マッチが行われた(NATO軍によるユーゴ空爆で、旧ユーゴスラヴィア関連の試合は延期になったが)。

デンマーク、スイス、ウェールズ、ベラルーシと共にグループ1に入っているイタリアは、27日のデンマーク戦で、苦しみながらも2-1で勝利。最大のライバルとのアウェイ戦を制したことで、予選突破はほぼ確実、という空気も漂ったのだが、31日に行われた格下のベラルーシ戦はホームにもかかわらず1-1の引き分け。4戦を終えて3勝1分(10ポイント)と、グループトップには違いないが、試合内容の悪さも含めて、先行きに不安を残す結果となった。

とはいえ、格下相手に初戦を落としたドイツ、スペイン、イングランド、すでに2引き分けでウクライナに先行を許しているフランスなど、出足で躓いた他の強豪と比べれば順調な足取りではある。
 
ヨーロッパの場合、面白いのは、A代表の欧州選手権予選およびワールドカップ予選と、2年ごとに行われるU-21の欧州選手権予選がシンクロしているところ。もちろん、本選は別の時期に行われるが、予選に関しては、A代表のグループ分けと試合スケジュールがそのままU-21にも適用され、両者が同じ相手と同じ日程で戦うのである(会場と時間は別。U-21の試合がAマッチの前日に行われることもある)。

したがって、原則的に1人の選手がこの2つのチームを掛け持ちするということは起こらない。もちろん、まだA代表に「定着」するまでに至らない21歳以下の選手が選考から漏れたときにU-21に召集されることはあるが、一旦A代表に定着した選手は、U-21を「卒業」するのが普通である。日本の小野のように、ひとりが同時に3つの代表に参加することなど、ちょっと考えられない。

注)ちなみに、ヨーロッパにはオリンピック予選がない。U-21欧州選手権がそれを兼ねているからなのだが、この事実からもわかるように、ことサッカーに関しては、オリンピックそのものがあまり重要視されていないところがある。これはおそらく、IOCのアマチュア規定が緩和される以前に、すでにUEFAの中でW杯と欧州選手権を軸にしたシステムが出来上がっており、現在もそちらを中心に動いているからだろう。
 
さて、他の欧州諸国の事情は知らないのだが、ことイタリアに関していえば、U-21代表への社会的関心は、この国のサッカー熱と比べれば決して高いとはいえない。イタリアのU-21は決して弱いわけではなく、それどころか92、94、96年と3回連続して欧州選手権で優勝している強豪なのだが、にもかかわらず、98年大会の予選であっけなく敗退した時、マスコミも大衆も、全くと言っていいほどそれを問題にしなかった。

大会のシステム自体がA代表のそれに従属しており、その影に隠れているせいもあるのだろうが、それにしても、A代表に対してはあれほど要求水準の高いイタリアだけに、この温度差は意外だった。もちろん、本大会で勝ち進めば注目は集まるし報道もされるのだが、その時でさえも、メンバー選考やチームの戦術を取り上げてあれこれ批評するということは全くといっていいほどない。

U-21でこれだから、それ以下のカテゴリーに至っては、スポーツ新聞でさえ試合結果を取り上げる程度。イタリアがワールドユースに出場するかしないかなど、一般の人はほとんど誰も知らないのではないだろうか。
 
この「温度差」の背景にあるのは、おそらく、このレベルの代表チームでは勝敗はそれほど問題ではない、という考え方だろう。U-21、ましてやU-19のレベルで強いチームであることが、A代表の未来に直結しているわけではない、ということを、マスコミも大衆もよく知っているのだ。

20歳前後というのは、サッカー選手としては、まだ完成されているとはいえない年代である。もちろん、技術や基礎的な運動能力といった「素質」のレベルでは、この時期までにほとんど「目星」はついているし、それに基づく選別もされてきているのだが、ここからトップレベルまでの道のりはまだまだ長い。

事実、実戦的な応用技術や総合的な身体能力、戦術的なインテリジェンス、プレッシャーに耐えられるメンタリティと強固なパーソナリティーといった、「完成された」選手に必要な要素をどれだけ高められるかは、むしろ20代前半の数年が勝負である(25歳を過ぎても伸びる部分はまだいくらでもある)。

トッティ、デル・ピエーロ、ブッフォンといった本当の天才ではない限り、国を代表できるだけの選手になれるかどうかは、「素質」から先の、むしろ「成熟」の問題なのだ。

20歳の時にはまったく目立たなかった選手が、5-6年経った時には代表でレギュラーを張っている、というのも珍しい話ではない。「素質」で劣っていても、きちんと「成熟」することができれば、トップレベルで戦える選手になることは十分に可能なのである。

それがわかっているからこそ、まだ「一人前」ではない選手で構成されているU-21代表には、誰も「結果」を求めたりはしないし、クラブのレベルでも、20歳そこそこの選手の評価や判断を急ぐことはない。
 
ぼくは日本の現在の状況について詳しく把握しているわけではないのだが、ネット経由で知りうるオリンピック予選やワールドユースをめぐる報道や議論を見ているだけでも、イタリアの状況とは大分異なっているだろうことは察しがつく。

そこから受ける印象をひとことでいえば、彼らに対する要求水準、あるいはその質がA代表に対するそれとほとんど変わらないようだということ。正直言って、そこまで求めなくとも…(あるいは、そこまで騒がなくとも…)と思わないでもない。

話が少々飛躍することを承知で言うのだが、日本の場合、「素質」だけでもてはやされ、「成熟」することができないまま、湯浅氏いうところの「才能の墓場」に向かう選手が少なくない一方で、まだ「素質」だけである程度やっていける20歳そこそこの段階で、「成熟」の機会を与えないままに、ひとりの選手に対する評価・判断を性急に下してしまう傾向があるようにも見える。

ある程度出来上がった選手を「使う」ことはできても、「成熟」させる、という意味で選手を伸ばし育てることのできるコーチがまだまだ少ないのではないか、とも思う。

若い世代に新たな才能が続々と育って来つつある時期であり、また、プロとしてプレーを続けながら「敗者復活」を期すことのできる下部リーグの裾野がまだ狭いということもあるのだろうが、セリエBやCでの何年かの下積みを経て、25-6歳でトップレベルに這い上がってくる好選手も少なくないイタリアの状況を見ていると、もしかしたらまだまだ「伸びしろ」を持っていたかもしれないのに、「リストラ」されてしまった日本の選手たちには同情を感じずにはいられない。

「若い才能」をもてはやすのもいいが、かつての森保のような選手がもっと出てくるような環境がないと、日本のA代表も本当に強くはならないのではないかという気がするのだが…。 

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。