1958年のワールドカップで準優勝したスウェーデン代表のキャプテンであり、50年代ミランのシンボル、監督としてもミランとローマにスクデットをもたらした偉大なフットボーラー、ニルス・リードホルムが、11月6日に亡くなりました。87歳でした。

追悼の意を込めて、そのリードホルムからミランのキャプテンマークを受け継いだチェーザレ、リードホルム監督の下で16歳の時にセリエAデビューを果たしたパオロというマルディーニ親子が、自分たちとミラン、そしてミラノのつながりについて語ったモノローグをアップします。

リードホルムの話が直接出てくるところはほとんどありませんが、彼ら親子こそ、リードホルムに始まり、この50年間でたった5人という「ミランのキャプテンの系譜」の正当な継承者であるという意味で。

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1. チェーザレ・マルディーニ

私の故郷は、イタリアの東のはずれにあるトリエステという港町。1932年生まれだから、今年でちょうど70歳になった。月日が経つのは早いね。

私の子供時代は、ちょうど戦中・戦後の混乱期と重なっていたから、社会全体がいろいろな困難を抱えていた。ごく普通の中流家庭だった私の家も生活は楽ではなかったけれど、一人っ子だったせいもあって、過保護なくらいに可愛がられて育ったよ。

そんな時代でも、ボールひとつあればサッカーはできる。私たちの世代はみんな道端でボールを蹴りながら育ったものだよ。本格的にサッカーを始めるのも、今よりはずっと遅かった。私も14歳で地元のトリエスティーナ(現在セリエB)にスカウトされるまでは、地元の公民館や教会のチームで草サッカーに興じていたんだよ。
 当時の若者にとっては、スポーツをすることはある意味で仕事と同じだった。優秀な選手なら、クラブが家族を経済的に助けてくれたからね。トリエスティーナも私の家にそうしてくれていた。当時はそれが普通だったし、そうやって私も、プロのサッカー選手への道を歩み始めたわけだ。

 当時トリエスティーナはセリエAで戦っていて、私は20歳でプロの世界にデビューすることができた。そしてその翌年、レギュラーとして1シーズンプレーした後、ミランからオファーが来て移籍することになったんだ。1954年のことだよ。

トリエステのような地方都市から、22歳の若者が単身ミラノに出て行くというのは、まあ、言ってみればエルドラド(黄金郷)に成功を求めて旅立つようなものだった。ミラノはイタリア有数の大都市だし、ミランというチームも、カルチョの世界では最高峰のひとつだったからね。家族と離れて暮らす寂しさや不安はあったけれど、若者にとっては目の前に開けている希望や可能性の方が大きく見えるものさ。

長いこと鉄道に揺られてミラノに着いて、初めてミランのオフィスを訪ねたときはびっくりしたね。ヴェネツィア通り36番地にあった建物は、歴史的なモニュメントのように立派な作りで、玄関にたどり着くまでに何段もの階段を上らなければならなかった。地方から旅行鞄を下げて出てきた若者にとっては、まるで天国への階段のように思えたものだよ。

当時のミランは、ノルダール、リードホルム、スキアッフィーノといった世界的なプレーヤーを揃えた黄金時代だった。入った最初の年(54-55シーズン)にすぐにスクデットを勝ち取ったよ。もちろん私の功績じゃないがね。でも、それから12年間、34歳までミランでプレーする間には、たくさんのタイトルを手にしたよ。

スクデットは4回獲ったし、イタリアのチームで初めて欧州チャンピオンズ・カップを勝ち取ったのもミランだった。私はそのチームのキャプテンだったんだよ。

当時はカテナッチョの時代だったって?ノー、ノー。その言葉は好きじゃないね。昔も今も、ミランには積極的にボールを回してプレーするという伝統がある。インテルはそうじゃない。今の両チームも同じでしょう?伝統というのはそういうものなんだよ。テクニックを大事にして、ボールをキープして焦らずに攻める。

ミランのサッカーにはいつの時代にも、ミランらしさというものが刻まれているんだ。私自身、ディフェンダーとしてはテクニックのある方だった。自慢じゃないが、何でもかんでもラインの外に蹴り出すようなディフェンダーじゃなかったよ。

結婚したのは31歳の時。それまではずっと、ミラノに出てきた時にクラブが用意してくれたホームステイ先で、家族の一員のようにして暮らしていたんだ。私は真面目だから、ずっとサッカーが生活の中心だったし、他のことに気を取られているヒマが本当になかったんだよ。

でも、結婚してからは、たくさんの子供にも恵まれて、賑やかな素晴らしい家庭を築くことができた。これは私だけでなく、妻も含めて家族全員の大きな喜びだよ。子供は6人。最初の3人が娘で、下の3人が息子。その長男がきみたちも良く知っているパオロ・マルディーニというわけだ。

私が幸運だったのは、いい妻に恵まれたことだよ。彼女ひとりで6人の子供を育て、教育したようなものだからね。プロのサッカー選手という職業についていると、子供の教育ということに関しては、ほとんど何もできないものなんだ。

練習と試合と移動とで成り立っている人生だからね。子供の教育や学校のことは、ほとんど妻に任せっきりだった。正直言って、私は大した貢献はできなかったよ。いまこうして立派に育った子供たちを見ると、彼女には感謝してもしきれないくらいだね。

正直言って、自分の息子がプロのカルチャトーレになるなんて、思いもしなかった。ところが、学校の子供たちと一緒にサッカーをやっているのを見て、これは何かあると思った。才能がある子供というのは、その身のこなしを見ればすぐにわかるものだからね。

パオロの弟のうちひとりは、子供の頃にはパオロ以上に才能があるように見えたけれど、最終的には違う道を選んだ。人生というのは、無数の分かれ道で成り立っているものだからね。彼の場合はたまたま、そのどこかで別の道を選んだということだよ。

パオロが10歳になった頃に、ミランとインテル、どちらでも受けたいクラブのテストを受けられる可能性があった。どっちがいい?と私が聞いたら、あの子はミランがいいと言う。それでミランのテストに連れて行った。私がしたのは連れて行くことだけ。そこから先は、パオロが自分の力だけで、プロのカルチャトーレなら誰もが歩む道を歩んでここまで来たんだよ。

私はもう現役を引退していたけれど、家で顔を合わせたときには、しょっちゅうサッカーの話をしていたね。たくさんアドバイスをしたよ。特にプロになった最初の頃には、プロとして何をしなければならないか、何をしてはならないか、という話をいつもして聞かせていた。

例えば、単に毎週日曜日に試合に出てプレーすることだけが、プロサッカー選手の仕事ではない、というのもそのひとつ。この職業というのは、毎日の練習で自分を高め、規則正しい生活をし、規則正しい食事をし…、そういうことの全体として成り立っているもので、そのひとつたりとも疎かにしてはいけないということは、何度も繰り返して言ってきたことだね。パオロはそれを忠実に守った。守ったというよりも、自分からそう考えて実行したといった方がいいかもしれないね。

あの子は16歳でセリエAにデビューして、18の時にはもうミランのレギュラーになっていた。私もちょうどその頃、イタリア代表のテクニカル・スタッフを経て、U-21代表の監督になったところだった。監督と選手という関係になったのは、そのU-21に19歳のパオロを招集した時のことだよ。

おそらく私たちの関係はちょっと特殊だと思う。親と子が監督と選手として接するというのは、一般にあることじゃないからね。たぶん、いや間違いなく、私が監督であるために、彼から何かを奪った部分はある。

立場上、今日のマルディーニは素晴らしかった、今日はマルディーニが一番の功労者だ、といつも言うわけには行かなかったから。事実、私は一度もマスコミの前で『息子が』とか『私のパオロが』とか言ったことはない。『パオロ・マルディーニはいい試合をした』という言い方をするように心がけて来た。『パオロが』と口をついて出ることはよくあったけどね(笑)。

あの子も最初は私をちゃんとミステル(英語のMister)と呼んでいたよ。知っていると思うけれど、イタリアでは監督をそう呼ぶものなんだ。パパはいかんよ(笑)。もちろん時々思わず口をついて出るのは仕方ないけどね。

日本ではこういう時には親子じゃないふりをするもんだって?いや、少なくともここイタリアではそんなことは不可能だよ。どっちにしても、選手たちというのはすごく敏感だから、もし父親である監督が、どんな形にせよ息子を特別扱いしたり贔屓したりすると、すぐに気がつくものなんだ。でも、そうじゃなく、息子が試合に出るのは彼が優秀であり、チームにとって重要な選手だからだ、とわかれば、文句をいったりはしない。

私が本当に幸運だったのは、パオロがそんなことを思われる可能性がないほど優秀な選手だったこと、それだけでなく、U-21だけでなくA代表でも、おまけにミランでも監督として彼と一緒に過ごすことができたことだよ。一緒にワールドカップ(98年フランス大会)にまで出場したんだからね。

パオロは本当に立派な男に成長した。私はすごく誇らしく思っているよ。サッカー選手としての長いキャリアの中で、一度として羽目を外したことがない。偉大なプレーヤーだというだけでなく、人間としても誰からも尊敬される存在になった。父親としてはそれが一番嬉しいことだね。

パオロももう結婚して自分の家庭を築いたけれど、今でもしょっちゅう行き来しているよ。パオロのところは男の子が2人いて、上の子は今年から学校に通い始めた。結婚した娘たちもこの近くに住んでいるし、いつも何かしら家族の行き来が絶えないんだよ。私と妻のふたりだけで夕食をとることなんて、まったくと言っていいほどないからね。いつもわいわいがやがや、楽しくやっている。マルディーニ家は“チーム”の結束がとても固いんだ。

私はトリエステの生まれだけれど、自分の街はミラノだと思っているよ。なにしろもう50年近くも住んでいるし、サッカー選手としてのキャリアを築いたのも、自分の家庭を築いたのもこの街だからね。

われわれトリエステ人というのは、ちょっとジプシー的なところがあってね。生まれ育った街を、仕事のために、あるいは新しい人生を追求するために出て行く人がすごく多いんだ。地方都市というのは、トリエステに限らず、人生の選択肢が限られているからね。私はうまくあの街から巣立つことができたと思っているよ。

時々何かのついでがあると、トリエステまで足を伸ばして子供の頃に過ごした場所に行ってみることはある。でもそれは、あの街が恋しいからというよりは、ちょっとした懐かしさや好奇心のためだよ。そうやって1日2日過ごすことはあるけれど、あそこが自分の街だという感覚はもうないね。私の街はミラノだよ。 

ミラノはいつも、イタリアで一番先進的な街だった。誰もが忙しく働いて、新しいことにチャレンジしそれを実現していく、バイタリティにあふれた街だよ。それは昔も今も変わらない。私はこの街のそういうところが好きなんだ。それと比べると、ローマは同じ大都市でも全然違う。ローマはとても美しい街だけれど、生活のリズムがずっとのんびりしている。ミラノはいつも忙しくしている。街を行く人はみんな速足で歩いているでしょう。トリエステから出て来た時から、この街の空気は私の肌に合ったし、実際、これまで一度も他の街で暮らしたいと思ったことはない。これからもずっとこの街で暮らして行くだろうね。
 
2. パオロ・マルディーニ

ぼくが生まれたのは1968年。6人兄弟の4番目で、長男です。兄弟が多かったこともあって賑やかな家庭で、いつも誰かが出たり入ったりしてましたね。父は、ぼくが子供の頃にはもうとっくに現役を引退していたけど、パルマ、パドヴァ、フォッジャといったチームで監督を務めたり、その後はイタリア代表のテクニカル・スタッフになったので、ミラノの家にいる時間は少なかった。ひとりでぼくたちの面倒を見ていた母は大変だっただろうと思います。

サッカーは、近所のサッカースクールで始めました。10歳の時に父から、入団テストを受けるならミランとインテルとどっちがいい?と訊かれて、より身近に感じていたミランを選んだ。それからずっと、このロッソネーロ(赤と黒)のユニフォームを着てプレーしているというわけです。もう24年になる。

小さい頃は、マルディーニという苗字を重荷に感じたこともありましたよ。ミランの育成部門に入った時には、誰もが、あれがマルディーニの息子だ、と思ってぼくのことを見ていたわけですから。10歳の子供なんてただ楽しいからサッカーをやっているだけだというのを、みんな忘れているんです。もちろん、プロになった時に父親と比較されるのは当然だし、仕方ないことです。でも10歳の子供にそれはちょっと重荷ですよね。

プロになることをはっきり意識したのは、たぶん、セリエAにデビューした時だと思います。まだ16歳で若かったけれど、十分通用することがわかったし、何というか、この世界でやって行けるという手ごたえを感じた。それまでは、もちろんプロになれればいいとは思っていたけれど、学校に行っていたし、他にも楽しみはあったし。10代前半で自分の将来についてはっきりした考えを持っている子供なんて、そんなにいるもんじゃないでしょう。

自分のキャリアが、ミランの黄金時代とぴったり一致したことは、本当に幸運だったと思います。フランコ・バレージもぼくと同じようにたくさんのタイトルを勝ち取っていますが、彼はミランの不遇時代、経営が不安定だったりセリエBに陥落したりした時代も経験していますから。

ぼくにとってミランは、自分の仕事場であるというだけでなく、それよりももっとずっと大きな何かです。ぼくはここで20年もの年月を過ごしてきた。サッカーをプレーすることは仕事であると同時に楽しみ、歓びでもあります。ぼくにとってその舞台は常にここだった。ミランのチームメイトやスタッフと苦楽を共にし、成長する中で、人間としても多くのことを学びました。ぼくにとってミランは、もうひとつの家族といっても過言ではありません。

ミランでも、そして代表でも、父が監督でぼくが選手、という関係を経験できたことは幸せでした。そんな経験ができる人は、世界でもそういるもんじゃない。でも、ぼくたちの間では、監督と選手という間柄にある時にも、いつも親子の関係の方が先に立ってきましたよ。そういうものでしょう?

父が代表監督になった時には、ぼくはもう何年もキャプテンをやっていたし、別にぼくが彼の息子だからそこにいるわけではないことは、誰もがわかっていた。でもそれはそれとして、彼がぼくの父親であるという事実は、ピッチの上でも外でも変わらないわけだし。

だからピッチの上でも、いつも“パパ”と呼んでいましたよ。自分の父親をわざわざミステルなんて呼ぶのは変だし馬鹿げてるじゃないですか。ぼくと父は親子であって、それがピッチの上ではたまたま選手と監督という役割を担っているに過ぎない。それだけのことですよ。

マルディーニ家の一員として両親から学んだことといえば、何よりもまず、家族の大切さですね。うちは大家族なんですが、みんなとても仲が良くて、いまでも結束がとても固いんです。ぼくにとってそれは、とても大事な価値ですね。それと、常に敬意を持って人と接するということ。このふたつは、特に大切に思っています。

いまはぼくも自分の家庭を持って、子供もふたりいます。父親という仕事を少しずつ学んで行くのは、とても楽しいし刺激的なことですよ。子供にとっていい父親でありたいといつも思っています。まあ結果はもっと先になってみないとわからないですけどね。

6歳になる上の子はもうボールを蹴りはじめていますが、ただ楽しくてやっているだけ。サッカー選手になれとか、そういうふうに要求したり強制したりするつもりはまったくありません。彼が望む人生を歩んでくれればそれでいい。父もぼくには何一つ強制しなかったし、ぼくもそうするつもりはありません。父親として、ノーと言うべき時はノーと言わなければならないと思いますよ。でも、父がぼくにそうしてくれたように、自分で決めた道を歩むのを愛情を持って見守り助ける、それが父親としてのぼくの仕事だと思っています。

ぼくは父とは違って、ミラノ生まれのミラノ育ち、100%のミラネーゼです。一般的にミラネーゼというのは、いつもせかせかと忙しく働いていると思われているものですが、確かにぼくにもそういうところがありますね。落ち着いてぼーっとしているのは好きじゃないし、いつも何かしらすることがあって忙しいほうが性に合っているんです。そういう点では、自分は典型的なミラネーゼだと思いますね。

ミラノは美しい街じゃないかもしれないし、ここで暮らしていると混雑とか渋滞とか、ストレスのたまることも多いけれど、いつも何かが起こっていて活気に満ちあふれている。ぼくはミラノのそういうところが好きです。リラックスしたいときは、ここミラネッロに来ればいいんだし。ミラノから出て行くということは、ミランから出て行くということだから、それは一度も考えたことがないなあ。

イタリア代表は今年のワールドカップを最後に引退しましたが、ミランのキャプテンとして、少なくともあと2シーズンは現役でプレーするつもりです。ぼくはサッカーというスポーツが心から好きだし、プレーするのが今でも本当に楽しい。その気持ちがある限り、そして身体がついてくる限りは、続けて行けると思っています。

父とぼくの時代を比較するのは難しいですね。50-60年代と80-90年代では、サッカーは大きく変わりましたから。でも、ミランが偉大な結果を残したという点では同じです。ミランには、父やぼくがそうであるように、長い間このチームに残りバンディエーラ(チームのシンボル、旗印)として大きな貢献を果たしてきたキャプテンの系譜があります。そこに親子で名を連ねているのは、本当に誇らしいことだと思っていますよ。■

(2002年11月10日/初出:『Number PLUS』「イタリアを極める」)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。